最も優れし魔法使い
かつて世界は、一柱の女神と、光のドラゴン――
そして、闇のドラゴンの所有物だった。
光のドラゴンは比類なき叡智を誇り、あらゆる問いに答えを与えたという。
闇のドラゴンは無限の魔力を持ち、指先一つで星すらも容易く砕いたという。
そんな二匹の龍を女神は慈しみ、龍もまた女神に忠誠を誓っていた。
宇宙の全てが彼らのものだった。
だが、いつしか女神はそんな世界に飽いてしまった。
何もかもが思うままに運んでしまう空虚な日々へ、見切りをつけたのだ。
女神は龍に命令を与えた。
一つ、世界に新たなる生命体を創造すること。
一つ、新たなる生命体に世界の流れを任せること。
一つ、龍のどちらかが、再び世界に停滞が訪れた時に現れるであろう“最も優れし魔法使い”の忠実なるしもべとなり、その者の望みに従うこと。
――そして、最も優れし魔法使いと共に、世界へ変革をもたらすこと。
女神は別の宇宙へと旅立っていった。
そして龍は唯一の主の言葉に従い、新たなる生命体――人間を創造した。
その後、長き眠りについたのだ。
この世の全ての場所、全ての時間、全ての存在において、決して並び立つ者の存在しない、最も優れし魔法使いが生まれるまで――
昔、父さまに聴かせてもらった御伽話の一説だ。
美しい女神様に、強くて賢いドラゴンたち。
彼らの紡ぐ物語に、幼い私は散々思いを馳せ、心躍らせたものだ。
中でもいっとうお気に入りだったのが、闇のドラゴンだった。
立ち塞がる怪物を無敵のパワーで薙ぎ倒すその姿に、幾度となく憧れを抱いた。
時には自分を主役に据えた続編を勝手に考えたりもした。
当時の私にとっては、闇のドラゴンこそが英雄だったのだ。
その、かつての英雄は――今、私の目の前にいる。
鱗の色、瞳の形、立ち姿。
特徴の殆どが、伝説で語られていたそれとほぼ一致していた。
威風堂々、豪華絢爛、空前絶後。
いかなる言葉を冠しても、彼の偉大さを形容するには到底及ばない。
幼い私が描いた夢の、遙か上をゆく輝き――
伝説、神話と呼ばれるにふさわしい姿だ。
一方、女神の如き美貌の少年、シズム。
彼は欠片ほども動揺しないまま、悠然と佇んでいた。
闇のドラゴンは、シズムの翡翠色の瞳をじっと見つめ――
そして、頭を垂れた。
私は――衝撃に胸を打たれた。
ああ、そうなのだ。
シズムこそが闇のドラゴンの主。
万物の超越者、超人――すなわち、最も優れた魔法使いなのだ。
奇妙な静寂が横たわる。
誰も、何も言わない。
言えない。
突如として出現した、さながら教会の祭壇に飾られた一枚の絵のような――あまりにも荘厳な光景に、皆、口を挟むことができなかったのだ。
「ふ……ふざけるなああああっ!!」
その沈黙が、突如として破られた。
このベタベタとした気持ちの悪い声――あの太っちょ男か。
汗を飛ばしながら短い手足をめちゃくちゃに振り回していた。
その彼を同僚の教師が必死で抑える。
「何だそれは、ありえんっ!! ありえんぞ!!」
「お、落ち着いて下さい、オード先生! ドラゴンの不興を買ったらどうするのですか! この学院……いや、世界そのものの危機に繋がりかねませんよ!?」
「不正だ、不正に決まっとるっ!! 小狡い手を使ったに違いない!!」
喚き散らす太っちょ(オードという名前らしい)。
肥大化したプライドを若い才能に砕かれた結果、死の恐怖が一時的に麻痺してしまったらしい。
何とも惨めな姿だ。
しかし、闇のドラゴンの太陽のように光輝く黄金の瞳を向けられた途端、オードはみっともなく悲鳴を挙げた。
だが相手は神代の存在だ――発狂しないだけマシと言えるだろう。
屠殺を目前にした豚の如く震えるオードへ、ドラゴンは――
『――ふむ、不正か。期待を裏切って悪いけれど、それは誤りだよ。人間』
驚くほどに涼やかで、また力強い、心に響く声を放った。
いや、これはテレパシーか。
彼女――声色からして恐らくそうだろう――は、私たちの精神に直接語り掛けているのだ。
『私は、最も優れし魔法使いたるシズムの心の内から呼び覚まされた根っこ――そして、古の時代を女神と共に生きた、闇の龍そのものだ。断じて偽物ではない』
「なっ、あ、ああ……」
かくん、とオードは地に膝を付いた。
彼の脳内では無数の言い訳が飛び交っていることだろう。
だが、もう悔やんでも遅い――最初に喧嘩を売ったのはオードなのだから。
『どうしても信じられないというのなら――そうだな』
ドラゴンは、軽く首を傾けた。
『この宇宙の物理法則を、軽く弄ってあげようか。そしたら君も納得するだろ?』
「ひいっ……!? そ、そんな……ど、どうかお許しを、お許しをっ!!」
ごく軽い調子でドラゴンは世界の崩壊を提案した。
オードの顔が今度こそグシャグシャに歪む。
生徒たちも教師も、勿論私も一瞬で血の気が引いた。
不味い――龍ならばその程度のこと、造作もないだろう。
おまけに、主を侮られたのだ――本気で実行しかねない!
「――止めろ、龍」
しかし、凛とした、美しいソプラノの声がそれを制した。
シズムだ。
「流石にやり過ぎだ。大人げないぞ」
『む、そうか。君がそういうのならば仕方がないが……しかし、たかが法則変化如きでそこまで怯えられてもな』
想像を絶するスケールのことを口にするドラゴン。
そして、そんな彼女にいとも容易く命令を聴かせてしまうシズム。
もはや人間に理解できる範疇を超えたやり取り――
オードは両手を地に着け、悲痛な声で呻く。
きっと、彼は本能的に理解してしまったのだろう。
ドラゴンの存在が確かなものであるということ、その魂の偉大さ――
そして、シズムと自分との格の違いを。
「い、意思を持った根っこというだけでも前代未聞だというのに……ドラゴン? ドラゴンだと? 畜生……なぜだ、なぜあんな若造如きがっ……」
そのままオードはうずくまり、何も言わなくなってしまった。
その様子に毛程も興味を示さないまま、シズムは振り返る。
「……さて、随分とお時間を取らせてしまいました。俺の判定は、これで終わりですよね? ミリさん」
「あ、は、はい。ええ、そうですね、ええ。お終いです」
「そうですか。では、俺はこれで」
いきなり話を振られたミリは肩を跳ね上がらせた。
慌てて名簿を捲り直している。
その姿を尻目に、シズムは生徒の群れの中に潜り込んでいった。
闇のドラゴンの姿もいつの間にか忽然と消えていた。
衝撃に次ぐ衝撃に、完全に自失していた生徒たち。
彼らはようやく今は試験中であることを思い出し、重たい身体を引きずって前に進み出ていった。
私は、強く強く拳を固めた。
――深く肉に喰い込んだ爪から、血が滴る。
どうして。
……どうして、“成果なし”ドラゴリュートの分際で……!