闇の龍
「それでは、感応石を構えて。改めてご自身の名前と番号を宣言して下さい」
「――シズム=ドラゴリュート。七八番」
シズムは石を握り込み、手を突き出した。
その声やしぐさが本当に優美で、凄く腹が立った。
失敗しろ、失敗しろ、と心の底から願う。
「――おや。貴様、ドラゴリュートの一族か」
突然、教師陣から声が挙がる
我慢できるラインと我慢できないラインの境界線上、絶妙な薄気味悪さ――
うっ……と、鳥肌が。
なぜだか強烈な生理的嫌悪感を感じてしまう。
鼓膜の奥を撫で上げる不快な音色の残響を堪えながら、私は声の発生源に目を向けて――すぐさま、それを後悔した。
脂ぎった頭皮に未練がましく残された、残り僅かな髪の毛。
目と鼻、口は分厚い肉に埋もれ、まともに判別できない。
脂肪でパンパンに膨れたローブには幾つものシミが浮かんでおり、視界に入れるだけで不快になる。
……な、何、この太っちょ、汚らしい……。
本当にこんなのがエストの教師なの?
気味の悪い男は、ナメクジのようにノロノロした動きで立ち上がった。
「まさか、ドラゴリュート家の子息如きがエストの入学試験をパスするとはな。いやはや、実に信じがたい」
にちゃっ、と男からイヤな音が鳴る。
い、今の音って、一体どこから出たの?
どうやって出したのよ……?
「昨年に比べて試験が易化したのか、募集人数を増やしたのか――あるいは」
太っちょはシズムの足先、腰、胸元を舐め回すように見つめた。
「――君の、その魅力的な身体を上手に使ったのか」
そして、にたりと下品に、さも皮肉を決めてやったぞ、とでも言いたげに笑う。
明らかな軽視――明確に顔を覗かせる劣情。
……嘘でしょ。
私は絶句してしまった。
流石に下劣すぎる。
だけど、他の教師が止める様子はない。
それどころか口元を抑え、笑うのを我慢しているようなヤツもいる。
どうやら彼らにとって、太っちょの言は極めて真っ当な正論らしい。
その光景を見て、私は憤った――訳ではなかった。
むしろ、ある種の残酷な喜びが胸の奥から湧いてきていたのだ。
私をバカにした愚か者が、公衆の面前で辱められ、プライドを穢される――
そこには確かな快感があった。
後ろ暗い悦楽を加速させるべく、私はシズムの様子を窺った。
しかし――彼は、全く動じていなかった。
「まさか。俺はただ、試験に全力を尽くして臨んだに過ぎませんよ。色仕掛けだなんて、とんでもありません」
何せ、と無表情にシズムは続ける。
「入学試験の監督官は、生憎と、あなたみたいに児童買春に手を染めるような方ではありませんでしたから」
「なっ――」
「今日も仕事が終わったら街に繰り出すんでしょう? 目が大きくて健気っぽい、小柄な子がお気に入りなんですよね」
太っちょは餌を貪る魚のようにパクパクと口を開き――
どすん、と椅子に座り込んでしまった。
彼の顔色が急激に悪化していく――生徒たちも、教師陣も驚愕を露わにしていた。
あいつ……怒るでもなく、鮮やかにやり返しちゃった。
誰に何を言われた訳でもないのに、私は激しい羞恥に襲われる。
何よ、器の差を見せつけるみたいに……!
だけど、今の……嘘やデタラメを言ったふうには見えないわ。
どうしてあんなプライベートなことが分かったのかしら?
――もしかして、マインドリーディングの魔法?
いえ――そんな、ありえないわ。
心を読む術なんて、国に雇われるレベルの魔法使いですら使えるかどうか怪しい代物だとというのに。
どう考えても私と同い年の子供に扱えるような代物じゃない。
なら、一体どうやって……?
……き、きっと、事前に探偵か何かを使って調べていたのね。
うん、そうに違いない。
大ぼら吹きのドラゴリュート家がやりそうな、陰険な手段だわ。
「では、気を取り直して。シズム=ドラゴリュート――参ります」
ふざけおって、デタラメだ、覚えておけ、などとブツブツ言っている太っちょを完全に無視しつつ、シズムは感応石を構えた。
面の皮の厚いヤツね……。
さ、いよいよお手並み拝見と行こうじゃないの。
シズムの全身から、淡い銀色のオーラが立ち昇った。
やがて、目も眩むほどに強烈な光が感応石から放たれた。
輝く光は空中で弾け、煙のように辺りを包み込む。
光の煙はゆっくりと膨れ上がって、徐々に形を成していった。
煙は明滅を繰り返し、より繊細にその姿を露わにしていく。
――いよいよ、シズムの根っこが現れる。
自分の番でもないのに、なぜだか胸がドキドキして――
瞬間、凍り付いた。
光の靄が歪に捻じ曲がる。
ごう、と音を立てて、室内に猛烈な勢いの風が吹き荒れる。
激烈なエネルギーの発露――魔力の暴風雨。
極大の存在感。
ただ、ここに立っているだけで気が狂いそうになる、魂ごと押し潰される。
誰よりも強く、誰よりも偉大な何かが顕現しようとしている。
生徒たちも、教師たちも、抗いがたい恐怖に顔を歪ませる。
オオカミに追い立てられる羊の如く出口へ殺到している。
あの太っちょに至っては、泡を吹きながら涙を零し、無様に転げ回っていた。
――ああ、駄目だ。
謝らなきゃ。
ひれ伏さなきゃ。
今すぐにでもシズムに謝らなきゃ。
無礼な態度を取ったことも、侮辱したことも、内心で罵声を浴びせたことも。
何もかも謝らなきゃ。
でないと、殺される。
殺されてしまう。
国ごと、星ごと、世界ごと――宇宙ごと、消し飛ばされてしまう。
そして全てが爆発した。
幾千、幾万、幾億の魔力が絡み合う。
万物を流転させる、一陣の風が流れ――光の靄が、晴れる。
しかし、まだ恐怖は去っていなかった。
シズムの背後に佇む“そいつ”を見て、私たちは再び凍り付く。
天を衝くほどの巨躯。
真夜中の漆黒と夜明けの藍色を混ぜ合わせた、見事な鱗と角。
あらゆる虚飾を打ち破り、真実を映し出す黄金の瞳。
美しく、強大で、決して触れ得ぬ存在。
文字通り、次元の違う力――
刹那、響く轟音。
天地が鳴動する程に激しい咆哮。
私たちの狂乱はピークに達しようとしていた。
悲鳴と許しを請う声が室内を満たす。
そこに佇んでいたのは、伝説上の存在。
神々に最も近しき者。
全人類が一度は憧れ、そして恐怖した究極の生命体。
「……闇の、ドラゴン……?」
誰かが、か細い声で呟いた。