台風がやってくる
夏のある日、学校が終わった僕たちは、どこかに寄り道をすることもなく通学路を歩いていた。商店街を抜けて春田川に続く道路まで来ると少し湿った風が吹いていた。
「明日は水曜日ですが、大型の台風が来ているので学校がお休みになると思います。もしお休みなら早朝に連絡網が回されると思うので、お家に帰ったらお母さんかお父さんに伝えておいてください」
帰りのホームルームで担任の平井先生が言っていたことを思い出す。横ではシュンタが小石を蹴飛ばしながら歩いていた。けれど、今は溝に落ちてしまったようで新しい小石を探しながら歩いている。
「明日の台風って相当大きいんだってね」
僕が話しかけると、小石を探していたシュンタが顔を上げる。
「中学生との合同練習、楽しみだったのに中止だろうなあ。年に一回しかないのによ」
シュンタはそう言うと、新しい小石を見つけたみたいで反対側の歩道に走っていった。
シュンタはこの町では有名な陸上選手だ。隣町にある小学生陸上スクールに通っている。シュンタはちょうど一年くらい前の小学校5年生の夏に、100mで県の小学生記録のタイ記録を出した。そのおかげで、今では将来を期待される陸上選手の一人になっている。もちろん僕の通っている西川小学校で一番足が速いのもシュンタだ。
僕だって足の速さにはそこそこの自信があるけれど、それでもシュンタに勝ったことは1度だってない。最近はもう諦めて挑戦しなくなってしまったけれど、昔はよくシュンタに挑戦して、いつも僕が返り討ちにされていた。
シュンタの方を見ると、小石を蹴りながら走って戻ってくるところだった。シュンタは昔からとても綺麗なフォームで走るやつだ。それは陸上スクールに通いだしてから、ますます磨きがかかったように思う。幼稚園の頃のかけっこですら勝ったことがないのだから、今のシュンタに勝つのはやっぱり無理だろう。
「今年こそトモキの兄ちゃんを100mでぶっちぎってやろうと思ってたのに!」
戻ってきたシュンタは、やっぱり合同練習をあきらめきれないみたいでそんなことを言う。
トモキの兄ちゃんというのは同じクラスの村田友貴の兄のことで、2つ上の中学二年生だ。そして県の100m小学生記録を持っているのがトモキの兄ちゃんである。
シュンタは陸上を始めてからずっとトモキの兄ちゃんを追いかけている。いわゆるライバルのようなものだ。
年に1回ある県の小中学生合同練習を逃してしまうと、来年僕たちが中学校に上がるまで2人の直接対決の機会は無くなってしまう。シュンタはそれが悔しくて仕方がないのだ。
「でもやっぱりしょうがないよ。来年は公式戦で戦えるでしょ」
「そうなんだけどさ、もうここら辺の小学生じゃ敵なしだから刺激が欲しいわけよ」
さっきの小石を力いっぱい蹴飛ばしてから、シュンタはそう言って僕を見る。
わかっていたことだけれど、僕ではシュンタの競争相手にはなれないのだ。複雑な気持ちになった僕はシュンタの顔を見ていられなくて、シュンタの蹴飛ばした小石のほうを見る。小石は見つからなかったけれど、そこはもう僕とシュンタの別れる十字路だった。
「それはわかるけどさ。まあ、また明日ね」
僕は複雑な気持ちを誤魔化すようにそう言って、距離を取るように早足で歩きだす。
「何言ってんだ、明日は台風で休みだろ。また学校でな!」
振り返るとシュンタが手を振っていたので僕も手を振り返す。
そうなのだ。明日は台風なのだ。
1人になった僕の横を、ヒューっと強めの風が吹き抜ける。その風は台風よりも先にこの町にたどり着いたことを誇るかのように、砂埃を巻き上げながら進んでいく。そんな風をまるでシュンタみたいだなあと思う。そしてその風を追いかけるように何度も続けて風が吹き続けた。次の町にはどの風が一番にたどり着くのか競争しているみたいだ。
その風たちは僕の複雑な気持ちを吹き飛ばしてくれたみたいだった。
向かい風の中を歩く僕の足取りはさっきまでより軽く感じた。風は僕が前に進むのを邪魔しようとするみたいに段々と強くなっていくけれど、それに負けじと僕の足は勝手に地面を強く蹴るので、やっぱり足取りは軽やかになっていく。
何かに立ち向かうときってどうしてこんなに力がわいてくるんだろう。やっぱり母さんがいつも言うように、僕は反抗期なのかもしれない。1歩前に進むたびに心まで軽くなっていく気がする。きっと僕は浮かれているのだろう。
台風の魔力。ふとナオトがそんなことを言っていたのを思い出す。
ナオトはシュンタと同じで幼稚園からの幼馴染だ。僕やシュンタと違って運動は苦手だけれどすごく頭がいい。好奇心がとても強くて、走るのは僕たちより遅いのに、面白そうなことがあると一番先に走り出すようなやつだ。
前の台風の日だって、僕は自分の家でおとなしくゲームをして過ごしていたのに、急にナオトが遊びにやってきてとても驚かされた。家のベルが鳴って玄関のドアを開けた母さんが、カッパも着ないで自転車にまたがるナオトを見て慌てて風呂を沸かしていたのを覚えている。そして風呂から出て僕の服を着たナオトは、母さんから説教を受けることになった。なんと、僕の家に来る前にシュンタの家でも説教を受けてきたというのだから、僕も母さんも開いた口が塞がらなかった。
母さんの説教が終わってから「どうしてそこまでして遊びたかったの?」と聞いた僕にナオトが言ったのが台風の魔力だ。
正確には、
「理由なんてないけどさ、台風のときって妙にワクワクするだろ? 風で窓がガタガタ鳴って最初は落ち着かなくてソワソワしてさ。外に出て風を感じたらもう自分が抑えられなくなっていつの間にか走り出してるような。たぶん台風の魔力のせいだと思うんだ!」
ナオトはそう言った。
確かに僕だって台風の日は少しワクワクするしソワソワもするけれど、今までの僕にはナオトの言う台風の魔力というものはわからなかった。
だけど今日は違う。僕の心は魔法にかかったみたいに飛び跳ねている。台風の魔力を感じる。
町のはずれにある僕の家に着くころには、川を挟んだ隣町の方から空を覆い隠すように敷き詰められた積乱雲がこちらに向かってきているのが見えた。
ワクワクが止まらない。大声で叫びたくなる。
僕たちの町に台風がやってくる!
今回の台風は特別に大きいようで、大人たちは大騒ぎだ。隣町との間にある春田川が氾濫するかもしれないと消防のおじさんたちは走り回っているし、商店街の店のシャッターはすでに締め切られていた。
台風というのは地震に並ぶ災害の1つなのだ。危ないということはもちろんわかっている。それでも僕の心は静まらない。
家の前に着いた僕は大きく深呼吸をする。ジメジメとした空気で肺がいっぱいに満たされると少し落ち着いてきた。もう1度小さく深呼吸をしてからドアを開ける。
家に入ると母さんが大きな買い物袋を2つも下げて帰ってきたところみたいで、玄関に座って一息ついていた。僕が「ただいま」というと、母さんはここで帰りを待っていただけなのよ、と言わんばかりの顔で「おかえりなさい」と返すのだった。
2階にある自分の部屋にランドセルを置いて服を着替えた僕は、いつものように1階にあるリビングに行ってテレビゲームの電源を入れる。昨日の夜に「また明日やりなさい」と言われてしぶしぶ中断したはずなのに、今日はあまり集中できなかった。なので結局すぐにやめて自分の部屋に戻ることにした。
部屋に戻ってからも、何もやる気が起きなかった。ベッドに寝転がって、ガタガタ、ヒューヒュー、という音に耳を澄ませる。
しばらくしてウトウトとしだした頃に、1階から母さんが「ご飯できたわよ」と呼ぶのが聞こえた。
1階に下りると普段は夕食に間に合わない父さんがいて、テーブルに並べられた料理はとても豪華だった。僕は不思議に思って「今日って何かのお祝いだったっけ?」と聞くと、父さんはハハハと笑い、母さんは少し照れた顔をした。台風が来るからとたくさん買い込み過ぎたらしい。
もしかしたら母さんも台風の魔力で浮かれているのかもしれない。
夕食を食べてお風呂に入ってから、やっぱり何もやる気が起きなかったので、もう寝てしまおうと思ってベッドに寝転がる。けれど、なかなか眠ることが出来なかった。雨はまだ降り出してはいないようで、耳を澄ませても、ガタガタ、ヒューヒュー、という音しか聞こえてこない。
それでも外が気になって仕方がなかった。眠ろうとして目をつむっても、何度も起きだして窓の外を覗いてしまう。やっぱり台風が過ぎるまで僕にかかった魔法は解けないみたいだ。
だけどそんなことを繰り返しているうちにいつの間にか眠っていたみたいで、気が付くと朝になっていたのだった。
昨日の夜にカーテンを閉めていなかったのに、目を覚ましても僕の部屋はまだ薄暗かった。窓を見るともう雨が降り始めていて、バタバタと打ち付ける雨粒が窓の外の景色をぼやけさせている。
まだ少し重たい瞼をこすりながら起き上がって時計を見ると、すでに9時を過ぎていて長針は真下を指していた。やっぱり学校は休みになったのだろう。
僕は寝間着のままで1階に下りる。寝間着といっても夏は部屋着兼用のジャージーのハーフパンツとTシャツなので、休日はいつも着替えないのだ。
顔を洗ってからリビングに入ると、母さんがソファに座ってテレビを見ていた。テレビではニュースがかけられていて、台風の中で必死にマイクを持つ若い女の人が写っている。「各地で土砂崩れが……、大雨洪水警報が……」と話す女の人は今にも吹き飛ばされてしまいそうだ。
僕の目はテレビに釘付けになった。駅や高速道路など次々に映像が切り替わるテレビの画面からも、台風の魔力が溢れ出しているのかもしれない。
「おはよう。父さんは仕事行ったの?」
テレビから目を離さずに僕は訊ねる。僕が入ってきたことに気付いた母さんは、すでにキッチンに移動していた。
「おはよう。小学校は休みだって朝早くに連絡網が回ってきたわよ。でも会社はそうもいかないからね、それよりも早くにお父さんは出かけたわ」
テーブルの席で母さんの用意してくれた朝食を食べてからソファに移動してテレビを見る。相変わらずニュースでは台風の映像が流れていた。
「お昼の支度したらお母さんはお祖母ちゃんの家に様子見に行ってくるから、留守番頼むわね。午後はもっと雨が強くなるみたいだけど夕方には帰るから。ゲームはしてもいいけどお風呂は沸かしておいてね」
はーい、とテレビを見ながら空返事をする。
車で出掛けるようなので、昨日買った食材などを持って行くのだろう。母さんはせわしなくリビングとキッチンを行ったり来たりしている。そしてそれが終わると僕の昼食の準備を始めた。
母さんはとても働き者で本当にえらい人だ。それに比べて僕は普段から家の手伝いなんてお風呂の掃除くらいしかしていない。それすらも時々サボって母さんにやってもらうことがあるくらいだ。
今も僕はただテレビを見て時々窓の外を眺めるだけだ。手伝いをすれば母さんが喜ぶだろうと思うけれど、やっぱり何もやる気は起きない。テレビでは台風のニュースが終わって、夏休みに家族で行きたい観光地! という番組が始まっている。映像はすでに晴れた日の山や川のものに切り替わっていた。
母さんはその後も家の仕事をしてから「それじゃあ留守番頼んだわね」と言ってお昼前には出掛けて行った。
一人になった後も僕はまだソファに座ってテレビを見ている。母さんにゲームをやってもいいと言われたけれどそれすらもやる気が起きなかった。
ナオトは台風の魔力で家を飛び出してきたと言っていたけれど、僕はワクワクするだけで家に閉じこもっている。なんだかとてもカッコ悪い。
しばらくして昼のバラエティ番組が始まったので、母さんが作ってくれた焼きそばとから揚げを温めて食べることにした。朝食が遅かったのでまだあまりお腹は空いていなかったけれど、遅くなってしまうと夕食が食べられなくなってしまう。
昼食を食べ終わった僕は、せっかくソファから立ち上がったので、ついでにお風呂掃除も済ませておくことにした。またソファに戻ったらたぶん面倒くさくなってしまう。母さんは車で出掛けたとはいえこの大雨だ。もしかしたら濡れて帰ってくるかもしれないし、今日も父さんの帰りが早いかもしれない。だから今日だけはお風呂掃除をサボるわけにはいかないのだ。
お風呂掃除を終わらせていつもより早い午後4時にお風呂のタイマーをセットする。これでやらなければならないことは終わったのでテレビを見にリビングに戻る。そしてソファに座ろうとしたところで、ピンポーンと家のベルが鳴った。
ナオトだ! 僕は直感した。昨日の帰り道のように僕の心が飛び跳ねる。急いで玄関に向かってドアを開けると、そこにいたのはやっぱりナオトだった。
「よっ、暇だろ? 遊ぼうぜ!」
まるでいつもの日曜日に遊びに来る時のような気軽さでナオトは言う。自転車にまたがったナオトの髪は、雨に濡れておかっぱ頭のようになっている。
「やっぱりナオトか。今母さんがいないからちょうどよかったよ。とりあえず上がって」
駐車場のすみに自転車をとめたナオトを玄関に待たせて、僕は風呂場からタオルを持ってくる。ナオトは全身びしょ濡れなので玄関に水たまりができてしまっていた。
「お風呂入る? 今掃除したところだからすぐに沸かせるけど」
「いや、いいよ。どうせまた外に出るんだしさ。スパイクとって来いよ、市民運動場行こうぜ!」
タオルを首にかけたナオトは、水を吸い込んで重くなったランニングシューズを脱ごうともしない。すぐにでも外に出られる状態でいたいみたいだ。
「なんでわざわざ運動場なの? この台風じゃ絶対に閉まってるよ」
ナオトが家に上がる気が無さそうなので、下駄箱の一番下の段に入れてあったバスケットボールを渡してやる。
ナオトが玄関にできてしまった水たまりの上にボールを置いて座ったので、僕も玄関マットの上に胡坐をかいて座る。
「それで、どうして運動場なのさ。しかもスパイクまで持って行くなんて」
僕があらためて聞くとナオトはニヤッと笑った。
「知ってるか? 昨日の夜にニュースでやってたんだけどさ、海外の陸上大会で100mの世界記録が出たらしいんだよ」
「ええっ! そんなの知らないよ! 朝からずっとテレビ見てたのに」
僕は驚いて身を乗り出す。ナオトはそんな反応を予想していたみたいで、右手をあげて座れというような手振りをする。
「まあ落ち着けって。あんまりテレビでやってなくてもおかしくはないんだよ。だってその記録は無効になったんだからな」
また「ええっ」と声を上げそうになったけれど、ナオトがニヤニヤと僕を見ていたのに気付いてなんとかこらえた。
「どういうこと? ドーピングだったらニュースで騒いでるはずだし、計測ミスとか言わないよね」
「言わないって、それじゃあ運動場に行く理由にならないだろ」
「確かにね。じゃあなんでなのさ」
ナオトは少しもったいぶるように間をあけてから答える。
「風だよ、風。そのレースの時の風速が規定を超えたせいで無効試合になったんだ」
やっとネタばらしができてナオトは満足そうだ。ここまで来てようやく僕にもナオトのやろうとしていることがわかってきた。
運動場。スパイク。記録。風。
つまり、台風の力を借りていつも以上のタイムを出してやろうと、そういうことだろう。
「やっとわかったよ。この台風の中でタイムをはかりに行こうってわけね。それで、シュンタの家にもよってきたわけ?」
「行ってないよ。だってシュンタは風なんかなくても元から速いんだしさ、そのうち公式戦で記録だって残せるだろ。シュンタにはこんなこと何の意味もないよ」
ナオトはポケットからストップウォッチを取り出してピッピッと音を鳴らす。
「でもさ、俺たちは違うだろ? どんなに頑張っても記録なんて残せないし、普通にやったらシュンタに勝つことだってできない」
「僕もそう思うよ」
目を伏せてうなずく。それはずっと前からわかっていたことだ。
「シュンタはさ、足の速さでは俺たちに絶対負けないと思ってる。それは本当のことだけどやっぱり悔しいだろ。俺はずっとシュンタを見返してやりたいと思ってた。それで昨日あのニュースを見て思いついたんだ!」
シュンタを見返してやりたい。それは僕だってずっと思ってたことだ。けれど僕は無理だって諦めてしまっていた。それなのにナオトは違ったのだ。
ナオトはあまり足が速くない。それでも、一瞬でもいいからシュンタの得意なことで肩を並べようと、見返してやろうと考えていたのだ。本当にすごい奴だと思う。
「2人で力を合わせて、ちょっとだけズルをして、1度くらいシュンタを負かしてやろうってことだね! それ、すごく楽しそうだ!」
実際にやることはただのズルなので、それに意味なんてないのかもしれない。だけどそんなことは関係ない。ただ楽しそうだからやるだけなのだ!
「さすが! わかってくれると思ってたぜ。俺の足じゃ何をやっても勝てる気がしなかったからさ、1人じゃ無理だったんだ。スパイク取って来いよ! 早く行こうぜ!」
僕は自分の部屋からスパイクを取って来ると、服も着替えずにナオトと家を飛び出した。