14 水面のさざめき
「あなたがいてくれて、本当に助かったのよ」
妖精の声は、以前の陽気なものと違う。ひどく落ち着いていて、大人びていた。
「ソレイユがこの二日間笑っていたのは、あなたのおかげよ。あなたが来るまではずっと悲しい心を殺してただけだったから」
そんな情景は想像もできない。きっと、オレがいなくても彼女は笑っていられるだろう。
「シエルが人間に心を許したのはソレイユとあなただけじゃないかしら。シエルは私たちの危機に飛び込んできた、勇気のあるあなたになら、力を託してもいいと思ったのよ」
どうだろう。勇気さえあれば、というのなら、オレなんかよりもシエルのお眼鏡にかなうやつはいくらでもいる。
「私も、死ぬ気だったところを助けられちゃったし、あの二人と同じくらいにはあなたのこと、気に入ってた」
当たり障りない言葉だと聞き過ごそうと思ったけど、少し気になるところがあった。
「死ぬ気だった、ってどういうことだよ」
死ぬところだった、とか。死にかけていた、というのならわかる。
けれど、初めから死ぬつもりだったかのような言い方は違和感がある。
「言葉のままよ。あなたには次元の鍵の使い方を教えてたかしら」
首を横に振る。もともと魔法の産物をまともに使えるとは思ってなかったし、わざわざ聞く必要があるとも思えなかった。
「使い方は簡単。魔力の豊富な土地で私の心臓を一突き。それで魔力に呼応して次元の扉が生じるわ」
想像もしていないような使い方だった。しかし、魔法に少しでも触れてしまったせいか、突拍子もない、なんて否定をする気にはならなかった。
「次元の鍵っていうのは誰かに渡せるようなものじゃない、って言ってたけど」
「そう。私自身の命なんだから、誰かに預けておく、なんてマネはできないのよね」
彼女は簡単に言ってのける。もうそんなことは慣れ切ってしまったのだろうか。
「それなら、死ぬつもりだった、っていうのは」
「悪用される前に、魔力の小さいところで死んで次元の扉を最小限にしてやろうと思ったのよ。それなら一瞬で街が魔物だらけになることはないし。せめてもの抵抗ね」
オレにはわからなかった。命をかけて誰かのために何かを為そうとする感情も、そんなことをこともなげに言われた時に何と言えばいいのかも。
「……そうだ、まだあの時のお礼をしてなかったっけ。これ、あげるわ」
妖精は虚空から青い水滴のような宝石を取り出した。
「……それは?」
「魔力と引き換えにちょっとしたお願いをかなえてくれるマジックアイテムかな」
今のオレに必要なものではない。魔力なんて使えないし、あの姿にもう一度変身する気力もない。
それを押しのけようとして、その前に胸ポケットに投げ込まれた。
「人の好意は受け取っときなさい。それで、どうしたいかは決まった?」
今の会話に気が変わるようなことはなかった、と思う。
「そうだな、迷惑をかけないようにさっさと帰るよ。オレさえ居なければあの子は戦うこともできない。これ以上傷つかないはずだ」
あるいは、一刻も早く逃げ帰りたかったのかもしれない。
妖精は少し、悲しそうな顔をした。その理由は、よくわからなかった。
「そう。私じゃだめなのね」
何もわからない。普段だって頭の回転がいい方だとは思ってなかったけど、気持ちがぐちゃぐちゃで、相手の考えが何も読み取れやしない。
「でも、最後にソレイユに挨拶くらいしてあげて。誰だって、何も言わずにいなくなったら悲しむものよ」
オレにそんな価値があるか、なんて少し考えた。けれど、いつの間にかいなくなって彼女にいらない心配をかけたくもない。
「わかった。行ってくるよ」
目的が見えて、この体はようやく立ち上がる気になったらしい。だるさをどうにか押しのけて、屋敷の方へと歩き出す。
「行ってらっしゃい」
妖精がどんな顔をしていたかは見ないで、屋敷の中に入っていった。
ふらふらと、屋敷の廊下を歩く。
明かりのない廊下は薄暗くて、何もないっていうのになぜかつまずきそうだった。
ソレイユが今も治療を受けているであろう居間がひどく遠い。体がだるいせいなのか、心が重いせいなのか。今のオレに判別はできない。
居間の前についた。ここまでだらだらと廊下を歩いたが、メイドの姿は見なかった。屋敷の多くのメイドの機能を停止しているのは本当だったらしい。
勝手に開ける前に、ノックをした。
「どうぞ、おはいりください」
期待した声ではなく、メイドの声だった。音をたてないようにゆっくりとドアを開ける。
部屋の中はさっき飛び出した時と何も変わらない。
少女が傷だらけで倒れていて、メイドがそれを必死に治療して、オレの預けた結晶は少女の上方でその治療の補助をしている。
しかし、その風景はおかしい。
さきほどから数十分は経ったはずだ。なのに、どうして。
「どうして、その子のケガはまだ治ってないんだ」
昨日は、これくらいの時間で見た目だけは完治していた。傷を隠していたし、よろめいていたんだから完治なんかではなかったんだろうけど、それでも腕の傷くらいは治っていた。まして、昨日よりも魔導結晶、なんてものがいるんだから条件はいいはずだ。
それなのに、彼女の体の傷はほとんど治った様子もない。
「……ソレイユ様が、治療を拒むのです」
治療を拒む。メイドの言う、その意味が分からない。
『正確には、治療に使おうとした魔力をすべて自分の保有魔力に変換しているのです』
空中に浮かんでいる結晶の補足を受けても理解しがたい。
「どうして、そんなことを……」
『おそらく、次の戦闘で少しでも多くの魔力を使うためです』
何を馬鹿なことを言っているのか。彼女の腹は一度貫かれている。彼女の体はあんなにも弱っていた。彼女はこれ以上無理をすれば本当に死んでしまう。
「どうして、そんなに焦るんだ。少しでも体を休めないと」
『少しでも力を補充しておきたいのでしょう』
聞かなくても、想像はつく。しかし理解できない。
「でも、今の彼女は眠って意識がないのに、そんなことできるのか」
彼女がオレたちの会話に参加する様子はない。
『無意識の段階で、彼女は治療よりも次の戦いのための魔力を欲しているということかもしれません』
どうして。どれだけ魔力があっても、限界がある。
仮に変身するとしても、彼女は一度フェンリルに手ひどく敗れている。万全の状態でそれなら、今はなおさら勝ち目はないだろう。じゃあ、どうやって彼女は戦う気なのか。
もしかして、オレ一人では力不足だと思って、その援護のために力を蓄えようとしているのか。今回の作戦のような援護があれば確かに強力だ。しかし、今の彼女が戦おうとすること自体、無謀極まりない。
「……理由が、わからない」
彼女は勇気がある人間であっても、無謀な人間ではなかった。
横たわる少女の表情は苦悩に満ちている。
「―――――」
その口元が少しだけ動いたような気がした。何かを、口にしている。
『……どうしました、マスター?』
その言葉を聞き取るために、そっと耳を近づける。
「ミタカ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
彼女が口にしていたのは、謝罪の言葉だった。
「―――――違う」
それは、違う。
先ほどの戦闘で彼女は何を悔いているのだろう。何を謝ることがあるのだろう。
オレがわずかとはいえ傷を負ったことだろうか。
それとも、自らが戦えなかったことだろうか。
そんなことはない、と大声で言いたかった。彼女のおかげで死なずに済んだのだ。彼女のおかげで、戦えたのだ。
けれど、眠っている彼女を起こしたくはない。
そんな彼女の顔を見ると、涙の跡があった。
わかっていたのかもしれない。
オレが逃げたかったのも、この場所に戻りたくなかったのも、彼女の涙を見たくなかったからだ。
ここで目を背ければ、ここで逃げ出せば。きっとオレは今後彼女が泣く姿を見なくて済む。
世界がどうなったってオレの責任じゃあない。オレを責める奴なんていないだろう。
だから、逃げたっていいのかもしれない。
だけど。ここでオレが逃げれば彼女は逃げたりなんかせずに、戦いに身を投じるだろう。
悲壮のままに。
万全でない身体をおして、戦い続けるだろう。
苦痛をこらえて。
そして、いつか。力及ばずに倒れてしまうだろう。
笑顔を忘れたままで。
それは、理不尽だ。
誰かの不幸を悲しむことのできる彼女が、笑顔を忘れるなんてこと。
見過ごすわけにはいかない。




