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エピローグ:月は太陽に手を伸ばす

 頭上にけたたましい音が響く。


 寝ぼけた頭でその音源をつかみ取る。


 手の中には小さい画面があり、そこには友人の名前が映し出されていた。


「……もしもし、どちらさまですか」


 不機嫌さを隠せていない声で電話の向こうに返事をする。


『ようやく出たか。わざわざ言ってやるべきかな』


「いや、大丈夫」


 画面に名前が表示されていたのだから、友人なのは聞くまでもなくわかっている。


『それで、お前はこの三日間何をしてたんだ』


「なに、って言われても今は夏休み……だったと思う。何をしててもいいだろう」


 オレの返答がお気に召さなかったのか、電話向こうの友人は舌打ちをしてくる。


「どうしてそんなに嫌そうなんだよ」


『……お前は夏休みでも最初の一週間は半日授業があるのを忘れてたのか?』


 怒りを画面の向こうからでもにじませる言葉の圧で、ようやく思い出した。


「……ああ、そんなのもあったかもしれない」


『そんなの、で済ますんじゃねぇよ。ま、反省してるならいいんだ。さっさと学校に行って先生にも元気な顔を見せてやれ』


「そうだな。オマエにも迷惑かけたよ」


『まったくだ。ちゃんと今日は出て来いよ』


 それだけ言うと、電話は途切れた。


 画面には六時を少し過ぎた時計が映し出される。


「ちょっと早すぎるんじゃないか」


 ぼやいてはみたが、同時に心配されての電話だったので怒るに怒れない。


 とにかく、学校に行くというのであればさっさと着替えなければならない。


 布団から這い出て、そこで気が付く。


 どうして、寝ていたはずなのに制服を着ているのだろう。


 昨日のことを思い出す。


「そうだ、昨日は――」


 大地を操る魔術師と。


 風を纏う奇術師と。


 氷を司る魔獣と。


 炎を背負う少女と。


 最後に、そのすべての頂点の魔王と。


 死闘を繰り広げたはずだ。


 家に帰ってきた記憶なんてない。


「なあ、シエル。最後は結局――」


 首元をつかむ手は空を切る。


 そこには、何もなかった。


「――――」


 左腕のブレスレットもない。


 ボロボロになったはずの制服は元通り。


 体に負ったはずの傷は一つもない。


 まるで、あの戦いが夢だったかのように、そのすべてが消えていた。


「そんな、はずはない」


 言いようもない不安を吹き飛ばすために、家を飛び出した。






 外に出て、走る。


 目指すは、あの洋館だ。


 駅前の通りを抜けて、人だかりを避けて、住宅街へ走る。


「よう、三鷹。ってこっちは逆方向だぜ?」


 目の前にさっきの電話相手の友人がいた。


 彼の家は住宅街の一角だし、登校途中なのかもしれない。


「悪い、今日も欠席にしといてくれ」


「どういうことだ?」


 何も知らない彼は困惑している。


 だけど、かまっている暇はない。


 返事なんて聞かずに、住宅街を駆け抜ける。




 この重い体が恨めしい。


 息が切れる肺がうっとおしい。


 けれど、立ち止まれない。


 走って、走って、走って。


 ようやく、目的地にたどり着く。


「――だめだ」


 けれど、意味がなかった。


 魔術の結界に守られているのか、それとも元からなかったのか、どうやっても洋館にたどり着けない。


 シエルが居ないからか、それとも元からオレには魔法を理解することができなかったのか。どっちにしても今のオレには真偽はわからない。


 洋館にたどり着けないのであれば、どこでもいい。昨日行ったところへとたどり着けば、証拠は見つかるはずだ。


 まずは、水地の森近くの商店街だ。






 一時間もかけて、ようやく水地の森の近くの商店街についた。


 以前ソレイユと訪れた……と記憶しているときと、大きな変化はない。


 最初に立ち寄ったクレープ屋の屋台の店員なら、何か覚えているかもしれない


「あの、昨日ここを訪れたオレンジ色の髪の女の子、覚えてませんか?」


 店員は首をひねる。


「さあ、そんな子いたかなあ。さすがにそんな奇抜な髪色なら覚えていると思うんだけど」


 本当に、知らない様子だ。


 よく考えれば、ソレイユは魔法で目立たないようにしている、と言っていた。


 店員の印象に残ってなくても仕方ない。


「ううん、ごめんなさいね、思い出せないわ」


「いいえ、こちらこそ急に変なことをきいてすみません」


 そこにいるのが居た堪れなくなって駆けだすように逃げ出した。




 誰に聞いても、答えは同じだった。


 知らない、その一点張り。


 まるで、人の記憶から消えてしまったかのように。


 あるいは、元から足跡を残すつもりがなくて、だれにも見つからないように消え去ったのか。


 それとも――この記憶が偽りだったのか。


 でも、人の記憶に残っていなかったとしても、モノは残っているかもしれない。


 例えば、水地の森になら戦いの跡はあるはずだ。


 一縷の望みにかけるべく、水地へと向かうことにした。






 そこには、以前訪れた時とは比べ物にならない厳重な警備が敷かれていた。


 棒高跳びでもすれば越えられそうなフェンスは、返しがついて入るものをより拒む形状に。


 看板が置いてあるだけだったはずの警告は監視カメラまでつけて厳重に。


「ここから先は立ち入り禁止だ」


 そして、それを無視して侵入しようとして、警備員と思しき男性に止められた。


「別に、森に入るくらいかまわないでしょう」


 警備員はうーん、と首をひねる。


「こいつは秘密にしてくれよ」


 少しだけ声を潜めて、彼はそう言った。


 オレも了解したと小さくうなずいた。


「普段なら俺も構わないと思うんだけど、ちょいと、山火事があってね」


「山火事?」


「それに追われてクマが出没してるって話もある。そんで、山火事は放火が原因なんじゃないか、って話だ。これ以上森を燃やされてもかなわん、ってことでとりあえず警備を強化してるってわけだ」


 その山火事は、昨日の戦いのせいだろうか。


 それとも、本当にただの山火事だろうか。


「その現場を見せてもらうわけにはいきませんか」


 無理な要求をしたつもりはなかったのに、その警備員の顔が少し険しくなる。


「……つかぬことを聞くけど。もしも放火魔が火をつけたのだとして、ニュースにもなってないと知ったら。どういう行動をとるもんだろうか」


 答えはいくらでも考え付く。けれど、ここで彼が言いたいのは。


「現場に戻るかもしれませんね。本当に火がついたのかどうか、確かめるために」


「そういうこともあるかもしれない。だから、そんな現場に行こうとする人間がいれば本部の方に伝えなきゃいけないんだけど、それでも行く?」


 面倒な手続きを踏むことになるだろうし、そこまでいってもようやく焦げ跡が見つかるだけだろう。


 今は、痕跡があったかもしれない、という情報だけで十分だ。


「いや、大丈夫です。あなたもそんな面倒には付き合いたくないでしょう」


「よくわかってるね。ま、探し物くらいなら手伝うさ。好きな時に声をかけるといい」


「ありがとうございます」


 一礼してその場を後にした。




 少しずつ、情報が集まるようで何も進展しない。


 昨日の体験は夢だったのか、どうか。


 現実をつなぎ合わせたような幻覚だったのではないか。


 痛くも、熱くもない。ただ、胸の奥が苦しいだけ。


 現実離れした世界はどこにもない。


 一つでいい。


 証拠となりうる、確かなものが欲しい。


 幻であったのなら、忘れるしかない。


 けれど、現実であるなら覚えていたい。


 今まで見つけてきたものではそのどちらにもできない。


 あとは、昨日何をしていただろう。


 考えて、思い出す。


 シエルと最後の別れをした場所を。






 電車に揺られている。


 もう三十分はたったというのにまだつかない。


 忌々しい。電車なんぞを使わなければならないこの体が忌々しい。


 外の風景が雨に変わったのを見て、空を見上げる。


 急に雲がかかってきた。


 手持ちを探ろうとして、財布とスマホ以外何も持ってきていないことに気づく。


 月見の丘までは電車を降りた後も30分ほどは歩く。


 きっと、この天気の中を歩けばびしょ濡れになるだろう。






 貧乏ゆすりをすることしきり。


 ようやく、月見の丘の手前、地元の人間はほとんど降りなくなったバス停にたどり着いた。


 外に出ると、雨がさらに強く感じる。


 急いで近くのコンビニに飛び込む。


「いらっしゃいませ」


 入り口近くの割高な傘に手を伸ばす。


「700円になります」


 ホームセンターなんかの二倍の値段で、半分の強度の傘だが、それでも文句はない。


「ありがとうございました」


 買った傘を早速広げて、月見の丘へと向かう。






 以前駆け抜けた時より、住む人間のいなくなった住宅街は荒んでいるように見えた。


 昼間だから、よく見えるせいか。


 それとも、ゆっくりと歩くせいで見る時間があるせいか。


 崩れた柱の一つさえ、目に入ると気になってしまう。


 ひび割れた門に巻き付いたツタが、その年数を思わせる。


 電気だけは通っているのか、外の明かりだけがつきっぱなしの家もある。


 歩くたびに、その景色も自然に染まっていく。




 傾斜が少しきつくなってくると、急に家は少なくなり、木々が道を彩るようになってきた。


 雲の隙間から少しだけ見える太陽もずいぶんと傾いてきた。


 舗装などされておらず、雑草だらけの道を踏みしめる。


 雨と木々で視界が悪い中、坂を上る。


 あと、もう少しのはずだ。




 木々がなくなって、開けた先は焼野原となった丘だった。


 ところどころに燃え残った草花はあったけど、それだけ。


 のこりは土が顔を覗くような、荒野と化している。


「……これは、間違いない」


 しゃがんでその土を見てみれば、不自然にバラバラになった背の高い草や、灰となった枯れ草もある。


 草刈り、というには粗雑が過ぎる。


 もしも、理由をつけられるのなら、それは昨日の戦いに他ならないはずだ。


「幻なんかじゃ、ない」


 でも、まだ確信するには早い。


 この近くに、地下への入り口があるはずだ。


 そこの存在は、決定的な証拠となるはずだ。


「見つけた」


 思ったよりもすぐ見つかった。


 一度は行ったところだし、住む人間なんていなくなったのだから、魔法で隠れているはずもない。


 重い扉を開けると、その中の螺旋の階段が目にはいる。


 この先に、戦いの跡だけじゃない、さらなる証拠があるかもしれない。


 憶することなんてない。スマホの明かりを頼りに、一段ずつ降りていった。




 螺旋の階段は、崩落することなく健在だった。


 一歩降りるたびに外の明かりは遠ざかり、手元の小さなライトだけが足元を照らす。


 螺旋の暗がりがシエルとの記憶を思い出させる。


『あきらめても構わないのですよ』


 その言葉を口にしたときの彼女の気持ちはいかほどだったのだろう。


 このもどかしい気持ちを抱えるくらいなら、あの戦いで逃げるべきだったのだろうか。


 でも、逃げたのならこの悩みを抱えることすらできなかったかもしれない。


 あの二日間がぽっかりと消えたような感覚を抱くくらいなら、あきらめるべきだったのだろうか。


 あきらめたのなら、もっともどかしかったかもしれない。


 しかし、そんなのはわからない。逃げて、あきらめて、再起を図る方が――。


 ぐるぐると回るような思考の渦。


 それが止まる前に、階段の螺旋は終着を迎えた。


 白と黒の門が、そこにあった。






 その姿は健在だった。


 ひびなど入っている様子もない。


 取っ手に手をかけて、思いきり開く。


「――――」


 その先には白と黒のタイルが散りばめられている。


 けれど、扉と違ってその部屋はひびだらけ。


 次の部屋へとつながる道は崩落して通れそうにない。


 記憶の通りの光景だった。


 たった一点を除いて。


「――そうか、現実だったのか」


 部屋の中央には、砕け散った赤い結晶がそこにあった。


 アルカンシエルと名乗った、かつての相棒。


 その悲惨さから、もう二度と元に戻ることがない、とわかってしまう。


 見るまでもなく、わかっていた。


 もしも、幻であったのなら、忘れられたのに。


 現実であっても、出会うことさえなければ、どこかで生きているかもしれないと、そう思えたのに。


 見てしまった以上、その死は確定する。


「……」


 夢を見たい、なんてちっぽけな願いも、叶うことはなかった。


 ここにいられなくなって、入ってきた扉を開けて螺旋の階段を駆ける。


 行きとは違って、何も考えずに、ひたすらに。






 電車に乗って、座り込むまで、何も考えられなかった。


 結局、オレはどうしたかったのだろう。


 あの二日間は夢だったのだと、思い込みたかったのだろうか。


 それなら。取り返しようもない現実だったとしたら。


 その現実を否定するには――――。


「もし、お兄さん」


 少しずつ雲に切れ間が差してきた空を眺めて思考にふけっていると、向かい合った前方の座席から声をかけられた。


 杖を横に携えて、背中は丸まっているが、まだまだ元気そうな老婆だった。


 けれど、彼女は知り合いではない。


「ええと、何か御用でしょうか」


「いやあ、大した用じゃないんだけどね。若者がそんな悲しげな顔をしてるもんだから、つい声をかけちまったのさ」


 言われるほどに、表情が顔に出ていただろうか。


 ただ、目の前にいる老婆はただの他人。


 いらぬ気遣いも、妙な強がりも、不要だ。


「……なんというか」


 そう思ったら、口が勝手に動き出した。


「もう二度と会えない、という人がいて。その人のことを想うと、何とも言えない気持ちになって。……本当に、自分でも、この気持ちがわからない」


「そうかい」


 老婆は優しげな表情で、小さくうなずいた。


「その人は、大切な人だったんだろう」


 うなずいた。


「なら、胸に手を当ててみなさい。きっと、その人はそこに生きているから」


 いうとおりに、手を当ててみる。


『ありがとう、マスター』


 最後の言葉がよみがえる。


 楽し気な会話も、彼女と共にした戦場も、たくさんあったはずなのに。


 その最後の涙を流した笑顔だけが、離れない。


「……きっと、まだ整理がついてないんだろう」


 老婆から、一枚のハンカチを差し出された。


 それでようやく、自分が泣いていることに気が付いた。


「ゆっくりと、泣くといい。それで少しは気が済むだろうから」


 声は出さなかった。


 でも、ずっと、涙が止まらなかった。






「あら、もう駅に着いちまった。それじゃ、また会うときにでも返してちょうだい」


 老婆はそれだけ言い残してすぐに下りてしまった。


 礼を言う間もなく、もう電車は発車していた。


 手元には、一枚の濡れたハンカチ。


 もう、会うことなんてないだろうに、置いて行ってくれたらしい。


「ありがとう」


 礼なんて聞こえてないだろうけど、自然とそんな言葉が口に出ていた。






 電車を降りて、改札を出て、帰途につく。


 雨はいつの間にか上がっていて、代わりに辺りを蒸し暑さが支配していた。


 陽が沈むと一気に冷えてしまうだろうから、早く帰らないと。




 家に帰り、服を脱ぎ捨てて寝間着に着替える。


 そのまま体をベッドに投げ出すと、途端に眠気が襲ってきた。







 それからは、ずっと同じような夏休みを送っていた。


 朝起きて、着替えて、出かけて、帰ってきて、眠る。


 夏休み中の午前授業、なんていうものはすぐに終わった。


 多くの時間があった。


 その時間を使って、町中を捜し歩いた。


 水地の森に入って、戦いの跡を見てきた。


 繁華街で聞き込みをした。


 反対に、人通りの少ないところに行って痕跡がないかも確認した。


 けれど。


 何をしても、何も見つからなかった。


 一人の犠牲で救われたはずの少女と妖精の痕跡は、どこにも見つからない。






『最近は、奇怪な行方不明事件も発生しています。外出には――』


 ビルに取り付けられた巨大なテレビでは、ニュースキャスターが深刻そうな顔で何かを言っている。


 これだけ出歩いても一度もであったことはないし、行方不明事件、なんて言うのが本当にあるのかも怪しいものだ、と思った。


 すっかり日は沈んでいて、代わりに出てきた欠けた月には雲の傘があった。


 なんだか、今日は家に帰る気にもならない。


 目的地もないのに、夜の街をふらふらと歩き出す。






 ただ歩いているだけなのに、光景を幻視する。


 街のあちこちに興味を示す少女を。


 その後ろでからかいながらも見守る妖精を。


 ナビゲートをしながらも一緒に楽しむ結晶を。


 どうして、姿を現さないのだろう。


 書き置きの一つだってあってもいいだろうに。


 もうやるべきことがないからだろうか。


 興味を失ったからだろうか。


 それとも、もうこの世には――。


「……それでも」


 会いたい。


 この思い出が、間違いなんかではないと、誰かに証明してほしい。


 この感情が、一時の気の迷いなんかではないと言ってほしい。


 あの戦いが、無意味ではなかったと――――。


「だれか」


 声が聞こえる。


 あのときの声ではない。


「たすけて」


 すごく、近くから、その声がする。


 とても小さい声だけど、この耳に、しっかりと聞こえた。


「――」


 迷う時間すら惜しい。


 とにかく、駆けだした。




 路地の裏の裏。


 誰もが死角となる地点に、声の主はいた。


「ひ、ぃ」


 見つけたのは、しりもちをついて、それでも両手で後ろへとずり下がろうとする男の子と。


「なんだよ、これは」


 人間を丸ごと飲み干しそうなほど、巨大な体躯。


 うねうねと伸びあがるしなやかな腕のようなもの。


 ぎょろりとしたいくつもの眼球。


 大地には滑らかな液状の体がアメーバのように張り付いている。


 現実空間に存在することすらありえない奇怪な造形のあいつは、間違いなく現実の世界の住人ではない。


 捕食か、殺戮か。


 なんであれ、男の子へと、敵意を持ってその触手は伸びていく。


 見過ごせば、どうなるかは想像に難くない。


 逃げ出せば、自分だけは無事だろう。


 魔法の世界の住人がただの人間にとってどれだけ理不尽な力を持っているかも知っている。


 この非力な身体では戦うことすらままならない。


「でも」


 ここで見過ごせば、あの二日間を否定することになる。


 それはできない。


 転がっていた柄の長いほうきを握りしめて、走り出した。


「くらえ!」


 勢いのままに、伸びて上がった触手にほうきを振り下ろした。


 触手は痛がったか、それとも新しく飛び込んできた不純物に警戒したか、少し距離を取った。


「ぼうや、立てるか」


 横目に見やると、男の子は一度うなずいた。


「逃げろ。あとは何とかするから」


 男の子は涙をこらえながらもう一度うなずくと、散らかった路地裏につまずきそうになりながら走っていった。


 その間、触手は動く様子がない。


 ただ、ぎょろりとした眼球がこちらを見つめている。


 体格も、手数も、能力も、何もかもが足りない。


 あの男の子同様に、オレも逃げるしかない。


 一歩だけ元来た方へと進もうとする。


 触手はそれを許さない、と緩やかに出口をふさぐように伸びていく。


 出口はそこしかない。


 ならば、手段は一つ。


 強行突破あるのみだ。


 助走はつけられないが、思いきり叩きつければ少しくらいは怯むかもしれない。


「ぐぁ……!」


 そんな甘い算段を立てていたところに、後頭部から強い衝撃が来た。


 世界が一瞬黒ずんで、体ごと地面に投げ出された。


 倒れながら、転がり込んで後方に向き直るように姿勢を整える。


 その視線の先には触手があった。


 逃げ道なんかに気を取られたせいでその接近にすら気が付かなかった。


 辺りを見回せば、出口どころか、逃げ場となりうる窓にまで触手が這いまわっている。


 活路はない。ならば、無謀でも戦うしかない。


 もう一度武器を強く握り閉めようとして、その前に体を大きく跳ね飛ばされた。


「ぐ――」


 壁に激突した拍子に、声にもならない音が喉から漏れた。


 呼吸すら危うい。息を吸うたびに骨が折れるようだ。


 思考もすでに標準とはいいがたい。このまま立てなくなっても、それでいいかと思い始めている。


 視界など、限界だ。すでに真っ赤に染まっている。


「――あなたは、本当に変わらないね」


 聴覚など、幻聴が聞こえ始めた。


「ホント、相変わらず無茶するんだから」


 誰かが、小さな手で頭をなでている。けれど、それはあまりに現実味が過ぎる。


 もしかしたら、この触覚は嘘ではないんじゃないか。


 ぼやけた視界に、火を背負い微笑む少女が映る。


 肌を、暖かい陽が照らしている。


 消えかけていた意識に、記憶が映る。


「ソレイユ……?」


「うん。久しぶり」


 よく知った顔の少女だ。


 たった二日間。


 けれど、だれよりも、何よりも長く感じた二日間。


 その二日間を共にした少女。


「はぁーい。ワタシもいるわよ」


「リア、か」


 その肩には、羽を携えた小さな妖精。


 陽気で、影など感じさせない。


 たった一度だけ、立ち上がる勇気をもらった。


 二人がいるのを見て、こんな窮地だってのに、少し安心した。


「なんて、再会を喜ぶ時間もないか」


 突然降りてきた少女ごと、触手が排除せんと迫ってくる。


「――――魔力、装填」


 九枚の炎の花弁が咲き誇る。


 けれど、その大きさは以前見たものとは比べ物にならないほど小さい。


 もしも、魔導兵器がいるのなら、後ろのオレを包み込むほどの大きさになるはずだ。


「桜火、散り開け」


 一枚の炎の花弁は舞い散るように盾になると、襲い来る触手を端から燃やしていく。


 だが、足りない。


 燃やし尽くされなかった触手は、その炎の合間を縫ってさらに迫ってくる。


「ああ、もう――炎天よ!」


 その残党を燃やし尽くすべく、花弁が次々に盾のように展開し、触手を焼き尽くしていく。


 けれど、足りないだろう。


 いずれ、またもその壁は突破される。


 そして、ソレイユには反撃に出る手段はないのだろう。防戦一方で一切の手出しができていない。


 ならば、このまま戦い続けても結果は見えている。


「――ジリ貧よ。撤退か、敗戦か。選びなさい、ソレイユ」


 リアの言葉は冷酷だが、オレの見立てとも一致する。


 逃げるのなら。きっとオレを連れてでも逃げられる。


 でも、ソレイユはそんなことをしない。


「まさか。逃げるなんて、できない」


 見過ごせないのだろう。


 誰かが傷つくことが。


 傷つく誰かを助けられないことが。


 その姿に、あこがれた。


 その姿が、まぶしかった。


 その姿が傷つくことが、許せなかった。


「だから、リア。お願い、力を――」


「……悪いんだけど、ソレイユ。あなたよりも燃えたぎっている人がいるみたい」


 リアが、こちらをにやにやと眺めている。


「……うん。シエルが選んだ人なんだから、そんなことでも不思議じゃないかな」


 炎の盾を構えて、薄く微笑んでいるソレイユが見える。


 でも、わかっている。


 この姿では戦えない。


 そして、戦うための力は、もうこの世には。


「この子を、よろしくね」


 盾を構える少女から、何かを手渡される。


「ワタシ、あなたの最後の変身データから『その子』を直すの、本当に苦労したんだから」


 それは金色のブレスレット。


 かつて身に着けていたものと違い、赤い結晶がまぶすように取り付けられているのが印象的だった。


認証開始(セットアップ)


 その中から、二度と聞こえないと思っていた声が響く。


正式名称(パーソナルネーム)、三鷹月光』


 ちりばめられた輝く赤いかけらは、以前にはなかった意匠だ。


通り名(コードネーム)月の騎士(ルナ・エクエス)


 その赤い輝きは、よく知っている。


『対象を月の騎士(ルナ・エクエス)再認証(リブート)


 見間違うことはない。


 どれだけ姿が変わっても、その声を、光を、違えることはない。


『マスター、命令(オーダー)を』


 そんなもの、たった一つ。


「力が欲しい」


『どんな力を』


「誰かを守る力がほしい」


『ならば魔法少女に変身するしかありませんね』


 あふれてくる暖かい光が、力に変わる。


『では、唱えてください』


 唱える呪文はすでに胸にある。


 赤く輝くブレスレットを左手にはめて、高く掲げる。


「トランス・イグニッション!」


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