「私は○○だから」「こう思う」「あの人は○○」って言うと疲れるんですね
※文章がやや喧嘩腰でまとまりがなく、押し付けがましいです。ごめんなさい。
言葉を使うとは、ある意味、可能性を小さな檻の中に閉じ込めるということなんですね。圧縮ファイルのようなもので。
タンポポも桜もコバンソウも長い進化の歴史があるはずで、一つ一つの命に、その子だけが感じるストーリーもあるはずです。日がよく当たって心地良いとか、よく虫が来るとか、側を人が通るとか。
そしてその植物たちに対して思い入れを持っている人間もいます。
一つ一つ、そのものを見ると、様々な可能性とストーリーが流れ込んできますよね。こうかもしれないし、ああかもしれない。どの感じ方が正解とか、無いと思います。
でも文にすると、イメージがある程度固定されます。ゲームとか物語とか。それを見る人は「感じる」ことはできるものの、用意された選択肢以外を選べません。
倒すべき敵キャラとして出てきた相手に、「こんな戦いはもうたくさんだ。やめよう」と伝えて和解することはできませんよね。
だから最初の選択が肝心なんです。「その世界に参加するか、参加しないか」
と言っても、選んでみないとイマイチか面白いか分からないですが。
映画でも同じです。感情移入できるタイプの主人公であれば映画を見て楽しめますし、荒唐無稽であっても世界観にどこか共感できる部分があれば面白味を感じられますが、最初から最後まで「えー……?」と思うような展開だったら楽しめません。
見る世界は自分の選んだもので、最初の選択権は自分にあるんですね。
で、自分で選んでいるうちは良いんですが、中には選択権を忘れた概念もあります。
図鑑を見ると、この植物は○○科の多年草だと書いてあったり、この虫は畑を荒らす害虫だと書いてあったり。フーン、なるほどねーと思いつつ、特に疑いもせず受け取ってしまいますよね。
明らかに差別的だと思われる価値観は「それはどうかと思う」と拒否しても、別に間違いではないこととか、本に載っている信用性の高そうな情報とか、正論かなと思うことは無意識に頭の中に入れてしまいます。
それでいつの間にか、元の「自分の感性」「他の可能性」がじわじわと削られていきます。
私の考え方は、いまや私のものではないところが多大な容量を占めています。貴方の考え方も、ハッキリ言って貴方の考え方ではないです。
ま、自分のものじゃないのも含めて「自分のもの」という考えもありますが。
考え方から、自由になりたいです……よね?
私はすぐに、「こう思う」「ああ思う」と言ってしまいます。そして人間、一度言ったことは一応筋を通そうとします。でないと信用失いますもんね。
「人が苦手」と言ったらそのように振る舞います。「こういう性格、こういう考え方」と言ったら、そうであろうとします。「あれはこういうもの」と決めつけたら、その考え方を保とうとします。
だから細かく言えば言うほど、自分の首を絞める可能性がありますね。言ったことをケロッと忘れるタイプなら(自分の精神は)大丈夫ですが。
「あいつがさー、○○で○○な時に○○なところ、マジで嫌なんだよね。○○なんじゃないかと思う」と設定すればするほど、自分も似たような行動をとらぬよう気を付けなければならなくなります。
自分に対する分析であっても「私は○○な場合○○する人間だ。それでも尚○○ならば○○しよう」などと自分のキャラクター設定を書き加えれば書き加えるほど……なんだか気分が重くなりますね。人から「貴方はこういう人よ」と、思ってもいないことを言われた場合と同じで。
私は最近「人の意見を聞くとなんだか疲れるなー」と思っていたのですが、原因は自分の受け取り方でした。
「へぇ、この人こういうタイプか」で終わらせておけばいいのに、人の意見を「ああじゃないか、こうじゃないか」とこねくり回し、結論付け、自分で自分の可能性を奪っていった。だから苦しかったんです。
今後は人や物、そして自分の可能性を伸ばす方向で考えるよう気を付けたいです。
例えば私は、現実で攻撃的な男性と出会いやすかったのですが、ここで男性に対して偏見を持つと一気に世界が狭くなりますね。
もし今後たまたま嫌な男性に五回会ったとしても、「まだ男尊女卑が色濃く残っていて、男性にはこういう考え方と傾向があり……」などと意見を付けたら、またしても可能性の幅を狭めてしまいます。
犬に吠えられようと、猫に引っ掻かれようと、身の回りの女性が陰口を言うタイプの方ばっかりだろうと、そこで感情にまかせてでたらめな考え方に至ってしまうと、それを越えるところにたどり着けないです。
「疲れる考え方」はおそらく自分にとって間違いですね。
皆自分の世界観を越えるものを探しています。そしてそれは自分で生み出せます。
自分が嫌いだと思ったこと、苦手だと感じたこと、「こういう人種はこうだ」と決めつけたこと、全部越えられるはずです。
嫌いじゃない。苦手じゃない。「こうです」と一言で示せるようなものなんかない。皆心を持った人間なんだから。
私は私のことを分かっていない。貴方も貴方のことを知り尽くしてはいない。私が分かった気になれるようなことなんて、一つもない。
……なぜでしょう。「こうだ、ああだ」と言うより、決まっていないと口にする方が嬉しくて、力が沸いてくるのは。
決まっていない。分からない。悪いものなんて、どこにもない。
なんにも決まっていない。誰にも決められない。
その方が自由で広くて大きくて、何かに包まれるような気がしませんか?
……想像力と選択権を忘れていたのは自分だったんですね。
たまに人が「○○のシーンが面白かった!」などと映画やマンガの感想を言っているのを見て、
「……いや、そんなシーン無かったと思うけど? あのセリフ、そういう意味じゃないと思うけど? 製作者様の意図、そうじゃないと思うけど……」などと感じて、せっかく作者さんがこだわったシーンを脳内で書き換えたり見落としたりしている人があまりに多いと思っていましたが……。
今、分かりました。正しく作品を楽しんでいるのはあちらの方々です。
完璧に相手の意図を受け取るなど無理です。自由に楽しんでいいんです。見る側も、想像力と感性を持った芸術家なのだから。
小さい頃に絵本を見て、「私だったらここでこうするな」と考えながら想像の世界で遊んだみたいに。
……自由な心を思い出してみます。私たちは受信者じゃなく、発信者ですね。