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休日、一人を楽しむ。  作者: 紅井斬保
1/1

良い天気、追憶、散歩

おっさんが散歩するだけの話です。


 目を覚ましたのは昼過ぎだった。


 このところ残業続きで日頃の疲れが溜まっていたのだろう、おかげで妙にスッキリした気分だ。

 土曜日が丸1日休みなのは久々だ、普段できなかった家事を片付けて、その後はゆっくりしよう。

 今日は天気がいい、ベランダに布団を干し、洗濯機を回す。軽く部屋の掃除をして、その間に沸かしておいた鍋のお湯の中に、パスタと一緒にレトルトのソースを放り込み、簡単な遅めの昼食にする。


 年度末の繁忙期が終わり、新年度の様々な人事やら何やらがやっと片付いた4月下旬、ようやくゆっくり出来る休日がやってきた。


 さて、「ゆっくりしよう」と思って見たはいいが、何をすれば「ゆっくり」した事になるかな?正解は何もせずゴロゴロしていれば良いのかもしれないが、せっかくの休日にそれは勿体ない気もする。


 最近やたらそこら中に増えた、チェーンのマッサージ屋にでも行ってみるか、それとも古本屋でも冷やかすか・・・


 基本休みの日は外出することが多い、家でジッとしているのが勿体なく感じられてしまうからだ。「せっかくの休日なのだから、出かけないと勿体ない」一種の貧乏性だろう。


 こんなに天気が良く、風も気持ちがいいのだから、やっぱり出かけるか。


 といっても出かける手段は車で、買い物にしろ何にしろ行先も屋内なのだから、天気の良い悪いを感じられるのも車と建物の間のほんのわずかな間だけだな、と、そこまで考えて「じゃあ、この天気の良さと風の気持ちよさを、最大限生かせる事ってなんだ?」と考える。


 そんな効率重視のような考え方は「ゆっくり」とほぼ対極にある気がするが、性分なのだから仕方がない。

 ハイキング、サイクリング、山登りとかか?まあまず思いつくのは外を長時間歩いたりする系だな、夏なら泳いだりとかもあるか。ただこれは今思いついただけで、そういうのはキチンと準備をしないとだめだし、むしろ「ゆっくり」から遠ざかってる。もっと緩い感じで外を歩くというと・・


「散歩」か。


 ただ近所を歩くだけ。お年寄りが健康のためにやる事というイメージだが。


「うん、いいかもしれない」


 特に目的もなくて、いかにも「無駄」っぽいところが気に入った。


そういえば最近は出かけるといえば車だ、近所のコンビニに行くのにすら車を使うので、おのずと使う道は限られる。買い物する時も街へ出るので、子供の頃遊びに行った所とか通った道、そういった場所を久しく見ていないけど、今はどうなっているのだろう?


 「それだな。」散歩のテーマが決まった。目的もなく散歩すると言っておきながら、テーマを決めているあたり自分でも矛盾していると思う。


 時間は午後2時前、1~2時間歩いて帰ってくれば、丁度布団がいい感じにフカフカになっているだろう、それを取り込んでから洗濯物をやっつける。丁度時間になるだろうから、晩ご飯を作って食べて、風呂に入って寝る。歩いた後だからそれなりに疲労もあってぐっすり眠れそうな予感がする。


「それがいい、そうしよう。」


 こうして完璧な「ゆっくり過ごす休日」のプランがまとまった。


 特にウォーキングシューズとかは持っていない、よく外を歩いている人で、ジャージやサングラス、帽子などを揃えて、大きく腕を振って早歩きしている人が居るが、今回は「散歩」であって「ウォーキング」ではない。まあ動きやすければ何でもいいだろう。


 適当に厚手のTシャツとジーンズ、スニーカーを履いて外に出る。桜の時期は終わってしまったが、日差しは暖かく、動けばちょっと汗ばむくらいなのに、反面風は少し冷たく何とも心地いい。


 まずは自宅の裏から延びる細い道へ向かって歩き出す。



______________________________________________________



子供の頃は毎日のように通った道、小学校への通学路でもあったし、近所に住んでいる幼馴染の家に遊びに行くときにも毎日通った道だが、車で移動する様になってからは、玄関を出てから向かう先は駐車場であり、それはどこへ行くにも変わらない。


 久しぶりに通った道沿いの風景は、いつの間にか大分変っていた。いや、変わったのは知っていたが、わざわざ確認していなかったというのが正しいか。


「確かここは、習字の教室があったと思ったけど」


 小さな平屋建ての習字教室があった場所は、取り壊されて整地され、洋風の住宅が建てられていた、その家も建てられたばかりというわけでは無く、10年前後は経っているだろう。それだけこの道を通っていなかったんだな、自宅からはほんの数十メートルの距離なのに。


 それだけ生活や行動のパターンが固定されてしまっているのだろう、考えてみれば就職してからの行動パターンは、平日は会社、スーパー、コンビニへ行く、休日は街へ出る、その為に便利な道を通る事しかしていない気がする。


 昔通った道沿いにある風景、それは建物だけではなく色々なものが変わっていた、例えば家の塀であったり、フェンス、昔は人が住んでいたはずの家も何件かは空き家になっているようだ。


 昔と変わっていないブロック塀を見つけた。「だけどこの塀はこんなに低かったか?」何の事はない自分が大きく成っただけなのだが、昔の記憶と同じ目線にまで下げてみると、自分がこんなに小さかったのかという事に気付き何だか笑えてきた。


 特にコースは決めていなかったが、小学生の頃、夏休みとかに遊びに行った場所でも適当にぶらついてみるか・・・自分が小学生の低学年の頃はまだ初代のファミコンすら無かったため、遊びといえば外遊びだった。友達と遊ぶことも有ったが、一人で蝉取りやザリガニ取りなんかにもよく行った。今考えると勝手に他人の家の住宅の敷地に入って、庭や畑の木にいる蝉なんかを取ったりしていたが、全く怒られたりした覚えが無い。むしろそうやって迷い込んだ家の婆さんに、スイカをもらったりした記憶さえある。


 そもそも小学校低学年、年齢でいえば7歳とか8歳の子供が家から2キロ3キロ離れた場所に一人、又は子供だけで遊びに行っていたが、それは当時でいえば普通のことだった。今だと保護者の監督責任がどうとか言われるんだろうか。


 流石に40を超えて他人の家の敷地に勝手に入って行く訳にもいかない、「近道だから」とか「虫を捕まえてました」なんて理由にもならないだろうし。


 蝉を捕ったお社近くの小さな公園、お社の建物は変わりなかったが、公園は様変わりしていた。昔あった昭和の前半に作られたであろう錆だらけの滑り台は撤去されていたし、細い路地も舗装されていて、昔は薮だった場所もきれいに整地されている。この方が清潔感があっていいんだろうけど、やや残念な気分になるのはなんでだろう。


 記憶を手繰りながら川縁まで歩くと川に橋が架かっている。昔遊んだ川辺はこの橋を渡って右側の土手を降りた所に有る。この橋も小学生の頃は粗末なコンクリート製で車が渡るたびガタゴト音がしていたが、かなり前に架け替えられた。その事は知っていたが、新しい橋を渡るのは今日が初めてだ。



 土手を降りる小道が無くなっていた。今は子供だけで川に遊びに行くなんて言えば親が必死に止めるだろう。子供の方でも家でゲームをしている方が楽しいだろうし、通る人が居なければ道は無くなる。幸い土手の草は綺麗に刈り取られていたため下に降りてみる事にした。


 草と一緒に川縁に生えていた木まで切り倒されていたため手掛かりが少ない。それでも何とかコンクリートで舗装された川縁に到着、昔は裸足で川に入り、コンクリートの小さな滝のあたりで小魚を捕まえたりしていた。


 川の様子は昔と同じように見えるが所々違う。「昔はあの辺は薮だった」という場所が今は綺麗に整地されている、川の真ん中あたりはもっと深かったはずだが、今見た感じでは水深50cmといった所だろう。


 川辺のコンクリートに座り、少しの間風に吹かれる。苔の匂いを含んだ風、それは何十年か前に嗅いだ匂いと同じで、当時の記憶を思い出させる。


 確か小学生の低学年のころ、流れの緩やかな川砂利の場所ではシジミが取れた。取ったシジミを幼馴染の家で味噌汁にしてもらって食べた記憶がある。

 中学の頃ブラックバス釣りが流行った、ここにはバスは居なくて、ハヤやフナしか釣れなかった。今は見る限り魚が居るようには見えない。


「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」


 方丈記だったか?中学生の頃、授業で暗記させられた一節。


_______________________________________


 暖かい日差しもあいまって、とても気持ちがいい。


 目を閉じて子供の頃を思い出してみる、子供の頃の記憶で一番鮮明なのは、自宅を出て遊びに行く際に一番最初に目に入る光景だ。細い裏道、左手にメロン栽培のハウス、正面の奥、小さなお墓がある辺り、何の木かは解らないけど、すごく大きな一本の木が大空に大きく枝を広げている。背景は透き通った青い空と入道雲。夏休み、遊びに行くたび何度も見た風景。

 なんだか全体が白いフィルターをかけたように霞んでいるような、それでいて細部や濃い影の色だけはっきり見えるような・・言葉にするのは難しい不思議な感覚。

 自分の周りだけ、すべての音が消えたように静かで、蝉の声や葉擦れの音、時折どこかを通り過ぎる車の音が遠くに聞こえる、なのに鳥の声だけは妙にクリアに耳に入ってくる。


 目を開ける、今は夏ではないし、あの大木も数年前に落ち葉がどうとかで切られてしまった。目の前は川、聞こえてくるのは水の流れる音。


 そういえば昔、こんなに沢山の水が流れているのに何で水が無くならないのか不思議だった。

 今なら理屈は解る。海の水が蒸発して、雲になり、雨になって地上に、それを山が蓄えて湧き水に変える、それが集まって川になる。ただ、改めてその事をじっくり考えてみると、それはものすごく凄い事だ。


 これだけの量の水が流れているのに1~2週間雨が降らなくても川が枯れる事はない、理屈が解っていても不思議なものは不思議だ。年寄に信心深い人が増えるのも納得できる。若い内は根拠不明の全能感を持っていて、化学や技術に対しての信頼も大きいのだろうが、結局自然や命運には敵わないと悟る時期があるのかもしれない。そうすると今まで馬鹿にしてきた「信仰」が理解できるのだろう。


 そんなことをぼーっと考えていると、この川沿いに神社がある事を思い出す。


 川縁の土手を登る、現在散歩を初めて1時間程度か、思ったより楽しいのもあってもう少し歩いてみようという気になった。


 そんな休日。





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