7.5 満ちぬ月下
寝静まった少女の部屋に、小さな影が入り込む。
「ねぇ、シエル」
眠る少女を起こさぬように、その小さな影、リアが少女の胸に潜む結晶、シエルへと語りかける。
『どうされました』
シエルは変わらぬ調子でリアへと聞き返す。
「……さっきの話。どうしても聞きたいことがあって。大丈夫かしら」
『構いませんよ。答えられることなら答えましょう』
リアの視線が、眠っている少女へと向けられる。
「その前に、場所を移しましょうか。ミタカに聞かれない場所で話をしたいの」
真剣そのもののリアの表情からは、先ほどまでの愉快なけんかをするためなどではない、というのはシエルにもすぐ理解できた。
『ご心配なく。疲労の効率的な回復のために、マスターには深い眠りにつかせています。あと数時間は起きませんよ』
そっか、と安心したようにリアがつぶやくと、彼女は窓枠に腰かけた。
「明日の戦いのことなんだけど」
『フェンリルとの一戦のことですか』
「うん。あの前提だと、ミタカの力を最大限引きだしても、どううまく行っても相打ちにしかならない。違うかしら」
『ええ。マスターが接近したところで、フェンリルを打倒するのは難しい』
「それを分かっていながら、あんな提案したんだ」
リアは窓に寄りかかる。その視線はわずかに欠けた月へと向けられていた。
その口調は糾弾するようなものではなく、純粋に興味本位の質問のようであった。
『えり好みをする余裕があれば、別の策を提供する余裕も生まれますが。現状では手段がありません』
「……そうね。今のワタシたちにとって、こんな質問に意味はなかったわ」
やれやれ、と言いたげにリアはため息をつく。
「シエルがわかってやってるなら、それでいいわ。覚悟の上なら、ワタシに口をはさむ権利はないし」
シエルからすれば、それは必要以上の心配だ。少なくとも、リアがそこまでシエルに対して気を配る必要などない。
『リア。差し出がましい、とはわかっていますが今一度忠告です』
「なによ」
リアの返事は疎ましげだが、シエルはそれを意に介せず話を続ける。
『この戦いは、「私たち」の戦いにすぎません。リアも、ソレイユも、戦う力がないなら逃げればいい。魔王はそれほどあなたたちに執着はしないでしょう。この世界の支配、という結果を求めるだけですから』
「そうね。そんなの知ってる」
ぶっきらぼうに言い返すと、リアは窓枠を離れて再度宙を舞う。
「自分の命だけ考えるなら、それが最善なんだけど。でも、ソレイユはきっとそんなことしない」
『……そうですか』
「そうなのよ」
シエルにとっては、リアの返事は予測できた回答だった。それでも、友人として、告げなければならない忠告だからこそ、声にした。
「それに、ワタシもそんな彼女が気に入ったから一緒にいるわけだし。アンタも、ソレイユと、そしてミタカが気に入ったから力を貸してるんでしょ?」
『残念ながら、そんな感情は私にはありません。ただ、彼にとっては私の力が適合し、私にとっては彼の力が役に立つ。それだけです』
「ふうん。ただの利害関係ってわけだ」
『ええ。少なくとも私にとっては』
リアは背を向けると、ドアノブに手をかけた。
「……アンタが何を考えてるかなんて、なんとなくわかってる。でも、自分の心を犠牲にしよう、なんて間違ってるわ」
『自分の命を犠牲にしようとしている人の言うセリフではありませんね』
振り向きながら、おどけたようにリアは笑った。
「あら。わかっちゃった?」
『素性のわからないあなたと出会って百年にはなります。察しくらいはつく、というものです』
「……素性のわからない、なんて今更面白いこと言ってくれるのね。妖精なんだから、当然でしょ」
妖精の多くは、自然から生まれるとされる。いつ生まれたのかも、どこで生まれたのかも、妖精たちは知らないことが多い。
『そんなことも気にならなくなるほど、付き合いが長い、と言っているのです』
リアは不意を突かれたように少し目を見開いた。
「……もしかして、シエルなりのユーモアだったりする?」
『真面目に話しているつもりですが』
シエルの返答を聞いて、リアの顔が少しほころんだ。
「百年とちょっと経つけど、やっぱりアンタのことはわかんない」
『顔に出ないタイプですから』
クスクスと、リアの笑い声がした。
「気を遣ってくれてるのかしら」
『……事実を述べているだけなのですが』
「そ。生真面目なくせに面白いのよね、アンタ。そういうところ、嫌いじゃないわ」
『…………』
シエルはリアの評価に不満でもあるのか、押し黙ってしまった。
「だから、じゃないんだけど。ワタシからもシエルにアドバイス」
『アドバイス、ですか』
「どんな目的があっても、自分の想いまで殺しちゃだめよ。目的を果たしたころに、その心が凍り付いてしまうから」
リアの影の差した表情は、その言葉は彼女の実体験から来たものではないか、と想起させた。
『心にとどめておきましょう』
「余計なお世話なのはわかってるけどね。それじゃ、互いにせいぜい頑張りましょ」
リアはそう言い残すと、小さな体で器用にドアノブをひねり、この部屋を後にした。
シエルは一人、先ほどの忠告を振り返る。
『……その言葉は、百年ほど遅かった』
すでに、シエルの心は凍り付いている。
百年前のあの日から。
それでも、遠き日の彼との約束は守らなければならない。
【少しでも、平和な世界を】
『何よりも、この誓いだけは必ず』
満ちぬ月の下。歪な誓いが再度、彼女の心に刻まれた。