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前編

 真素(エーテル)という新エネルギーの発見を境に人は不思議な力を得て、同時に大切な何かを失った。

 火、水、風、果ては雷や天変地異まで、大小様々な現象を生み出すことのできるこの便利な力を、人は架空の物語に登場する力になぞらえ、魔法(真法)と呼んだ。


・・・・


 朝の強い日差しが、先日の雨を乾かしていた。

 国立第四学園へと続く道の交差点は生徒の渋滞ができて、その先にある低勾配の坂道にも制服を着た仲間達がぞろぞろと足並みをそろえる。

 男子は黒のブレザーとスラックス、女子は茶色のブレザーにチェック柄のプリーツスカートという揃いも揃って個性の無い服装ではあるものの、彼等の髪型や毛の色には様々な個性が現れている。

 赤や緑、ピンクや青色も。真素により変色した頭髪と瞳、そのビビッドな色合いは街の朝を今日も賑やかに飾るのだ。こんな、まるで仮装パレードのような登校風景も既に日常風景となって久しい。

「おっはよー!」

 耳をつんざく少女の声。

 元気一番、突撃二番、成績は……残念ながら下から三番目のゆるキャラ健脚少女は鞄も持たずに生徒集団を掻き分けた。

 彼女の名前は水咲ナラカ。頭の養分を持っていかれたかのような豊かな胸と、空の色をしたポニーテールが、今日も生き生きと踊る。

「おっはよーまっ!」

 へんてこな挨拶で男子生徒の進路をさえぎった。

 ぴんと片手を伸ばして、指先をくいくいと動かすところがとてもアホっぽい。

「おはようナラカ。挨拶くらいは真面目にしろ」

「おはよっオウマ君! あたしゃいつも真面目ですよ。にひひ」

 ナラカの青い瞳が映す、地味な黒色の頭髪と黒い瞳。元気な彼女とは対称的で無表情、テンション低めの男子生徒は草薙オウマという。身長は165cmのナラカとさほど変わらないのに、その態度たるや壮年の男性を思わせる落ち着きっぷり。眉間にしわを寄せる程度の表情変化が精一杯なのかもしれない。

 彼の足はナラカに引き止められても歩みを止めなかった。迂回して進む。

「ちょっとー、ほらほらオウマ君こっち向いて。ツンツンしなーい」

「うっとおしいな」

 ナラカはつれない彼の背中に胸を押し当ててほっぺに指つんを繰り返すが、彼は塩対応。ついには面倒臭そうに彼女を引っぺがした。

「通学の邪魔だ、離れて歩け」

 説教したところで馬の耳に念仏、鹿の耳に念仏だと、手短に文句をつけてオウマは歩幅を広げる。

 ナラカも負けじと追っていく。

「おおう。今日は早足ですなー。うんうんわかるよ、なんたって今日の午後はあれだもんね、あれ。たのしみだねー」

「楽しみなくせに内容も出てこないのか」

「あれでしょあれあれ、年に一度の魔法大会ってやつ」

 ナラカは軽い返事をしながらすたすたと歩み出て、オウマの隣を頂いた。

 彼女の言う魔法大会とは、第四学園で年に一度実施されているイベントである。内容は各クラスごとに代表が選ばれ、トーナメント式に魔法の技量を競い合うというシンプルなもの。魔法の可能性と危険性を生徒達に学ばせる目的で実施されている、国家公認の由緒正しき試合だ。

 そして三年生の二人にはこれが最後の大会ということになる。

「術の最適化は実生活で役に立つ。貴重な機会なんだ、お前も今回ばかりは気を引き締めろ」

 “強き魔法は強き心から”学園の校訓を掲げた大会がまさに今日行われるとなれば、オウマの口調にもどこか高揚感が見え隠れする。

 しかしその隣では難しい顔をするナラカの姿があった。

「うーんでもあたし、魔法はこうパーッと使うのが気持ちいいのよねー。おしっこたくさん溜めて出す感じ? そんでもってバーンって爆発させるの」

 理屈っぽいオウマとは反対に、ナラカはナチュラル路線を目指して邁進している。意味不明な説明の最中にも落ち着きが無く、足を上げてぴょんぴょん跳ねるものだから、胸は揺れるし膝上10cmのミニスカートから中身がチラリしていた。

 元気に踊る彼女に周囲からの視線が集うと、オウマは咳払いして視線を一掃する。それから指をキッチリ四本立てて、ぐいっと彼女の額に押し付けた。

「いいから落ち着け」

「あうちっ」

「ナラカ。教員の補助があるとはいえ無抵抗の相手を攻撃するのは当然ルールで禁止されている。違反すれば即退場だという事を忘れてないだろうな」

「めんどくさいよね、あれ」

「……違反者が罰を受けるのは当然だ」

「まーでも今回はだいじょうぶだと思うよ。たぶん」

 前大会にて初出場を果たしたナラカは、興奮し過ぎて対戦相手を完膚なきまでに打ちのめした。やや暴走気味だった彼女は教員に退場させられた上に反省文まで書かされた。そんな彼女に付いた不名誉な二つ名が“鬼人”であるらしい。

 すっかり忘れてた、と彼女は口を尖らせて頭の後ろに手を回す。

 オウマの心配通り反省の色は薄いようで、彼の口からは幾度目かのため息がこぼれた。

「たぶんでは駄目だと言っている。今年は俺も参加するんだ、俺と当たる前に退場するなよ」

「はーい。って、オウマ君も参加するんだ……。あ、もしかしてそれってお誘い? ご指名あざす! んふっ、オウマ君はついにナラカおねえさんの魅力に気付いちゃったかー、このこのーっ」

「違う、やめろ」

 先ほどまでの不機嫌もどこへやら、肘で打ちながら口元をニシシと押さえるナラカにオウマの視線は冷たくなる。

「久しぶりにお前の魔法を見たいと思った、それだけだ」

「ふーん……ま、そういうことにしておいてあげましょう。てかさ、オウマ君なにげに自信家だよね。そっちこそあたしと当たる前に他の子に負けちゃっても知らないから」

 そう言って正面に回りこんだナラカ。

 ニカッと歯を見せて笑う彼女に、オウマもできる限りの微笑を合わせた。

「その時は諦めるさ」


・・・・


 魔法大会は午後からなので、午前の授業中は生徒達もそわそわしていた。

 特に一年生は初めての魔法大会という事もあり、授業に身が入らない生徒も多かった。

 そんなクラス内に漂う緊張感も、昼休みのチャイムと共に終わりを迎える。

「きーんこーんかーんこーん!」

「水咲、静かにしなさい」

 ここ三年二組では、ナラカのチャイムに先生が苦笑いを浮かべていた。

 舞い上がっている彼女を止める事ができる人材はこのクラスにはいない。唯一頼りになるオウマは、残念ながら隣のクラスだ。

「皆さん、午後は魔法大会ですからしっかり準備運動をしてグラウンドに集まってくださいね。それではまた後ほど」


 ガラガラ、ぴしゃり


「よーっし! じゃあさっそくジャージに着替えましょい!」

 先生が退室してまもなく、ナラカは赤ジャージを引っ張り出して制服の裾をめくりあげた。

 本来、女子の着替えは別室でということになっていたが、ナラカにはそれも関係ないらしい。健康的な色をしたお腹のまんなかで形の良いおへそが見え隠れする。なまじ身体のラインが大人びているせいで色気の無い脱ぎっぷりにも艶が出る。

 何の前振りも無く始まった脱衣ショーは、男子生徒の目を惹きつける。

「ナラカが脱ぎ始めたぞ! 今年で見納めになるかもしれん、カメラ構えろ新聞部!」

「アイアイサー!!」

 しまいかけの教科書も放り投げて、彼等はシャッターチャンスを逃すまいと膝立ちでフォーカスを覗き込む。

 そしてレンズを塞ぐべく女子生徒が立ちふさがった。

「ちょっと男子、馬鹿言ってないでオウマ君呼んできて!」

「何すんだ! 隠すなって、見えないだろ!」

「うるさいエロ男子!」


 ぎゃあぎゃあ。


 ――壁を隔てて――


「騒がしいな……またナラカか」

 隣のクラスから聞こえる声は、最前列のオウマに届いた。

 彼は阿鼻叫喚の二組に向けて合掌……。

 お隣の事情などそ知らぬ顔で箸を握っていた。

 魔法瓶でできた弁当箱はやや重量はあるものの、保温性抜群でご飯も焼き魚もほかほかのまま、湯気がのぼる様はまるで焼きたて炊きたてのよう。付け合せに別容器のサラダと水筒のお茶も並ぶ優雅な食事に、オウマは感謝の言葉を送る。

「いただきます」

「あ、おいしそう。そのお魚一つちょうだーい」

「……一つしかないおかずを当然のようにねだるな。というかお前なぜここに居る。着替えはどうした」

「終わったよ?」

 彼女の顔はオウマの首元からぬっと出ておかずの焼き鯖をロックオンした。二組の男子諸君はナラカの高速着替えを写真に収める事ができず、大会を前にしてお通夜ムードを漂わせているらしい。壁越しに届く嗚咽は趣味の悪いBGMのようでもある。

 オウマは一度振り向き、ナラカの様子を確認した後、すぐに食事に戻った。

「ちょっと、聞いてる?」

「ジャージが後ろ前だぞ」

「あらほんと。んっしょ、よし」

 もじもじと赤ジャージの内側に手を引っ込めて服の前後を正したナラカは、ぴょんと跳び退いてオウマの正面に回り込んだ。近くの空席から椅子を拝借すると、背もたれに顎を乗っけて脚をカクカク鳴らす。今度は真正面から彼の食事を観察しつつ、大口をあける。

「あーん」

「……なんだ」

「んあ」

 オウマの塗り箸がおかずをつまみあげると、ナラカの顔もそれに追随して持ち上がった。

 ぱくり。

 オウマの口に食べ物が入るたびにナラカは物欲しそうな顔をしていた。

 お恵みをもらえないとわかるや、彼女はほっぺを膨らませて指で弁当をつんつんする。

「むー、いい食べっぷりだね。腹ペコなおねえさんにもちょいとわけておくれよ」

「自分の飯があるだろ」

「あるよー、家に」

「忘れたのか?」

「うん。でもでも、購買に寄ってちゃんと買っといたからだいじょうぶなのさ。ナラカちゃん冴えてるー」

 そう言って、晴れやかな笑顔でガサゴソとジャージのポケットから取り出したのが……風変わりな卵型の食べ物だった。

「チョコエッグか」

「そそ」

 表面を覆う銀紙の包装には、カラフルな虹色で名前が印字されている。

 その名も正しく『わんだーえっぐ!!』

 でかでかと書かれた文字は全てひらがなである。

「ふっしぎーなえーっぐ、わんだえーぐ。ふふふ、どうですオウマ君、ナラカちゃんのお昼はチョコエッグなのですよ。女子力高いっしょ?」

 ナラカはヘンテコな卵を見せびらかしながら返事を求めていた。

 オウマはきちんと口の中の食べ物を飲み込んで、茶まで啜ってから嫌味を返す。

「それを女子力が高いとは言わん、知能が低いだけだ」

「あ、なにげにひどいっ! いいもーんそんなに言うんだったら分けてあげないから」

「いらん」

「うー!」

 ぷっと膨らませた頬に、クラスの生徒から視線が集まっていた。

 オウマも時折周囲を気にしているが、それもそのはず、なにせここは敵地なのだ。二組と三組の壁は、教室の壁のように薄くは無い。以前の大会でナラカに破れた者もこのクラスには居る。

 なのに、当の本人はそれすら気にしていない。やがて明るい鼻歌が独創的なオリジナルソングに変わると、彼女は上機嫌に踊り始めた。

「邪魔なつつみを取りのぞけーっ! 見えてくるよー、あーまい、あまーいチョッコレーイ」

 銀紙をべリベリとめくり、軽やかなステップで教室隅のゴミ箱にダンクシュート。

 すぐに戻って歌の続き。

「打ちやぶれー、茶色のたっまごー。中身は何かな? かなかな? おうおう!?」

「……黙って食え」

「じゃんじゃじゃーーん!」

 オウマの言葉も聞き入れず、彼女は茶色の卵を高らかに掲げた。

 赤の上履きがタンッと鳴る。

 腰に手を当てたナラカは椅子の上に立ち、扉や窓の外から覗き見ている自分のクラスメイトにまでしっかりとそれを見せびらかす。

 赤ジャージの背中で尻尾のような水色ポニテがふりふり揺れる。

 彼女のお花畑っぷりが、見る者全てに安堵をもたらす。

 もしやこのチョコは毒入りだろうか?

 試合前に一服盛るつもりなのだろうか?

 先ほどまでは、そんな具合でナラカを疑っていた生徒達も、次第に馬鹿らしくなって考えるのをやめた。

 大丈夫だ。こいつは何も考えちゃいない。

 そう思わせる脳天気さがナラカにはあった。

 そして彼女の眼下にはオウマのしかめっ面があった。

「座れ。行儀が悪い」

「はいはいはい。オウマ君はほんと固いよね。かっちかちだよね」

 大人しく言う事を聞く彼女を見て、やはりナラカの世話役はオウマでなくてはならないと皆が再確認したところで、ナラカは体温で溶けて指についたチョコをぺろりと舐める。

 いよいよ割卵の儀式。

 オウマは黙々と箸を動かしながら、ナラカの手の中で割れていく茶色の殻を一瞥した。

「やっぱ気になる?」

 欠片を口に放り込みながらナラカは問う。

「別に」

「んふふー。何がでるかな、かなかなー。よっと!」

 パキパキ音を立てて砕けたチョコエッグ。

 茶色の下から白いカプセルが現れるとナラカは歓喜の声を上げる。

「おほーっ、出てきましたよオウマ君! 白いカプセルがころりんと!」

「いちいち五月蝿いぞ」

「と、言いつつしっかりと気にするオウマ君なのでしたー」

 ナラカのテンションは最高潮に達している模様。ぺろっと、カプセルについたチョコの欠片を舐め取って、ジャージの袖で唇を拭った。ほっぺにはまだチョコの欠片がくっついたままだが、しげしげとカプセルを見つめて蛍光灯にかざす姿はさながらトレジャーハンターの目利きである。

 蒐集家でもあるまいに。ナラカがそんな顔をするものだから、オウマも少しだけ中身に興味を持った。

 ――チョコエッグ。

 その中身は小さな人形や、安っぽいプラスチックの玩具である事が多く、とりわけこの学園の購買で売っているような掘り出し物でもなんでもない商品であればさぞかしレアリティも低いことだろう。

 しかし彼女はどこか自身ありげにカプセルを振る。

 カチャカチャ音が鳴る。

「あ、これ当たりかも。重いし、なんか……なんだろ、変な感じする」

「……なんだ?」

 思わず聞き返したオウマに、ナラカの顔が向けられる。

 神妙な面持ちで視線を交差させる二人。

 そして、プッとナラカの口元から息が漏れた。

「んふふっ、やだー。オウマ君どうでもいいみたいな顔してやっぱり気になってるじゃないですかー。じゃ、オウマ君にこのカプセルを開ける権利をあげましょう!」

「いらんからさっさと開けて帰れ」

「やですー。オウマ君が開けるまであたしゃここを動きませんからねっ。ほら」

 まんまと一杯食わされたオウマの手に、ナラカからしっかりとカプセルが握らされる。

 彼は一瞬むっとしたが、添えられた彼女の手が離れると同時に視線を落とした。

 確かに、カプセルにはそれなりの重さがあった。

「何が入っているんだ……金属か、ガラスか」

「それを確かめるのが楽しいの。ほらほらー、悩んでないで早く開けようよ」

 急かされながら、オウマはカプセルを摘んでひねる。

 たかが玩具に、なにを真剣になっているのだろう。先ほどまでのオウマならばそう思っただろう。しかし今は自分の期待感から目を逸らす事はしない。

 確かにこれはわくわくする。ナラカの気持ちもわからないでもない。

 オウマが素直にそう言えば、彼女はニタリと笑いかけてくるに違いないのだが、あくまで平静を装って彼は言う。

「ナラカ、手を出せ」

「んい」

 白いプラスチックの殻は、差し出された彼女の掌の上でカパッと割れた。

 転がり出たのは銀色のリングだった。

「やはり金属だったか」

 オウマは少し自慢げな顔をした。

 ナラカは出てきたものを拾い上げてまじまじと見つめる。光沢はあるが、ただの金属ではなく表面がガラスのようなものでコーティングされている。光に反射した部分は虹色の光を帯びて幻想的に輝いた。内側には見慣れない刻印もある。

「指輪だな」

「すごいよ、これ絶対レアだよ……しかもなんか、えっと、シークレットってやつじゃないかな?」

「そうなのか?」

「絶対そうだって! うー、これなら自分で開けとけばよかったー」

「残念だったな」

 くやしがるナラカを見ながら、オウマは咳払い。残った茶を喉に流し込んだ。

「用は済んだな、そろそろ自分のクラスに帰れ」

「いやだー」

 しっしと払うオウマの手首をキャッチして、ナラカは悪戯娘の笑みを浮かべた。

 これは彼女が悪巧みしている時の顔であると、オウマはすぐに気付いたが、握られた手は微動だにしない。

「まだです、まだおわらんのです。この指輪の持ち主を探す旅に、ナラカちゃんは出なければならんのです」

「そんなものは、購入者のお前に決まっているだろ」

「でも開けたのオウマ君だし。ちょっと手貸して」

「やめろ、放せ」

「んふふーでは指輪装着の儀式に入りまーっす!」

 ナラカのテンションに引っ張られ、クラス内の物好き連中もきゃあきゃあと悲鳴を上げる。これには流石のオウマも動揺して握り締められた手を引っこ抜こうとした。晒し者になるなど言語道断と……しかし、おかまい無しのナラカは彼の必死の抵抗をものともせず、儀式を敢行する。

「あーあー、なんじーやめるときもーすこやかなるときもー、たがいを支えあいー……なんだっけ?」

「馬鹿なことを言うな、おい、恥ずかしいからやめろ!」

「長いから以下略っ、ナラカちゃんは誓いまーす! はいっ誓いの指輪ですよっ」

 スポッと。

 見た目ほど窮屈ではない誓いの指輪はオウマの左手の薬指にスムーズにはめ込まれた。

「ひゅーひゅー!」

「末永くお幸せにー!」

「ありがとー! ありがとー!」

 ナラカはまた椅子の上に立ち、投げキッスを返してご満悦の様子だ。

 飛び交う祝福の嵐はナラカの悪戯に乗っかった生徒達の口から出たもので、オウマの顔をかつて無いほどに真っ赤に染めた。

 窓の外から飛んでくる野次馬達の視線はどこか嫉妬染みていて、オウマにはそれが相当に痛いようで、彼はじっと弁当を見つめたまま固まっていた。

「んふふー。あー満足した。んじゃオウマ君、指輪返してちょ」

「あ、ああ……」

 不意をつかれ判断力を失っていた。

 すぐに指を抜けばよかったのだと気付いたのは今更で、クラスの皆に散々冷やかされた挙句ナラカにまで動揺したところを見られてしまった。三年間の学生生活で築かれたオウマのイメージは丸つぶれだった。

 気を取り直して……。

 オウマは呼吸を正して平常心を装う。

 そんな泣きっ面に、更なる蜂の一刺しがお見舞いされることになろうとは露も思わず。

「ん……」

「どしたの?」

「この指輪、抜けんぞ」

「うっそだー。ちょと貸してみそ」

 ぐぐぐぐ……すぽん! っと抜けたのは指輪を外そうと満身の力を込めていたナラカの手だった。

 往生際の悪い彼女はもう一度オウマの指に手をかける。

 今度は両手で、床に踏ん張って全体重をかけはじめた。

 ギリギリギリ……ひねりまで加わると流石のオウマも黙ってはいられなかった。

「痛い! やめろ指が折れる!」

「うーはーー! 指がなんぼのもんじゃーい! ナラカちゃんのスーパーパワーを見せてやんよー!」

「やめろと言っているだろうが!」

「あいたっ!」

 ゴツンと拳を落とされてようやくナラカは踏ん張るのをやめた。

 その恨めしそうな視線を放置してオウマは指の無事を確認する。

 痛みが残る関節、そして微動だにしていない指輪の位置。これだけ抜けないというのに締め付けられる感覚は無く、自然にそこに存在するかのような不思議な温かさでオウマの指に存在していた。

 しかし今はその不思議さも、ナラカが与えた痛みで上書きされてしまっている。

「おかしいね?」

「……ああ」

 こうまで抜けないというのはどういうことかと、ナラカに問いただしたところで彼女はまともな回答をするわけがない。

 オウマは深くため息を吐いた。

「どうすれば外れるんだろね?」

「他人事みたいに言うな。お前のせいだぞ」

「ごめんね」

 めずらしく素直に謝る彼女に免じて、オウマはそれ以上追及しなかった。

 かわりに冷静さを取り戻しつつある頭で打開策を練る。

「お前、さっきのチョコエッグはどこで買ったんだ?」

「購買だよ。あ、そっか、あたしちょっと行って聞いてくる」

「頼む」

 ナラカは、扉前の生徒を吹き飛ばす勢いで廊下に出て行った。

 脚力と行動の早さだけは本当に人一倍だと、オウマも感心したところで。

「さて……」

 邪魔者がいない間に指をじっくり観察する。

 見たところ隙間には何も無い。それどころか指輪をしている事すら感じないほど指に馴染んでいる。触れて初めてそこに指輪があることを実感できる。これが呪いの類だとすると、抜けないだけで終わるとは思えない……いや、抜けないこと自体に意味があるとすれば……そう考えるとオウマは不安になった。

 クラスの生徒にも見せてみるが、結局解決策は出ず、オウマは途方に暮れながら着席する。

 机に散らかったチョコの欠片は徐々に溶け始めている。

 一旦指輪から目を逸らし今できる事をはじめた。

 お昼の片付けだ。

 自分の不運を嘆きつつ、オウマは机の上を綺麗に拭いて水筒と弁当箱を鞄にしまった。

「おっまたせー」

「相変わらず早いな、それでどうだった?」

 片付けを終えたのとほぼ同時に、ナラカの水色の髪が風を切って正面に舞い戻る。ビシッと挙手敬礼して状況報告。

「購買に聞いてきたけど、誰もそんなお菓子知らないって言ってた。不思議だね」

「おい……購買で買ったのは確かだろうな?」

 机の上で手を組み、顎を乗せてオウマは審問官のように問う。

 ナラカは椅子に座り直してこくこくと頷きながら返した。やはり反省の色は無い。

「うん。学校に来て、なんとなくフラフラっと立ち寄ったらコート着たおねえさんっぽい人が居てね。今は居なかったけど。その人が“可愛いおねえちゃん、いいもんあるッスよ”とかって十円で売ってくれたの。可愛いって言われちゃったら買うしかないよねー、安かったし。えへへ」

 オウマは絶句した。

 ナラカの言葉が真実ならば、彼の不安は益々もって現実味を帯びてくる。

 このタイミング……大会直前に校則違反にでもなれば、出場できない可能性がある。それどころか学園生活最大の汚点となるだろう。

 そして狙いは間違いなくナラカだ。

 彼女はこの魔法大会に出場する生徒の中でも屈指の実力者であることが前大会で知られている。姑息な手段だが、出場させないというのが一番の対策となることはオウマも理解できていた。

 なにより彼女は自由奔放。ありていに言って頭が悪い。ゆえに罠に嵌めることも容易いと犯人は思ったに違いない。

 目を引く奇妙な駄菓子。

 強気の値段設定。

 褒めちぎる安っぽい文句。

 どれをとっても子供騙しだがナラカには通用しうる。

 オウマの推理を知ってか知らずか、ナラカは空のカプセルで手遊びしていた。

「買う前に少しは疑え」

 肩を落とし、顔を押さえるオウマ。

 ここでようやく彼の気持ちを察して、ナラカは遊ぶ手を止めた……と思いきやそうではなく、ナラカはオウマの指を狙って手を出す。力づくで解決しようという豪快な性格はオウマもよく知っているので、ナラカが動いた瞬間にサッと机の下に手を隠す塩対応だ。

「やめろ」

「もう一回だけ、試していいでしょ?」

 空振りした手をにぎにぎさせながら彼女はふくれた。

「駄目に決まっているだろ」

「……あたし反省してるの。こんな事になったのって半分はあたしのせいだし」

「全部お前のせいだ」

「指輪が抜けなくなったら洗剤を使うといいって聞いたことがあるの」

「話を逸らすな」

 話どころか目まで逸らして、ナラカはわざとらしく袖をまくる。

 腕時計を見るようなジェスチャーに何の意味があるのかは定かではないが、彼女はおもむろに立ち上がって出口へ向かった。

「大会、一緒に頑張ろうねっ! それじゃ!」

 てへぺろっ!

 チョコのついたほっぺをひと舐めして、彼女は去った。


・・・・


 ニヒルなオウマの無表情には、学校指定の黒ジャージがよく似合う。

 着替えを済ませて腕の筋を伸ばすと、指に当たる感触で指輪の存在を改めて意識した。昼休みの時間はまだ少し残っている。大会前に先生に事情を説明するためオウマは教室を出た。向かうのは職員室だ。

 三年目にしてようやく出場できると思った矢先、校則違反で出場停止などありえない。憎らしげにポケットにつっこんだ左手を握る。廊下を歩く足取りは普段と変わらないが、視線はやや俯きがちになる。

 廊下を抜けて、オウマは階段を下りた。

 見えてくる細い通路の先、職員室のネームプレートに視線がそそがれる。そしてもう一つ、彼の視線を奪ったのが廊下の中ほどから歩み出る一人の女子生徒だった。

 オウマは指輪を見られないようにポケットに手を入れたまま通路を進んで、すれ違いざまに会釈する。

「こんにちは清姫」

「こんにちはオウマ先輩。職員室に御用ですか?」

 控えめな声、白ジャージの一年生はオウマの後輩だった。

 過ぎ去るオウマの背を追って振り返る、サラサラと流れる墨のような黒髪は、腰元で切り揃えられてつややかに光を受けた。前髪も同様に揃っていてまるで日本人形のような容姿だが、瞳は水色と黄色のオッドアイ、鼻筋もどこか西洋の雰囲気を漂わせる。

 彼女は神宮寺清姫(じんぐうじきよひめ)。前回の優勝者である三年一組の神宮寺時臣(ときおみ)の妹だ。

 幼い頃にオウマとナラカは父に連れられ、彼女の家で魔法の習い事をしていた。その時からの顔見知りであり、一言で言えばオウマの幼馴染である。

 清姫はゆっくりとした動きで前髪を分け、龍を模した髪留めをさしながら口を開いた。

「……また、ナラカさんですか?」

「まあそんなところだ」

 歩みを止めないオウマに、清姫は少し間隔を取ってついていく。

「何だ?」

「その、差し出がましい事なのですが……」

 ことわりを一つ入れて、清姫は周囲を気にした。

 誰もいないのを確認して、足を止めたオウマの傍に歩み寄る。

 そして耳元に手を添えて囁いた。

「先輩は、ナラカさんとはもう関わらない方が良いです」

 言葉の真意を測りかねるオウマは、振り向いて顔を付き合わせる。

 身長の差もあってか、上から見下ろす形になっていた。

 どうしてそんな事を言うのか、とオウマが口にするより先に、白い指先が唇に封をする。

「怖い顔をしないでください。私はただ先輩が困っているのを見ていられないだけです」

「そうか……俺は別に困っていないのでな。清姫が気にする事はなにも無い」

「そうですか。わかりました」

 頭を下げる彼女に背を向け、オウマは僅かに硬くなった眉間を伸ばした。



・・・・


 指輪の件を担任に伝え、出場に関するやり取りを終えたオウマは職員室内の時計を確認する。針はもうすぐお昼休みの終わりを告げようとしていた。

「失礼しました」

 職員室を出ると、階段から校舎入り口までずらりと生徒が並び、靴箱の順番待ちをしていた。オウマもそこに混じる。耳に届くのは期待と高揚を隠し切れない生徒達の声であった。彼も胸の内が熱くなるのを感じて、ぐっとポケットの中で手を握り締めた。



「では、始めに開会の挨拶を、校長先生から」

 全校生徒が集うグラウンドにて。

 チャイムと同時に始まった大会前のルール説明及び校長の長話はナラカの右耳から左耳に通り抜けていった。彼女はもう準備運動をしていた。後でちゃんとあるというのに、どうにも気が急いているらしい。

 広いグラウンドに集まった生徒はクラスごとに整列し、遠目に見ればまるでモザイクアートのように映るだろう。そんな中で一人だけぴょこぴょこと屈伸するものだから目立ってしょうがない。

「おっほん!」

 マイク越しの咳払いも彼女の耳には入らない。

「えー、それではこちらの表をご覧いただけますかな」

 大会に参加するのは、三年生の各クラスから二名づつと、一・二年生の各クラスから代表が一名。クラスは四組まであるので、合計で十六名が代表として戦う事になる。

 AからDブロックに分かれて勝ち抜きとなるが、振り分けはくじ引きによって決定されていた。

 生徒は大きな木製のボードに注目する。

 掛けられた布が取り払われ、出てきたトーナメント表には、生徒の学年と名前が並んでいた。

「あった! あたしDブロックだ! オウマ君はAだってー」

「わかったから静かにしろ」

 わざわざ二組からやってきて目の前で跳ねるナラカ。その頭を右手で押さえつけながらオウマは先生に頭を下げた。

 ナラカがクラスに戻り、準備運動を終えると、生徒達はグラウンドの隅に寄った。

 各々が見やすい場所で試合観戦してよいのだが、慣例としてクラスごとに固まって応援という形を取る。

「それじゃ始めるぞ」

 一試合目の選手を担任の教師が引き連れてグラウンドに入った。最初の試合はオウマのいるAブロックと、そのお隣のBブロックだ。真ん中で区切られた二箇所が同時に戦場となる為、魔法も物理的な衝撃も通さない特殊な壁が外周を覆っている。さながら縦に長い直方体のショーケースといったところだ。

 試合場の中央、白線の上でオウマは対戦相手と立ち会う。

 観客の応援が静かになった頃合、ただっ広い地面を太陽がじりじりと見下ろしていた。

「二人とも挨拶をして、合図が出たら始めるんだよ」

 担任は後ろへ下がり、壁の外側で保険委員を従えて待機した。傍に置かれえている大きな救急箱は、人が入れそうなくらいのサイズがある。何が起きても万全の体制でサポートできるようにと、その表情にも緊張が見える。

「三年三組の草薙オウマだ、よろしく頼む」

 そういって差し出されたオウマの手に一瞥くれて、対戦相手は数歩下がった。

 燃えるような赤色と、逆立てた挑発的な髪型がキツイ印象を受ける。

「二組の三枝昇(さえぐさのぼる)だ」

 よく通る声で彼は自己紹介をした。

 彼の情熱を表すような赤色のジャージはナラカのものと同じ。身長はオウマより高く体格は引き締まっている。そして鼻頭にひっついた絆創膏が彼の容姿を必要以上に幼く見せていた。

 そしてもう一つ、目を引くのは片手に握られた拡声器である。

 大会のルールとして、生徒は己が身に馴染んだ物品を一つだけ持ち込むことが可能となっている。もちろんそれを利用した直接的な攻撃は禁止だが、魔法の補助として利用する事は大会のルールに反してはいない。

 オウマは差し出した手を引っ込めて三枝の出方をうかがう。

 彼はずっとオウマを睨みつけたままだった。

「二人とも挨拶は済んだな、それでは始め!」

 担任の声を合図にして、二人の間に緊張が走った。

 じり、と靴先が砂をかんだ。

 隣の試合場では既に生徒達が魔法で火花を散らしている。はじける声援もオウマの耳に入っているというのに、視線は対戦相手から一時も逸れていなかった。

 目を逸らせば喰いつかれてしまいそうな剣幕で、三枝の歪んだ口元には八重歯がのぞいていた。

 片手を見せないオウマの不遜な態度が気に食わないというだけでは到底説明がつかない、憎悪に満ちた重圧が感じられる。彼にそれほど恨まれる理由があっただろうかと胸の内を探るオウマだったが、皆目見当がつかなかった。

 しばらくして、三枝は拡声器に口を当てて叫ぶ。

「宣戦布告だオウマ! ナラカちゃんと結ばれんのはこの俺だからな! ぜってー渡さねえからなァ!」

 髪のみならず顔まで真っ赤にして愛の告白をする彼に、オウマは耳を押さえた。

 なるほどそういうことかと納得はしたものの、完全に誤解であった。

「何のことかは知らんが、ナラカに話があるなら直接本人に言え」

「当然だ! だがその前にてめえをブッ倒してその指輪を奪う! 隠したって無駄だからな!」

 三枝はオウマが隠している指輪の存在も当然知っていた。なぜならあの場に居合わせて教室を覗き込んでいたのだから。そしてナラカの爆弾発言が彼に与えた衝撃は計り知れないものだった。

 三枝に恨まれる理由を理解して、オウマはため息を零す。

 そして真っ向から言い返した。

「奪いたければそうすればいい。だがそれには一つ問題があってな」

「指から抜けねぇんだろ? 知ってるよ」

「そうではない」

 オウマの表情はわずかに緩んだ。

 ポケットに片手を入れたまま長い息を吐いて、そして冷淡に言い放つ。

「お前が俺を倒せる確証がどこにもないということだ」

 空気が凍りつく。

 ぴきっと、青筋立ったこめかみと、大きく息を吸い込む音が拡声器から漏れる。

 その音までもがぴたり止んで。

「上等だコラァ!!」

 嵐の前の静けさを吹き飛ばす三枝の騒音がこだまする。

「燃え飛べぇえ!! ブレイジングライナァアアア!!」

 びりびりと周囲の地面を波立たせながら大声はグラウンド全体に広がった。

 振りかぶり、三枝が投げつけた炎の塊は真っ直ぐにオウマを狙う。

 大きさは手に乗る程度の火球だが、その周囲を取り囲む空気の振動でサイズ以上に大きく見えた。

 オウマの黒い瞳が燃え盛る火を映して赤に染まる。

 ただの火でないことは明白だった。

 土を蹴る靴。じゅうぶんに距離をとって火球を避けたというのに、ジャージの袖をかすめた衝撃はまるで横から殴りつたかのように、大げさにオウマの身体を吹き飛ばした。

 ズザザザ――

 受身を取り、痺れた腕を確認するオウマ。

 壁に衝突した火球は爆発音を立てて消失した。

 三枝は指を鳴らした。

「チッ、うまく避けやがったな」

「……振動か、しかしあの炎はなんだ」

 消えていく魔法の残滓を目の端で気にしながら、オウマは右手で砂を払う。左手は相変わらずポケットに突っ込んだまま。まるで吟味するように三枝の顔をうかがうと、彼はますます怒りを面に押し出した。

「その落ち着いた態度がいちいち気にいらねえんだよ!」

 大きく息を吸い込む音。

 オウマは距離をつめるが、まだ手も触れられないような距離で三枝の魔法が発動する。今度は地面に向けての大声だった。

「沸き立てぇえ!! ラァァンド、シェェイク!!」

 超振動が試合場の地面を上下に揺らし、局所的な大地震を引き起こす。

 オウマの脚が止まると、すかさず彼は息を吸い込んで第二波に移る。

 しかしそう上手くはいかなかった。

「う、げほっ!! くっそ、砂が喉に……咽た……」

 拡声器から聞こえた声に、二組の仲間から野次が飛んだ。

 ナラカはというと、何がそんなに面白かったのか、腹を抱えて転げまわっていた。

「え、えへへ。失敗失敗」

 愛しの彼女の前で恥ずかしいことをしたと、絆創膏の上から鼻をぽりぽり掻き、三枝は喉の調子を確かめた。

 あーあー、テステス……拡声器越しの声で仕切りなおして。

「次こそ沈めてやるぜ!」

「俺がな」

 三枝の啖呵を待たずオウマは跳躍していた。

 ほぼ真横に向かって弾丸のような速度で、距離にして数メートルを一気に詰める脚力は魔法による補助がかかっているのだろう。左手はポケットに突っ込んだままに、右手が圧縮された真素をその内に集めていた。

 そして彼の瞳は、内に溜め込んだ真素の影響を受け、血のような赤色に染まっていた。

「やべっ」

 後ずさる三枝の靴底は、緩んだ地面に取られてしまう。

「遅い」

 オウマの掌打が三枝のみぞおちに叩き込まれた。

 三枝の攻撃とは比較にならないほど軽い音だったにもかかわらず、その衝撃は彼の身体を突き抜け、後方の緩い地面をえぐった。

「が……ぐ……」

 取りこぼした拡声器を拾おうと、三枝は蹲りながら手を伸ばす。

 呼吸が止まって今にも気絶しそうな彼に、オウマは容赦無く上から二度目の掌打を叩き込んで……三枝の沈黙を確認した教師が駆け寄った。

「そこまで! 勝者は三年三組の草薙オウマ君!」

 三組の仲間が歓喜の声を上げる。

 オウマの瞳はまばたきを数度するといつもの黒を取り戻し、会場の脇にいるナラカに向けられた。彼女のはしゃぐ姿に頬を緩ませ、それから足元の対戦相手に手を差し伸べる。

「立てるか?」

「い、痛ってぇ……」

 教員の回復魔法は三枝の全身を緑色の粒子で覆い、瞬時に傷ついた身体を癒していた。

 三枝は伸ばしかけた腕を止め、オウマの手を払った。

 震える膝を押して立ち上がるその恨めしそうな表情は、試合の続きしろと言わんばかりだった。

「手はいらねえ……」

「そうか。ならいい。それより三枝、お前に聞きたい事がある」

「なんだよ」

「先ほどの魔法、あの火球の原理を知りたい。振動で発熱するという事は理解しているが、炎が目に見える形で閉じ込められていたのには驚いた」

「ああ、あれは期末テストの……赤点の答案だ。ポケットに入ってたんで丸めて投げつけただけだよ。それが燃えたんだろ」

「……なるほど」

 照れくさそうに解説する三枝に、二度ほど頷いてオウマは背中を向けた。

「待てよ」

「何だ?」

 引き止めた三枝の視線はナラカとオウマの間を往復していた。

 ゴクリ、唾を飲み込んで意を決したように発する声は、拡声器を使わない彼自身の声。

「ナラカちゃんのこと絶対幸せにしろよな。泣かせたらただじゃおかねえからな!」

 そう言ってぐしぐしと瞼をぬぐった。

 涙の粒ができているのはまだ体が痛むからで、決して悔しいからとか、そういうことではない。涙の理由を問われれば三枝はそう弁明するだろう。

 真っ直ぐな彼の気持ちを受け取って、オウマは振り向く。

 そして申し訳なさそうに言う。

「昼のことを言っているのならお前の勘違いだ」

「どこがだよ!」

「ナラカの行動には深い意味は無い。それに俺とナラカは腹違いの兄妹だ、婚約はこの国の法律上不可能だ」

「……は?」

 普段なら家庭の事情を軽々しく口にしないオウマだが、彼の熱意には純粋に魅力を感じていた。

 その真っ直ぐさを踏みにじり事実を隠すような事はしたくないとの配慮であったが、それがかえって三枝の頭の中を真っ白に変えてしまったようだ。


・・・・


 Aブロックの第一試合を終えて、凱旋は優雅に。

 大会初出場にして十分すぎる力を見せたオウマは、三組の仲間にハイタッチをせがまれる。

 右手だけタッチして彼は地べたに座り込んだ。

 すかさずナラカが駆け寄ってきてぺしぺしと彼の額を叩いていた。

 うっとおしそうなオウマの表情はいつも通りだ。

「おつかれさーま。オウマ君強かったぞ。おねえちゃん興奮しちゃった」

「当たり前だ。お前と当たるまで負けるつもりはない」

「やっぱり自信家だったかー、んふふ、じゃあ次も負けないでね」

 くるくるりとポニテを回してナラカは自分のクラスへと戻っていった。

 二人が血のつながりのある兄妹だという事実を知らなかった生徒は多いが、あれだけ過剰なスキンシップを見せ、さらには苗字も違うというのだから無理はない。

 ワケアリな雰囲気を醸している彼等をちらちらと観察する生徒もいるが、単純に好奇心からである。

 オウマはそれを気にしない。そしてナラカは気付いてすらいない。

 彼等の目は真っ直ぐにAブロックの第二試合とBブロックの第二試合に向けられていた。

 火花散らす戦い、手に汗握る攻防が繰り広げられる。

 この試合、Aブロックの勝者は次にオウマとぶつかる相手なので、彼は予習も兼ねてじっくりと双方の使う魔法を観察しておこうという算段だった。

 ほどなくして――。

「オウマ先輩。お隣いいですか?」

 その声は静かだがはっきりとオウマの耳に届いた。

 三組の生徒がオウマに生暖かい視線を寄せると、オウマは咳払いして彼女を隣に招く。

 おしとやかな女座りで太ももに手を添えると、黒髪は地面に広がった。

 一年二組の白ジャージは三組の黒ジャージの中で非常に目立った。

「清姫。お前も出場していたんだな」

「はい。Dブロックの第一試合は私とナラカさんです」

「そのようだな」

 一拍の間をあけて、二人の視線が二組の集団に向けられる。

 そこでは、真っ白になって担ぎ込まれた三枝をナラカがつんつんして暇を潰していた。彼女はもう試合から興味を失ってしまったようだ。

「おかしな人です」

「ああ、だが実力は確かだ」

「ええ。それで先輩は……その」

 小さな顔がスッと持ち上がり、隣に座るオウマを見上げた。

 一度言葉に詰まり、そして彼女は袖で口を隠して、おねだりをするように囁く。

「私を応援してくださいね」

 こころなしか潤んだ瞳がオウマの返答を待たずして閉じられた。

 清姫は立ち上がり、脚についた砂を払う。不思議と髪の毛は綺麗なままだった。

「モテモテだなオウマ。あれって一組の神宮寺の妹さんだろ? うらやましいぜ」

「そうでもない」

 クラスメイトに茶化されて、オウマは面倒臭そうに言い返した。

 再び試合場へ目を移すと……既に勝負は決していた。

 使用されたのは火炎系の魔法らしい。焼け焦げた緑ジャージを気にする男子生徒と、腰に手をあてて眼鏡をクイクイしながら高笑いする女子生徒が目に入った。

 勝者は彼女。名前は向谷不思議(むこうだにふしぎ)とトーナメント表に記されている。背はオウマより高く、紫色をした肩までの長さの髪と、薄い紫の瞳を持つ。手入れをしていないのか、それとも天然なのかは定かではないが、髪の毛先があちらこちらへ跳ねている。まるで自分が出した炎に煽られてパーマがかかったかのようだ。

 水色のジャージは二年一組のものである。ナラカを思わせる余裕の笑顔と、なによりその口調にオウマは関心を寄せた。

「いやー楽勝ッス。三年生も大したことないッスね」

 そう言って指を立てて炎を吹き消す仕草をした彼女の足元には、点々と無数の焦げ跡が広がっていた。男子生徒が肩を落として退場する。向谷はニヤリと挑発的な笑みをオウマへ投げ反対方向へ帰っていった。

「わざとらしいやつだ。挑発のつもりか」

 指輪をナラカに渡した犯人が大会に出場しているのは想像の範囲内、むしろ見つける手間が省けたと、オウマは前向きに考え直し、それからは試合の観戦に没頭した。


・・・・


 Dクラス第一試合はナラカと清姫が出場するとあって、応援も過熱していた。

「ナラカちゃーーん!! 応援してるからなーー!!」

「おうおう! ナラカちゃんに全部まっかせとけーってんだい!」

 復活した三枝の拡声器からキンキンする大音量の声援が飛び出すと、ナラカはご機嫌にバク宙を繰り出して客を沸かせた。

 対して一組の青ジャージ軍団。応援団めいた数人が手を振って口笛を鳴らせば、その先頭で腕組みしている緑髪の男子が妹にエールを送る。

 彼が一組代表の神宮寺時臣、前回の優勝者である。数珠で束ねた髪を解けば女性と見間違うような中性的な顔立ちをしている。目は線のように細く、その奥で黄色の瞳がじっと妹を見下ろしていた。

「ナラカは一筋縄ではいかない相手だ。無理だと思ったら恥ずかしがらずギブアップするんだよ」

「お兄様に言われなくても、わかっていますから」

 清姫は頭を撫でてもらい、硬くなった表情も僅かに崩れた。

 龍の髪留めをしっかりと付け直して、いよいよ戦場へ赴く。ナラカは既に中央で待ち構えていた。

 向かい合い、お辞儀をする。

 担任は既にスタンバイに入り、あとは一声かけるだけという状況になって、ナラカは口に人差し指を押し当てて首を傾げる。

「久しぶりだね清姫ちゃん。ちょっと雰囲気変わった?」

「お久しぶりですナラカさん。あなたがオウマ先輩にしたこと……今でも忘れていませんから」

「んー……」

 清姫の言葉はどこか棘があった。ナラカに向けられている視線もまた同様に冷たい。

 過去に何か二人の間でよからぬ事があったのだろう、そう思われてもおかしくない空気は、先生の声で一旦お開きとなる。

「それでは試合開始!」

 合図と同時に、清姫の身体は大きく後退した。

 まるで空を飛ぶように、とは比喩でなく、風になびいた黒髪は鳥羽のように軽やかに着地する。

 キッと睨んだ先、水色の尾を持つ獣はまるで無関心に肩を回してつま先を立てていた。

「準備運動……余裕ですね。でもそれが命取りです。私に時間を与えた事を後悔してもらいますから」

 清姫は髪留めを外して天に掲げ、もう片方の指先で目の前の空間をなぞる。

 光を灯した指先が、幾度か方向を変えて再び元の場所へ戻ると、その軌跡は青白い光の帯となって空中に星の模様を描いていた。

「お星様だ。綺麗な魔法ー」

「……災禍は雨と共に来たりて、人の祈りを飲む大龍の顎」

 先ほど描いた星の中央に、水の玉が発生すると、その周囲にまで湿りを及ぼした。

 清姫の髪が濡れて頬に張り付いた。

 白のジャージはぺたりとなって、彼女の立つ地面は濡れて色を濃くした。

「連なる鱗の鋭きこと、地を食み木を喰らい、果ては人の都を飲み込めど、荒ぶる魂鎮まることを知らず」

 掲げた龍の髪留めが煌々と輝き始める。

 清姫はそれをゆっくりと手前に降ろして、正面の水玉に突き立てた。

 瞬間、周囲にあった湿気が残らず吸い寄せられ、玉ははち切れんばかりに膨らんだ。

 喉が渇くようなカラカラの空気に、ナラカは口をパクパクさせて不満を浮かべる。

 そして清姫の身体はすっかり乾いて、さらりと髪を払いながら眼前の敵に狙いを定めた。

「流さるる草木に等しき存在よ、蒼き龍神に抱かれ慈悲を乞え、そして恐れよ……」

 トントン、まるで背中を押すように、清姫の手が水玉を叩いた。

 生徒達の目に映し出されたのは、架空の絵巻より飛び出した巨大な龍と思しき水の細工だった。首をもたげたその大きさは試合場の天井すれすれまで伸びて、高みから怨敵ナラカを見下ろしていた。口に並んだ鋭い牙は、まるでガラスのようなてかりを放ち、光を受けて白に染まる。先日の雨で地面の下にまだ湿気が残っていたのは追い風だった。清姫の表情にも若干の笑みが見て取られる。

 視線は真っ直ぐにナラカへ。彼女はまだ指をくわえて龍の頭を観察していた。

「おっきな蛇だね」

「創河蒼龍渦……あの者を飲み込め」

 清姫の言葉を受けて、迫る龍の尾。

 地面を抉る濁流は幾重にも蛇行して、まるで取り囲むようにナラカを責め立てた。

 やがて脚を滑らせた彼女は、茶色の濁流に揉まれて声を上げた。

「わわわわーー、痛たたた!」

 足元の砂利を含む濁流はまるでミキサーのように渦を巻いて、ぐるぐる、ぐるぐると、ナラカの身体を中心に運んだ。こそぎ取るようなざらざらした感覚がナラカの脚に襲い掛かる。ジャージの一部が裂けるとそこから入り込んだ砂利によって擦り傷がいくつもできて……生徒の声には悲鳴も混ざり始めていた。

「そのまま彼女を噛み砕いてしまいなさい」

 清姫の手が、星の魔法陣を真っ二つに切り裂くように振り下ろされる。それと同時にナラカの上部で待機していた龍の頭がいよいよその牙を剥いた。

 迫る大口。並んだ牙は、龍の口が閉じられればナラカの首を真っ二つに引き裂いてしまいかねない。

 待機していた担任も、そろそろ止めるべきかと立ち上がる。

 だがその心配も不要だった。

「うー、試合はまだ始まったばっかりなのに、ナラカちゃんは負けていられないのですよ!」

 濁流の中央で叫んだナラカ。先ほどまで錐もみ状態で流されていた彼女が一踏みすれば、脚がかかとまでめり込んで身体は固定された。

 拳を突き上げるナラカ。傷ついた身体は徐々に修復が追いついて、ほどなく綺麗な素肌を取り戻す。

 しかし服は戻らない。既に半ズボンと化したジャージの下は水の中でますます短くなっていく。このままでは下着まで剥ぎ取られてしまうのではないかと、二組の新聞部は望遠の一眼レフを構えながら彼女を応援していた。

「ヒーローは、ピンチになってからが本番なのよ」

 ナラカは振り上げた拳を地面に叩きつけた。

 轟音と共に地面が割れ、水柱が立つ。

 その中央で、水色の濡れたポニーテールが天を仰いだ。

「ナラカちゃーん、アパカー!」

 繰り出される必殺のアッパーカットが龍の頭を真っ二つに裂いて、彼女の身体を渦の中から見事引きずり出す。

「なんてでたらめな……」

「へへ、ナラカちゃん強ーい!」

 茶色の雨が降る。全身びしょぬれで、顔をかばっていた腕の部分も生地が裂けてビラビラになっているけれど、彼女の身体はすっかり元通りになり、笑顔は先ほどの攻防などなんでもなかったかのように明るくきらきらと輝いていた。

 打ち破られた水の龍は形を失い、広がって地面に染みこむ。

 清姫の唖然とした表情はナラカの視線を受けて再び引き締められた。

 髪飾りを足元に立てて、彼女は手を合わせ、印を結ぶ。さながら祈祷師のような静けさと神聖さを感じさせる動きで、つま先を使い、緩んだ地面に曲線を描く。

 そして出来上がった魔法陣は、先ほど宙に描いた星とは違う太極の形をして、彼女の瞳と同じ水色と黄色の光を帯びていた。

 陣の中央に立ち、再び祈るように手を組んだ清姫。

「迎雲招雷……」

 彼女の足元から濛々と立ち上った黒い蒸気は、やがて雲を作り雷鳴を轟かせた。

 日光を遮る雨雲に、ナラカは不満の表情を浮かべる。

「もう、せっかくの大会日和だったのに」

 ナラカは用を成さなくなったジャージの袖を引きちぎり、丸めてボールのようにして天を仰ぐ。

 だが清姫の目は彼女の一挙手一投足を見逃さなかった。

 油断ならない相手だということは最初からわかっていた、そして先の攻防でもそれは確信できた。だから、まだ不完全な雲を使ってでもここで先手を打つことを選択する。

「雲掴み雷喰らう黒き龍神よ、舞い降りて天地を焦がせ。尾は此処に、胴は其処に、顎は何処に」

 未完成といえど単純な威力は先ほどの水とは比べ物にならない。おまけにナラカは全身ずぶ濡れで、およそアースになりそうな貴金属の類も持ち合わせてはいない。

 気温もやや高い、汗がほどほどに出ているだろう。

 限られた空間内では逃げ場など無い。

 あとは目印を投げるだけ。

「お願い、届いて!」

 ナラカの足元めがけて、清姫は地面から取り上げた髪飾りを投げつけた。

「えっ? なになに?」

 真素を帯びた金色の装飾品は、雲が作り出す影の下でぼんやりと発光し、狙った場所より少し手前に落着する。

「足りなかった……」

 清姫の頬に汗が伝う。危険を承知で直接着けに行けばよかったと、悔やんでも後の祭り。切り替えて清姫は願う。

 一か八か……術の最終段階へ移行する。

 そんな彼女の眼前で、あろうことかナラカは髪飾りを拾い上げていた。

「こんな綺麗なの捨てるなんてもったいないですのう。仕方ないのでナラカちゃんがもらってあげましょう」

「……愚か」

 清姫はパチパチと手を打ち鳴らし一礼。天に向けて二本の指を伸ばした。

 彼女の動きにあわせて雷雲の中央に青白い光の玉が発生すると、ナラカは口をぽかんと開けて関心を示す。

 しっかりと握り締められた髪飾りめがけ、清姫の指先が落とされた。

「天誅!」

 閃光と共に割れるような雷鳴が響き渡る、それも一度や二度ではない。

 どの生徒も目を伏せ、耳を塞いだ。

 清姫も心なしか辛そうな表情で雷の落下地点を見続けていた。

「あばば、あばばばばばばば!!」

 素っ頓狂な声は、連続して落ち続ける雷に合わせてリズムを変える。

 むしろそれだけで済むあたりがナラカの人外なタフネスを物語っている。

 徐々に小さくなる黒雲と雷。蓄えられたエネルギーの全てを一手に引き受けた髪飾りは、ナラカの手の内で朽ちていった。

 目印を失った雷の余剰エネルギーは、周囲の地面に無数の焦げ跡を刻む。

 果たしてナラカは無事なのか、その疑問を浮かべるまでもなく、彼女の無事は確認された。

 けほっ。

 口から煤を吐き、全身こんがりと小麦色になったナラカ。くるくるパーマになった髪の毛も彼女のコミカルな性格にはとてもよく似合っている。黒焦げのジャージはもはや局部を覆うのみとなって彼女の身体を奇跡的に隠していた。

 扇情的な体のラインを惜しげなく披露してはいるものの、相変わらず素振りや声に色気が無い。

「うひゃ、シビシビするぅぅ」

 まるで漫画のような顛末に、清姫は驚きと戸惑いを覚えた。

「こんなことって……」

 戦意を失い後ずさる彼女の目の前で、徐々にナラカの体色が戻っていく。髪を手櫛でとかすと、ねじくれた毛もすぐに綺麗になった。つややかキューティクルの水色はヘアゴムを失って、今はポニテではなく背中に寄りかかっている。

「でわでわ。ナラカちゃんの反撃ですよー」

「いけない……」

 清姫は咄嗟に前髪を触る、しかしそこに頼みの髪飾りはもう無かった。

 怯える彼女の前で、ナラカが足元から拾い上げたのは黒い塊。先ほど丸めたジャージの切れ端……それが雷に打たれて炭化した物だ。

「炭はダイヤモンドと同じだって、オウマ君が言ってたの。ちょっと嘘っぽかったけどねっ!」

 彼女の口からオウマの名が出て、清姫の視線は僅かに力を取り戻した。

 ここで逃げ出すわけにはいかない。その気持ちが強くなっていく。

 なのに震える足は前には進まなかった……。

「ナラカちゃんの必殺魔球ぅぅ!」

 ほぼ垂直に脚を上げた投球フォームは、自分の服装の事などまるで気にしていない彼女の大胆さをそのまま表現している。

 パシャ! パシャ!

 シャッター音とフラッシュの閃光を浴びながら、ナラカの手の内で黒い魔球が圧縮される。

 ギギギギ……気味の悪い音は彼女の手元から。

 そして繰り出される渾身の一投。

「ダイヤモンドボール、一号だーー! うをおおおりゃあ!」

 叫び声は三枝のそれより大きく、そして投げつけられた小さな塊はまるでレーザービームのような速度で清姫の腹部を貫通した。

「かはっ……」

 穴の開いた腹を押さえて正座するように崩れる清姫の悲痛な姿。壁に到達して砕け散るダイヤモンドの輝き。その二つを前にしてナラカは子供のようにはしゃぎ、勝利のブイサインを掲げた。

「やはー! ナラカちゃんの勝利なのです!!」

 三年二組から大歓声が上がる。清姫の兄である時臣もまた手を打ってナラカの勝利を讃えていた。

 魔法大会を初めて目にする一年生に、この試合はあまりに衝撃的で非現実的な光景だった。三年生との温度差がはっきりと見て取れる。勝ち負けではない、まるで殺人を容認しているかのようなこの場の空気が彼等の口を閉ざさせていた。

「そこまで!! 勝者は三年二組水咲ナラカ!」

 障壁が消え、担任と保険委員は清姫に駆け寄りすぐに止血と損壊した体の修復に取り掛かる。

 焼け焦げた肉の穴からはどす黒い中身が零れだしていた。

 ショックで意識が朦朧としているのか、清姫は吐血したまま動かない。

「だいじょうぶ? これ返すね」

 心配して顔を寄せるナラカの声に、担任はあわてて手を出した。

「水咲は来なくていいから、自分のクラスのところへ戻ってなさい」

「えー、うん」

 制止され、ちょっとだけ不満そうに退場するナラカを、意識を取り戻した清姫の顔が追った。口から垂れる血を掌で拭いとり、悔しそうに唇をかんで、彼女は再び目を閉じた。


・・・・


「お兄様ごめんなさい。せっかく貰った髪飾りまで使ったのに、結局負けてしまいました」

 清姫は肩を落とし、焦げくずになった髪飾りを時臣に差し出した。涙の粒が膨らんで零れそうになったところを、時臣が優しく拭ってあげると、彼女はますます涙ぐんだ。傷は綺麗に塞がったが、穴が空いて血の着いたジャージは痛々しい。

「もとより消耗品だから、気にする事はないよ。むしろ彼女を相手によく頑張った方さ。術式も途切れず詠唱できていたし、清の成長をこの目で確認できただけでも俺はうれしいよ」

「いえ……」

 頭を撫でられながら、清姫は兄の胸を借りる。視線はちらりとオウマを気にしたが、すぐに伏せられた。仲むつまじい兄妹の様子は、誰が見ても羨ましいと思えるもので、どこかの誰かさん達とはまるで大違いだ。


「ほらほらー、ナラカちゃん頑張ったんだから撫でてもいいのよ!」

「及第点だ……それより序盤のあれは何だ? 準備運動なら必要以上にしていただろ。それと早く教室から着替えを持ってこい」

 頭部をわしづかみにされたナラカは、オウマの説教を耳に通さず撫で撫でされるまで退かない姿勢を見せる。両手がばたばたと動く様は駄々っ子のそれであり、年齢を感じさせない彼女らしくもあるが、服装が服装だけにみっともない。

 そんな二人を見かねて二組から怒涛の勢いで駆けつけた助っ人が、赤い顔をしてナラカの前に躍り出る。

「なんなら、俺が撫でてやってもいいぜ! ナラカちゃん!!」

「のぼる君はなんか暑苦しいから、やっ」

 ズガンと衝撃を受けた三枝の痛々しい表情には、オウマも同情を隠せなかった。


 デコボコになった地面を均す間、しばしの休憩。生徒達は戦闘で破れた服を着替えに戻る。


 続いてDブロックの試合では一組の神宮寺時臣が皆を沸かせていた。

 下級生を相手に加減をしつつ魔法の手ほどきをする姿は、三年生の模範とでも言うべきか。更に試合中は三年一組の生徒数名が下級生のところへ赴き、実際に時臣が使っている魔法の解説をして、魔法への理解を促した。

 便利な反面、危険と隣り合わせである事の意味を、言葉ではなく直接目にすることで学ぶという大会の趣旨が彼等にも伝わったところで、時臣は相手を降参させて握手を交わした。

 ナラカと清姫の試合が生んだ冷たい空気も、ほどほどに温まった頃合、トーナメントは第二回戦へと進む。

 Aブロックのオウマは、着替えを終えたナラカに見送られて試合場へ進む。相手はあの向谷という女子生徒だ。彼女は既に中央にスタンバイして手足を伸ばしている。眼鏡の奥にある視線はにんまりと品定めするかのよう。よほど自信があるのだろうと、オウマも期待しながら見合った。

「三年三組の草薙オウマだ」

「二年一組の向谷不思議ッス。よろしく」

 わざとらしく差し出された左手をスルーして、オウマは右手を彼女の掌に合わせた。

「俺は右利きなのでな」

「変な握手ッスね」

 普段からナラカの奇行に振り回されているオウマは、こんな安い挑発には乗らない。

 向谷もそれをわかってやっている節がある。愉快そうに笑いながら距離を取って、ここで試合開始の合図が飛んだ。

「試合始め!」

 開始早々にオウマは前に出る。

 炎の魔法を警戒しつつ低姿勢で接近を図る彼に、向谷は指先を合わせて火を灯す。

「灯火の銃弾を我が手に。ファイアバレッツ!」

 簡単な詠唱をして拳銃の形を作った右手の人差し指から、炎の玉が勢いよく発射された。刑事ドラマなどでよく目にする簡単な魔法の類だが、威力のほどは地面に焦げ跡を残す程度である。当たればやけどは覚悟しなければならない。

 オウマは飛んでくる火炎弾を拳で打ち払いながら肉薄する。

「弱いな」

「詠唱短縮してるからこんなもんッス。むしろ何の詠唱も無くそんな密度出せる方が異常なんッスよ」

 眼鏡を直す向谷と、オウマの視線が交差する。

 あっさり懐に入れて拍子抜けだったのか、オウマは鼻を鳴らして仕留めにかかる。

 パシンッ!

 右手で彼女の腕を打ち落とし、さらに一歩踏み込むとオウマの足元では地面が僅かに陥没した。そのまま全身を使って腹部を狙った肘打ちを繰り出す。

 向谷も黙って突っ立っているわけではない。

 オウマの攻撃に合わせて後方へ飛び退いた。

 詠唱破棄の飛翔魔法を使った無茶な加速のせいで、ふらついて尻餅をつく。

「っとと……下級生相手に手加減無しッスか」

「当然だ」

 ずれた眼鏡を正してすぐに立ち上がる向谷。

 その隙をオウマは逃がさない。

 跳ぶような踏み込みと同時に、彼女の顔めがけて前蹴りを放つ。

 ビュウ、と頬を掠める靴底に向谷は冷や汗をかいた。

「お、女の顔に蹴り入れるなんてエグいッス」

「それでかわしたつもりか」

 向谷の肩に乗せた足の先を細い首に引っ掛けて体重を乗せる。そして軸足で地面を蹴り、下から掬い上げるように彼女の顎を狙う。

 バシン!

 乾いた音が響き、向谷の呻きが喉から搾り出された。

「んぐっ」

「いい反応だ」

 直撃では無い。

 咄嗟に腕を交差させて下からの攻撃をブロックした向谷は、体が浮いているオウマを捕らえにかかる。そのままパワーボムのように地面に叩きつけるつもりだった。

 しかし、彼女が腕を広げてオウマの両脚を抱え込もうとした瞬間、オウマは片手を地面につき、独楽(コマ)のように回転しながら彼女の両腕を弾き飛ばした。

 そして無防備になったわき腹を横から薙ぐ。

 ドゴッ、先ほどと違う鈍い音を立てて向谷はグラウンドに転がった。

 オウマは片手逆立ちの状態から足を下ろし、ズボンで右手の砂を払う。指を突き立てていた地面は抉れて螺旋状の穴が空いていた。

 左手は、戦闘が始まってからずっとポケットの中だ。

「立てるか」

 ……。

 反応は数秒後。

 ふらつきながら立ち上がった向谷にオウマは笑みを返す。

「嬉しそうッスね。兄妹そろって戦闘狂……魔法らしさの欠片もないことで」

「すまんな」

 彼女の手は暖かな緑の光を帯びて、先ほど攻撃を受けた腹部を癒していた。

 やがて治療が終わるとオウマも右側面を前に出して構えをとる。

「左は使わないんッスか?」

「ああ、誰かのせいでな」

「ナラカさん?」

「お前だ」

 指輪事件の元凶が白々しく笑う姿には、オウマも少し癇に障ったのか表情を硬くして拳に力を入れた。

 ギリリと鳴る指の隙間から熱とも違う揺らめきが発生し、彼の拳全体を覆う。真素を圧縮した打撃武装が彼の最もよく使う魔法である。距離を詰めなければならないという欠点を除けば、単純だが威力は申しぶんない。そして、その欠点を補って余りある身体能力がオウマには備わっている。鍛えられた体は太さ以上に筋肉の密度が高く、補助魔法による強化も施されている。

 瞳が赤に染まると、向谷もいよいよ笑ってはいられなくなった。

「……私も本気出さなきゃね。やられっぱなしじゃ、やっぱかっこ悪いッスから」

「その前に潰させてもらう」

 オウマの足元で地面が爆ぜる。

 開始直後とは比べものにならない突進力は、三枝との戦いで見せたのと同じかそれよりも僅かに速い。壁の外では歓声も上がった。

 あっという間に向谷の眼前。彼女の行動を待たずに接近したオウマは、そのまま腹に一撃お見舞いして勝負を決めるつもりだった。

 しかし寸前で彼の足は動きを止めた。

「ちッ……なんだ?」

「惜しい、もうちょい前だったッスか」

 二人の体が重なる少し手前、硬く握られたオウマの拳はまだ腰元にあって、彼女に到達してはいなかった。

 けれど袖口はまるで焼き切られたかの如く焦げて煙を立てていた。

「ふふっ」

 向谷は笑う。

 いったいどこからの攻撃なのか、オウマは身を引いて周囲を警戒した。

 見れば彼女の指先に、いつの間にか炎が揺らめいていた。

 けれどオウマは目を凝らして、すぐに空中を漂う半透明の何かを見つける。

 形は楕円形。大きさは掌に乗る程度。

「レンズか。なるほど、一回戦の焦げ跡は光でできたものだな。炎はカモフラージュ、違うか?」

「ありゃりゃ、もう見破られたッスか。まあいいッス。戻っておいで」

 左手で眼鏡をつまみながら、向谷は右手指先の炎をフッと吹き消す。

 指をくいくい動かしレンズを招くと、宙に浮いたレンズ状の物体は彼女の指示に従い肩のすぐ傍まで降りてきた。

「さっき吹っ飛ばされた時に、一つ仕込んだッスよ」

 そう言って足元の小さな魔法陣を指差す向谷に、オウマは目もくれず即座に言い返す。

「一つか?」

「……男の癖にめざといッスね」

 オウマの目にはレンズが二つ見えていた。

 一つは今彼女の肩に、そしてもう一つは少し高い位置でギラギラと陽光を集めていた。

「角度的に太陽で見えないと思ったんッスけど、どうしてわかったッスか?」

「見ればわかる」

「……ま、いいッス。次は威嚇じゃないんで」

 向谷の指が再びくいくいと動き、後方のレンズの幅と角度が変化した。

 レンズから照射される光線は、彼女の指示一つでオウマを狙い撃つことができる。まさに光の速度で敵を貫く不可視で不可避の槍である。

「とりあえず腹ッスね。その黒いジャージはよく燃えそうッス」

 オウマの中央に狙いを定め、向谷は指差した。

 寸分の誤差も無く、時間の差も無く、彼女の動きに合わせてレンズの内に蓄えられていた光のエネルギーが、真素と混ざり合って照射される。ただの光ではなく衝撃を伴った魔法のレーザー砲。煙も砂埃もないグラウンドでは、光の軌跡を目にすることはできない。

 しかし、オウマはその不可視の軌跡を読み切り、かわして向谷の元へ駆けた。

「ん、マジっすか」

 向谷も飛翔の魔法を使って後方へ跳んだ。

 驚くよりも感心したと、彼女は手を打ってオウマの追跡を逃れる。今度は上手く姿勢を制御しているのか、彼女はふらふらと蛇行するようにオウマから離れていった。

 オウマは彼女を追いつつ口を開く。

「レンズの角度から光が当たる位置は推測できた。それと、溜めたエネルギーを放出するのだから、次の照射まで相応の時間が必要になるはずだな」

「ご名答。んで、もう溜まったッス」

「……きっちり五秒か」

「ほんと、理解が早いッス」

 彼女が指差すと同時に肩に乗っていたレンズは形を変える。

 そしてオウマの体はその線上から外れた。

 地面だけが焦げて黒くなる。

 向谷は低空をふらふら飛んで逃げ回りながら、オウマを狙って光線を照射する。けれど今度は当てるどころかジャージの端すら焦がせていなかった。

「全然当たんないッスね」

「直線ではな」

「じゃ、数を増やして……」

 光線でオウマの追跡を妨害しつつ、空中を漂いながら眼鏡をつまんだ向谷は、薄紫色の目を閉じてブツブツと小さな声で詠唱に入る。

「月夜の水面より掬い上げたるは満月の、揺らめく姿は海を離れて空に舞い、夜を抜けては昼に煌く。蒼天仰げ、汝は今太陽の子ぞ」

 向谷は眼鏡の角度を少し上向きに変える。

 キラリ陽光を受け、反射したレンズが真っ白に染まり、その(ふち)がおぼろげに拡散した。

「グラスィーズ・スカイフィッシュ……空飛ぶ円盤ってとこッス」

 拡散した丸いレンズの光は数にして八枚。空中で質量を得て、やがて楕円形のレンズへと変化する。最初の二枚と合わせ、合計で十枚のレンズは彼女の周囲に集い、まるでクラゲのようにふわふわと漂っていた。

 癖なのか、彼女は再び眼鏡をつまんで口の端を持ち上げた。

「準備完了、そろそろ決めにいくッス」

 低空飛行を続けていた向谷の体の下に、生み出されたレンズが二枚入り込んで足場となる。

 ふわふわと、まるで宙に座るように彼女の体は空へと舞い上がった。

 天から見下ろす仏の如く、彼女の背にはレンズの後光が備わる。

 オウマは憎らしげに見上げ、攻撃の兆しを察知するや否や、大きく横へ跳んで回避した。

 地面を焦がす、発射された光線は合計三本。

 時間差で更に二本の光線が放たれると、オウマは再び地面を蹴って反対へ転がった。

 崩れた姿勢の彼に、残りの三本の光が降り注ぐ。

 その内二本はオウマの脇と股の間を抜け、残る一本は首筋をかすめていた。

 ジジジ……光を受けた皮膚はまるで焼き鏝を押し当てられたみたいに白く変色している。

「かすっただけッスか」

 目を真っ赤にして立ち上がるオウマへ、向谷は再び指先を向ける。五秒というチャージ時間はあまりにも短い。

 三本の光線が降り注いで、今度は彼の左足のジャージが煙を上げた。

 続けて二本。避けた先にさらに三本の光で追い撃ちをかける。

 今度は髪の毛の一部がくしゃりと熱で溶けた。

「そろそろ降りて来ないか?」

「いやッス。誰かと違って私はか弱い乙女なんで、筋肉馬鹿と正面から張り合ったりはしないッス」

「そうか」

 オウマの説得もむなしく、彼女は再びレンズに指示を下した。


 壁を隔てた外の生徒達は、二人の攻防をただ不思議そうに見守っていた。

「オウマ君なにやってるんだろね。あんなのちょこちょこっと飛んで蹴っちゃえばいいのに」

「それができるのはナラカちゃんくらいだって。てかあれ、光っつってたか……無理くさくね?」

 ぶーぶー口を尖らすナラカの隣で、三枝は難しい顔をしていた。

 自分ならばどう避ける、どう攻める……いくら考えても彼の回らない頭では正解は見えてこない。そもそも敵の攻撃がどこを狙っているのかさえわからないようではどうしようもないのだ。

「なんでオウマはあの攻撃避けられるんだ?」

「きっと目だね。ほら、オウマ君の目、今赤くなってるでしょ」

 ナラカの指差す先で、オウマの瞳は濃い赤色を宿していた。

「赤いな……しかもちょっと光ってるし。なんか怖えよ」

「ナラカちゃんの推理によれば、あれは人には見えない光線を見ることができるのですよ。ほらほら映画とかである、ぎゅーんてなってる機械の」

「ぎゅーん? ああ、赤外線スコープか」

 手で輪を作って望遠鏡を真似る彼女のジェスチャーから、三枝はできる限り正解であろう言葉を選んで返した。

 ナラカはこくりと頷く。

「うんそれそれ、オウマ君の目はきっとそのせきがいせんスコップなのですぞ」

「スコープな。でもあれってレーザーの軌道とか見えんの? てか昼間使えんのか?」

「え、わかんない」

 ……。

 とにかく、なぜだかよくわからないけど光線を避け続けるオウマを応援しつつ、三枝はナラカの不満そうな顔をちらちらと気にしていた。

 

 一方、隣の一組では時臣と清姫が仲良く並んでオウマと向谷の試合を観戦していた。

 清姫は先ほどの試合で破れたジャージから制服に着替え、前髪を可愛らしい兎の髪留めで分けている。その隣で時臣が腕組みしながら彼女に問いかける。

「清なら、彼女をどう攻略する?」

「雲を呼んで光を断つと思います。相手は火と光を使ってきましたので、水が得意な私とは相性も悪くありませんし。問題は詠唱を許してくれるかどうかですね……兄様はどうなさいますか?」

「俺なら詠唱短縮した風でレンズを吹き飛ばすかな。見たところそんなに重そうじゃないし。砂を巻き上げるという手段もあるね。他にも遠距離で攻撃する手段はいくつもあるけど……」

 清姫に返答しながら、時臣はじっと試合を眺めていた。

「今のような状況になるとそれくらいしか方法は考えられないかな。空を飛んでいる時点で迂闊に接近はできないだろうし、彼女もそれを許すとは思えないからね」

 地上を駆け回るオウマと、上空でただ指示を下すだけの向谷ではスタミナの消費も違う。攻撃手段も無く逃げ回っているだけだとすれば、いずれは足を止め、オウマは光線の餌食となるだろう。

 それを思うと清姫の表情も険しくなった。

「向谷さんだったかな、彼女は上手いよ。空を飛ぶのは接近戦を回避すると同時に視界を広げる効果がある。前後左右どこに回りこんでも彼女の射程圏内だ、おまけに地上からじゃ太陽が邪魔で判断力も鈍る」

「感心している場合ではありません」

「いや、でもこうも見事に魔法を使いこなしているのを見ると、心が躍るというか……それにまだ二年生だしね。先が楽しみだよ。うん」

 時臣はこくこくと頷いた。

 それから、頬を膨らます妹にちらと目を向け、複雑な心境で再び試合を観戦する。


 熾烈を極める光の雨を、オウマは回避しつづけていた。

 ジャージの焦げはいくつか増えたものの、彼の体には致命傷となる傷は一切無く、向谷の顔にも焦りの色が見え始めている。

「流石に、この日差しは暑いッス……そろそろ終わりにしないッスか?」

「お前の負けで終わるのならそれでかまわんぞ」

 オウマの闘志は未だ尽きる事を知らず。動きはどんどん切れを増していくばかりで、今は笑みすら見せる余裕がある。

 向谷は不思議に思った。疲れは確実に溜まっているはずなのに、汗もあんなにかいているのに、どうして彼はこうもミスをせず光線を避け続けられるのか。

 見下ろせば、視界の中で動き回る黒い影。その頭部に存在する二つの赤い光は、ずっと向谷の方を向いている。

 彼女は身震いした。

 徐々に高度が下がってきているのは、きっとオウマも気付いているだろう。

 光を照射し続けてきたレンズの耐久力も、そろそろ尽きる頃だ。

 向谷はオウマの右手に注目する、高密度の真素を纏った拳が周囲の空気を歪ませている。

 もし空中から降りてあの拳に殴られでもしたら、どうなるか知れたものではない。想像するだけで恐ろしいこの状況に、向谷はまた眼鏡のつるを触った。

「そろそろ、決めにいくッス」

「先程も聞いたな」

「こんどは本当ッスよ」

 オウマの嘲笑に、向谷も鼻で笑って返した。

 太陽に掌をかざすと、レンズが輪を描くように頭上で旋回し始める。

 そのまま彼女は地面すれすれまで降りてきた。

「観念して降りてきたのか?」

「いいや、違うッス」

 オウマの挑発に向谷は掌を向けて答える。

 旋回していたレンズが彼女の正面に一直線に並んで、ぐにぐにと、まるで水滴を束ねるかのように融合していく。そうして、透明度はそのままに彼女を覆いつくすほどの巨大レンズが出来上がった。

「……せっかちな男ッスねえ」

 上下逆さまの風景の中で、オウマは既に動いていた。

 一気に彼女の眼前へ。

 迫る赤い瞳は輝きを強める。

「終わりだ」

 握り締めた拳を開き、レンズに向けて強烈な掌打を放つ。

 三枝との戦いで見せたものと同じ、ただ威力が桁違いなだけの一撃はレンズを容易く砕いてその先にある風景を衝撃でなぎ払った。

 けたたましい音。

 砕けたレンズが土塊と一緒になって、試合場壁面に激しく突き刺さった。

 巻き上がった地面の破片は天井にまで及んでいる。

 バラバラと降り注ぐ湿った土は、オウマの視界に茶色の雨を降らせていた。

 瞳の赤色は徐々に黒へと戻っていく。

 抉れた地面の先にいるはずの敵を探し、オウマの視線は右へ左へ動く。

 しかし、発見するよりも先に、彼の耳元に声が鳴る。

「こんなの当たったら死ぬッス」

「上手く避けたものだ。レンズの向こうに見えたのは光の屈折でできた虚像か? 飛行に使っていたレンズを利用したか」

「あはは、なんでわかるんッスか」

 向谷はオウマの背後を取って、そこで攻撃もせず関心を寄せていた。

 密着距離、吐息まで感じるほどに近い。

 振り返ればそこに敵が居るこの状況をオウマが見逃すはずも無く、振り向きざまに右肘で彼女の頬を狙う。

「いッ……」

 オウマの一撃を、彼女は上体を反らすことで回避した。

 鼻先を掠めた肘は、パキッと歪な音を立てて彼女の眼鏡を奪い取った。

「いい反応だ」

「んふふ。残念」

「逃げるだけがとりえだと思ってい――んンンッ!?」

 言葉も途中で、オウマは目をぱちくりさせて硬直する。

 口を塞ぐ柔らかな感触と、頬に感じるあたたかな吐息。甘いブルーベリーの香りは、目の前の紫色の髪から微かに匂い立っていた。

 ちゅうぅぅぅぅ――と長く音を立てて、向谷はオウマの唇を奪う。

 彼女の両腕は、自分より背の低いオウマの首をぎゅっと抱きしめて離さない。

「「キャー!」」

 歓声が沸き立って、学園全ての視線が二人に注がれた。

 オウマの黒い瞳がまばたきを繰り返し、頬が真っ赤に染まる。

 右腕はぐいぐいと彼女の腹を押して引き剥がそうとしていた。しかし向谷は片足まで絡み付かせて、ますます彼の体に密着する。ぷるんとした丸みの感触がオウマと彼女の間で存在感を放つ。

 身長の高い彼女が体重を全てオウマにかけて身を委ねると、そのまま地面に組み伏せられてしまいそうなくらい彼の体は仰け反って、緩んだ地面で踏ん張りが利かない。しかも真素を大量に消費した直後とあって、超人的な身体能力を発揮するためにはもう少し時間が必要だった。魔法を構成しようにも集中力が必要なのに、それを妨害するかのように向谷はオウマの唇に舌を滑り込ませる。

 視線が交差すると彼女はわざとらしく片目をつぶって見せた。


 壁の向こうでは。


「不潔です……」

「ははは、オウマは昔からああいうの苦手だったよね」

 ふくれっ面の清姫の隣で、時臣が愉快そうに頷いていた。

「ひゅーひゅー!」

 二組のナラカは口笛を鳴らして手を打つ。三枝は彼女の隣で口を押さえて固まっていた。オウマを見守る担任も保険係も、試合を止めようとはしなかった。

 動きの無い攻防はしばらく続いて、オウマはまるで自分が晒し者になっているような気分だった。お昼に加えて本日二度目の恥辱に、彼の顔は真っ赤になる。

 瞳が再び赤みを帯びたのは、およそ三十秒ほど後のこと。

 鈍い音を立てて二人の間で炸裂した拳打が、向谷の体を容赦なく後方へ吹き飛ばしたことで、勝負は仕切りなおしとなった。

「何の真似だ!」

 オウマは叫ぶ。

 拳を震えさせながらぐしぐしと口を拭うと、まだ微かに残る甘い香りが彼の意識を逸らす。

 向谷は腹を押さえたまま立ち上がり、ちょうどそこに落ちていた割れ眼鏡をかけなおす。つるを触る癖はこの状況でも健在だった。

「いたた、ひどいッス」

 オウマの目が彼女を中心にすえる。攻めるチャンスにもかかわらず、オウマはじっと距離をとって警戒していた。

 説明を寄越せと言わんばかりの彼に向かって、向谷はぺろっと唇を一舐めして微笑する。

「真素吸収と魅了の魔法っス。でも効き目薄いッスね」

「キス以外にやり方は無かったのか」

「あ、もしかして付き合ってる子いたんッスか? そりゃ失礼したッス」

「そうではない」

「慣れてないだけッスか。じゃあ問題ないッスね、私もファーストっすから」

「そういう問題でもない」

 爆弾発言をさらっと投げて、オウマの心情にますます揺さぶりをかけた彼女は、片手を上げてついでにもう一つ爆弾発言を投げつける。

「んー、じゃ降参ッス! 割れた眼鏡だと満足に魔法も使えないッスからね」

「何だと!?」

 レンズの抜けた眼鏡のフレームをカチャリ。オウマを散々おちょくるだけおちょくって笑う向谷の顔に、悔しさは微塵も感じられず、勝ち負けなど気にしていないのが丸分かりであった。

「そこまで! 勝者は三年三組の草薙オウマ!」

 担任が高らかと勝者の名前を呼んで、二人の怪我を保険委員が癒やす。

 こうして、波乱のAブロック勝者はオウマに決定した。

 壁が消える。

 隣のBブロックでも既に試合は決していた。

 崩れた地面を修復するため、係の者が数名、ローラーを引いて入場した。

 立ち尽くすオウマの視線はまた黒に戻って、視界はじっと向谷を捉えたままだった。

「んじゃ、楽しかったッスよ」

「待て」

 何の説明も無く引っ込もうとする向谷に、オウマは追いすがり腕を掴む。

 ガシッと握られた手首を見て、向谷の顔がニヤニヤと笑った。

「意外と積極的ッスね」

「お前に話がある、ちょっと来い」

 抵抗を見せない彼女を引き連れて、オウマは自分のクラスへと戻る。

 痛い視線はこの際見ないフリをして、大きなため息は今日一番だった。

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