特権階級
時は少々遡る。
◇
零れ出した夜の闇が硝子窓越しにカーテンを黒く染める。
ぼんやりと浮かぶ星明りが奇妙に鬱陶しかった。
見慣れたクリーム色の壁に掛かる洒落た油絵。
天井からぶら下がる小さなランプが室内を照らす。
床へ敷かれたカーペットは微動だにしないまま寝転がっている。
「…………」
柔らかな椅子に深々と腰かけ、無言で書類に向かう。
ペンを走らせ、雑事を片付けていく。
普段は億劫なだけの作業が今は奇妙に愛おしい。
いや、愛おしいというか。
身体が、精神が、それを欲していたのだ。
ただ手を動かして、脳味噌を動かして、それに延々と没頭して。
無思考に浸り続けたかった。
自分の気持ちを自分で把握できない。
頭の芯が痺れていた。
感情を精神から追い出したいという欲望、記憶を吐き捨てたいという衝動。
――現実逃避。
ぱきん。
インクで黒く滲んだペン先が折れた。
いや折ったと言うのが正しい。
意思に反するみたいに、別にそうしようと思ってそうした訳じゃないのに、指へ勝手に込もる力。
逃避。
逃走。
それ故に求める忘却、欲する単純作業。
ぽつりぽつり浮かぶ言葉。
何だ?
私は何を考えているんだ?
どうして、何を、何――何から?
一体何から逃げ出そうとしているんだ?
分かってる。
本当は分かり切っている?
あの時。
あの瞬間、私の自尊心を、身体を八つ裂きにした感情。
曇天、室内であるにも関わらず、鮮やかに煌めく白銀の髪。
宝石みたいに光を放つ翡翠色の瞳。
この世全ての美――そこから発せられる、莫大な魔力。
時を突き破り、時を加速させ、時を巻き戻す。
絶対のエネルギー。
超越者。
シズム=ドラゴリュートという、魔法使い。
未知への、恐怖。
「……ぅ、っ」
心が揺れる。
精神の軸がブレる。
あの日の無様さが、恐怖が、惨めさがここぞとばかりに咲き誇る。
内臓がひっくり返ったみたいに痛む。
堪らず私は椅子から立ち上がった――窓を開き、夜風に当たる。
突き刺さる、宵闇の冷気。
鋭いその気配など知ったことかと言わんばかりに息を荒げた。
吐き出した陰鬱な激情は白く濁って虚空へ溶ける。
最後に大きく息を吐き、ゆっくりと窓を閉め直す。
淡い橙色のランプの明かりが、じわり、硝子を照らした。
そこへ映り込んだ、自分の顔を見て――また、気分が落ち込んだ。
結露の浮かんだ窓へ指を這わせ、自嘲する。
「……ひっどい、ツラだなあ」
呟いた声は、自分でも嫌悪感を催すほどにガサついていた。
かつて黒真珠のように艶やかだった髪は乱れに乱れ――
半ば糸クズじみた風情のそれに縁取られた顔はすっかり生気を失っている。
荒れた肌に、落ち窪んだ眼窩。
宝玉にすら例えられた紫色の瞳の輝きも、今となっては見る影もない。
世界最高と評される魔法学院、エストの校長。
最強の魔法使い。
ありとあらゆる名声を、賞賛を手にしてきたこの私が。
――今は、こんなにも無様に立ち尽くしているのだ。
音を立てて、硝子を引っ掻く――伸び切った爪に一筋、ヒビが入った。
これ以上現実を直視したくない。
ふらつく身体を無理やり動かし、窓辺から離れる。
体重を預けるようにして椅子へ腰掛けた。
もう、書類仕事をする気力などありはしない。
逃げ出すことにすら疲れてしまった。
じりじりと身を焼き焦がす病熱。
吹き出すべっとりとした汗を拭い、机へ突っ伏す。
視界が真っ暗になる。
何も考えたくない。
何も考えたくない。
なのに、なのに、嫌な記憶ばかり、嫌な感情ばかりが脳裏を掠めてしまう。
あいつの――ドラゴリュートの、あの美しい瞳を思い出す度に足が震える。
あの瞬間、時空操作を打ち破られた時の絶望が呼び水となる。
胸の奥底が今なお熱く痛む。
羞恥に、悲しみに、思考がめちゃくちゃに乱される。
どうして。
強く、歯を食い縛る。
どうしてこんなことになったんだ。
私は、私は天才なんだぞ。
誰にも負けない、誰にも劣らない、いつだって、いつだって私が一番なんだ。
いつだって見下す立場に在れるんだ。
いつだって特別な、遠くの方、高い所に居続けられるんだ。
それが私には許されているんだ。
決して見下される立場の人間なんかじゃないんだ。
だのに。
だのにこんなに悲しくって、胸が痛くって。
皆に笑われているような気分になる。
お前はクズみたいな人間だって耳元でずっと囁かれ続けてるみたいな、そういう気分になる。
辛くて辛くてしょうがない。
バカにされるのがこんなに悲しいことだなんて知らなかった。
打ちのめされるのがこんなに苦しいことだなんて知らなかった。
誰かの気持ち良さの踏み台にされるのが、こんなに、こんなにも人間の胸を痛ませるだなんて、分からなかった、知らなかった、全然知らなかったんだ。
私が今まで暇つぶしに心をへし折ってきたヤツらも、こういうような感情を味わってきたのかな。
痛い。
痛い。
痛くて痛くてしょうがない。
「…………っ」
どうしようもない気持ちに、腕を振り上げ――思い切り、机に叩き付ける。
飛び散った紙ペラが頬を掠めた。
そのまま何度も何度も叩く、叩く、殴り付ける。
勢いに任せて、私は立ち上がり――そのまま、魔法を発動させた。
ぴたり、世界の時が止まる。
宙に浮かんだ書類を睨み付ける。
それから、頬を引き攣らせ、笑った。
ほら見ろ。
私の魔力は何一つ衰えちゃいない。
考えてみろ。
あんなガキに打ち破られたから何だっていうんだ?
別に敗北を喫したら術を奪われるとか、そういうワケじゃないんだ。
この魔法の持つ無尽蔵のパワーは損なわれちゃいないんだ。
そうだ。
何もかもが凍りついたこの場所は、まだ私だけのものなんだ――
「――へえ。これが時間停止の魔法なのね」
心臓が、跳ね上がった。
「面白いわね。お伽噺に出てくるだけの術じゃなかったんだ――流石はエストの校長、といった所かしら」
背後から響く声。
まるで私を品定めしているみたいな声。
何で?
何で、え、何が、どういう、え?
どうして私の、私の魔法、止まってるのに、全部止まってるのに。
まさか――ドラゴリュート?
「おまけにパワーも物凄い。今の私でも、これを完全に打ち破るのは難しいでしょうね」
違う。
あいつとは声色が違う。
じゃあ誰?
あいつじゃないなら誰?
――あいつ以外にも、私だけの世界に入り込んでくるヤツがいるってこと?
「まあ、でも」
許せない。
許せない。
許せない。
これ以上許してはならない。
私だけの場所を、特権階級を、場所を。
他者に受け渡してはならない。
そうだ。
殺せ。
殺せ。
躊躇うな。
撃て。
討て。
倒せ。
――殺せ!!
全身全霊の殺意が弾ける。
振り向きざま、あらゆるエネルギーを指先へ凝縮。
空間が歪むほどに苛烈な魔力――はち切れんばかりのエネルギー。
フルパワーの一撃。
比喩表現ではない、文字通り全てを断ち切る刃。
それを、背後の侵略者めがけて振り翳し――
「こんな小手先の技術、どうだっていいんだけど」
――片腕で、受け止められた。
「さて。あいつへの復讐――の前に、ちょっぴり遊んでいこうかしら」
佇む彼女。
ふわりと舞う緋色の髪。
その髪と同じ色の、釣り目がちな瞳。
ドレスの裾が小さく靡く。
「この力が、どんなものなのか――試してみたい、ものね」
その美しい唇が、歪み――三日月のように、裂けた。