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この場所からは出られない

すいません、しばらく更新遅れます……。



「そうさ」


 脳味噌が変な音を立てていた。

 ずんずん頭部の中心から歪んだエレキギターの気持ち悪い音色みたいなのがずっと聞こえてて鼓膜が駄目になりそうだけど実際精神の方が限界だった。

 そんなのずっと前から気付いていたんだけれど。


「お前らはいつだってそうだ。何にも変わっちゃいねえ」


 真っ暗でだだっ広い部屋が奇妙に恐ろしい。

 不意に子供の頃に観た悪夢を思い出した。

 何か巨大で恐ろしいものが俺の眼球めがけて迫ってくる夢だ。

 視界の全部が薄暗いグズグズした怖いものが。

 そういう恐ろしいものが今は四六時中見えている。

 つまりそういうことだ。

 俺はもう駄目だった。


「口先だけで変わるって言って本当は何も変わってない。無駄だ。全部無駄だ」


 陰鬱とした気持ちだ。

 好きだったことがどんどん嫌いになる。

 嫌いが増える好きが減る。


「意味なんかない。意味なんか一つもない」

「……ねえ」


 ぼやりと空に投げ上げられたガレットの声。

 視線を上げるつもりはない。

 そんなことをしたらきっと今よりもっと惨めな気分になるからだ。

 彼女の綺麗なルビーみたいな瞳が恐ろしいからだ。

 あいつはきっと俺に嫌な顔を向けてこない。

 それが凄く嫌だ。

 そんなふうにされたらきっと今よりもっと惨めな気分になる。


 酷い気持ちだからこれ以上酷い気持ちになりたくない。

 だからもう何も見ない。

 ずっと俯いていた方がきっとずっとマシだ。


「あのさ」


 ガレットのその声が妙にくっきりと耳の内側に残った。

 そのまま、ぺたり、音色が胸の真ん中にくっ付く。

 闇に沈んだそこに宿る。


「ちょっと話したいことがあるんだ。いいかな」

「……」

「とても大切なことだから。興味なかったら聞き流してくれてもいいから」


 だから、と。

 真っ赤なガレットの瞳が俺を捉えた。

 その中に映る俺の姿は酷く無様でみっともなかったけれど彼女は綺麗なままで。

 嫌な気持ち。

 言わんことじゃない。

 人の顔なんて本来は見るべきじゃねえんだ。

 自分の醜さを深く理解してしまうから外側に目を向けちゃ駄目だ。

 きっと悲しい気分になる。


「ね?」


 俺は黙っていた。

 何か言い返してやろうと思ったけど声が出ない。

 きっと喉が腐ってしまったんだろう。

 ヘドロのような苦痛のせいで声帯がズルズルになってしまったんだろう。

 これもまた取り返しの付かないことの一つだけれど。

 どうでもいい。


 ガレットが少し目を細めた。

 ゆらり唇が開く。

 暗くて冷たくて広くて、そういう場所に音が浮かぶ。


「私の家さ。実は結構ヤバいんだ」


 笑うような調子で。

 ガレットは俺に言った。


「お母さんもお父さんも、ちょっと抜けてる所があってさ。だからお金は対してなかったけど、でも凄く優しくって、領民に好かれてて。凄い人なんだよ。私はあの人らをほんとに尊敬してるんだ」


 でも、と彼女は言葉を区切る。


「優しい人が優れた人だとは限らないものだから。……あまり魔法の才能がなかったんだ。私と同じでね。だから国からの視線は凄く冷たかったよ。特にここ数年は本当に酷くて、ロクな成果も出せてなくって。で。それでさ」


 ――言われちゃったんだ。

 彼女が零した時に、ふと気付く。


「あと十年以内に目立つ功績を残せなけりゃ。なくなっちゃうんだって。私んち。見限られちゃったんだよ。色々な大人のひとたちに」


 ガレットの腕は小さく震えていた。

 どうしてだろう。

 悲しいのかな。

 恥ずかしいのかな、自分の恥ずかしい身の上話をするのが。

 分からない。

 もう本当に分からないことばかりだ。


「それまではさ。私は幸せな人間だと思ってたんだ。実際凄く幸せだったし、それがずっと続くもんだと思ってたんだけど、そうじゃなくてさあ、幸せって薄氷の上に乗っかった硝子細工みたくあっさりなくなるときはなくなるんだ。怖くて怖くてしょうがなくって、だって、だって、どうするの? 家がなくなるんだよ?」


 家がなくなったらどうするの?

 領民のお世話は?

 ずっとずっと昔から受け継いできた魔法の研究は?

 住む家はお金はお仕事は?

 皆、皆全部放り出されちゃうの?

 どうなるの?

 これからどうすればいいの?


「一晩中眠れなかったよ。生まれて初めてだったよ。今日の幸せを柔らかいベッドが受け止めてくれてさ、それで明日も楽しみでしょうがなくて、早く明日になれ明日になれって目を閉じてたんだけど、もうそんなの無理なんだよ」


 怖くて怖くて気が狂いそうだったよ。

 悩んで悩んで気が付いたら朝になってて、頭痛くて痛くてしょうがなくてさ、不意に悲しくなってボロボロ涙が出てきてさ。


 空が橙色と綺麗な紺碧とに混ざってて、鳥の鳴き声が凄くマヌケで。

 当たり前の風景が広がっていて。

 でもその当たり前の中に私はいない。

 きっと地獄ってああいうのを言うんだろうね。

 地獄って当たり前が全部なくなった状態ってのを言うんだ。

 死ぬほど辛くて。


 だからさ。

 ガレットはぎゅっと両手を握りしめた。


「私気が狂ったように勉強したよ。エストに入りたかったんだ。毎日毎日指先が擦り切れるまでペンを握って目が千切れるまで本読んで脳味噌がズタズタになるまで覚えられるだけ全て覚えて。エストに私は入りたかったんだ」


 エストに行けばもっと質の高い設備を使えるようになる。

 そうすりゃ研究が進む。

 家がなくならないで済む。

 それだけだよ。


 えへへ。

 私ねえ、実際ン所親の為とか皆の為とか大して考えてなかったんだ。

 だって考えてみてよ。

 本当に大して強い魔法使えないんだよ私。

 性格もこんな感じだしさ。

 家がなくなったら私どんな所でどんな風に働けばいいの?

 それが怖かったから家をなくさないよう頑張ろうって、そう思っただけ。


 ――吐き出すように擦り減るように。

 ガレットは喋り続けた。

 狂ったように喋り続けた。


「入学試験に通って。やった! って。思ったよ。嬉しいって。これで落伍者にならないで済んだってさ。おっかしいよねえ、はははは。私は救われたかったんだよ私は。それで蓋を開けてみたらさあ」


 C、クラスって訳――

 呟いたガレットは、小さく目を閉じて。


「ウケるよね。バカみたいじゃん。あれだけ? あれだけ苦しいのから逃れたいって思って毎日毎日ゲロ吐くまでふんばり通して挙句貰えた評価はCクラスですか? 家にある設備に毛が生えた程度のモンしか揃ってないCクラスの研究施設? それが私の死に物狂いの決意の対価ですか? ふざけんじゃねえんだよッ!! そう思ったよ。ナメてんじゃねえッ!!」


 ――凄まじい罵声を発した。

 驚いたブレイドルが、びくんと身を震わせる――だけど口を挟もうとはしなかった。


「でも諦めなかったよ。私は諦めなかった。素晴らしい評価を残してさ、そいでBクラスに登り詰めてやろうって、ここから脱出してやろうって。んでそういう意気込みでさあ、いつも通り、家に居た時と同じように、思い切り自分を出して、それでやってやろう。やってやろうって。そしたらさ」


 そこで、また少し彼女は言葉を区切った。

 それから、言った。


「クラスで浮いちゃった」


 その音は酷く強い響きを持っていた。

 質量があった。

 何かやるせないものがあった。

 きっと、どう、分からない、彼女にとっては、分からない分からない。

 何も分からない。


「それでもう全部キレちゃったんだ。私ん中の全部の糸が筋が切れたんだ。もう何にも分かんなくなっちゃってさ。その次の日に窓からまた、綺麗な朝焼けが見えるんだ」


 綺麗な綺麗な青空が見えるんだよ。

 初めて地獄を体験したあの日と同じように。

 幸せだった痛みに無自覚だったあの頃と同じように。

 綺麗な空と綺麗な過去と今現在の地獄が青空越しに繋がっちゃってさあ。


 もう駄目だったんだよ。


 何にも見たくなくってさあ。

 それでちょっと、頭がおかしくなっちゃったのかもね。

 一周して、凄く気が落ち付いちゃって。

 ううん、落ち着いたって言うと違うかな。

 壊れた――あはは、なんかカッコつけてる感じでこれも嫌だね。


 そうだなあ。

 取れちゃった、って感じ。

 剥がれちゃった、外れちゃった。

 そんなふうなことが私に起こったんだ。


「それでずっと校舎の中を歩き回ってたんだ。どこに行けばいいの、ここじゃない、誰もいない、遅刻しちゃう、遅れちゃう、何に遅れるの? 分からないままだよ。頭が変になったままずっと歩いてたんだ。どこに行けばいいの? これからどうすればいい? 私はどうすればいい?」


 誰もいない廊下が恐ろしくて恐ろしくて、不思議だよね。

 本当に辛い時って悲しいとか怖いとかそういう気持ち以外全部なくなっちゃうんだよ。

 分かるかな。

 きっと分かるよね。


 何も意味がなくなっちゃったんだ。

 今までに感じてきた悲しみ痛み彼方に消えた喜びその全部。

 意味なんかなかったんだ。

 全部無駄だった。

 費やしてきた時間があまりに大き過ぎて、迫りくる未来は抵抗のしようもないくらいに絶望的に重たくって。


「怖くて怖くて悲しくてしんどくて痛くてどこにも行けないで歩くばかりで空っぽなのばかりがどんどん増していって気が変になりそうになってさ。駄目だ、もう駄目だ、駄目だよ、駄目だよ、って」


 そういう時に。

 ガレットは、ゆるりと手を伸ばして――


「あなたに会ったんだよ。シズムくん」


 ぺたり、彼女は俺の頬に触れた。


「あの時の私があなたにどんな気持ちを抱いていたのか――恋、と形容しても構わないかもしれないけど、何かしっくりこなくて。今でも分かんないままでさ。だけどあなたのことを知りたいって思った。どうしてだろうね。あなたの深い所を見たいって思って、そしたら苦しいのが少しだけ和らいだんだ」


 それで、決定的だったのがさ。

 あのトーナメントの、最後の瞬間――あなたの記憶が、私の中に入り込んだ時。

 流し込まれた時に、やっと分かったんだ。


「あなたもそうだったんだね。あなたも全てに意味がなくなった時の、あの恐怖、痛みを知る者の一人だったんだね。……私一人じゃなかったんだ。あの絶望を味わった人間は私一人じゃなかったんだ。なんでだろうね。それが凄く凄く涙が溢れて心がズキズキ痛んだけど、だけど嬉しかったんだ」


 自分以外に誰かがいるって。

 それが分かった時に夜の闇が晴れたんだ。

 長い長い闇が切り払われたみたいな気持ちになったよ。

 まだ傷だらけだけど泥だらけだけど。

 それでも。

 それでも私は。


「救われたんだ。あなたの痛みに私は救われたんだ。あなたの苦しみに私は涙を零せたんだ。今ならばハッキリと言えるんだ。悲しみにも痛みにも意味はあったんだって」


 その苦痛を。

 悲しみを。

 誰でもない他人と分かち合うことができたなら。

 どうしようもなくやり切れないような感情ですら共感の材料にできるのなら。

 意味があるんだ。

 きっと意味のない時間なんかないんだ。


 言って。

 ガレットは手を俺の方に差し伸べた。


「今あなたはあなたを取り巻く全てに意味を見い出せなくなってるんだね。それが世の真実だと思っている。傷ついてしまうようなものばかりが視界に入ってくるものだから、だったらもうこんな所に居たくない、どっか遠くの方に行ってしまいたいって。そういうふうになってるんだね」


 ――私はね。

 優しい、優しい声がした。


「それでもいいって思うよ。今はそれでもいい。たくさん話をしよう。悲しいことがあったって、そういう悲しくなるようなこと全部私に聞かせて? どんなことだって構わないから一緒に居よう。それで何も変わんなくてもいい、だから傍に居させて。意味があってもなくてもいいから、きっと私たちと一緒に居よう」


 暗闇にガレットの真っ白な掌が浮かぶ。

 俺は全身の感覚が遠ざかっていくのを感じていた。


 いつだってそうだ。

 俺は、俺たちは、何にも変わっちゃいない。

 ただ苦しくて悲しいばかりで、それだけだ、ただそれだけなんだ。


 どこにも行けない。

 死ぬ気で絞り出して掴んだ何かは容易く掌をすり抜けていく。

 手元に残るのは大概無駄な徒労とクソの役にも立たない感傷で。

 世紀の傑作みたいに思えた自分の可能性は幾百と溢れる凡作の中へ埋もれるゴミ同然の駄作だ。

 それで熱意すらなくなっていってしまうものだから救いようがない。


 じゃあこれからどうすればいい?

 何ができる?

 どういうふうにしたら痛みを減らせる?

 拭い去りようのない無様さを拭い去ることができるんだ?


 もうここから先に行くことなんかできない。

 とうの昔に道は途切れている。

 退路は絶たれている。

 逃げることは叶わない。

 叶わない。

 夢も叶わない。


 酷く視界が暗かった。

 じくじく網膜が痛んだ。

 とてもとても体調が悪くて頭の中はそればかりになる。

 寒い。

 じわり冷や汗。

 吐き気。

 頭痛とそれに伴う行き場のない嫌悪感。


 世界は真っ暗だ。

 明かりもないしだから温かみもない。

 耳の奥の奥の方で誰かの悲鳴が聞こえてそれが恐ろしかった。

 過去に出会ってきた俺を傷付けるような全てが徒党を組んでそれでかわりばんこに耳元で怒鳴りつけてくるような心臓の痛み。

 精神の痛み。


 氷漬けになってしまいそうなくらいに冷えた空気が全身を押し固める。

 とっくの昔に脳髄の方はガチガチに固まってんのに。

 ついでに痛み悲しみ苦しみも痺れさせてくれたらよかった。

 誰も優しくしてくれない。


 俺にだけ優しくしてくれない。

 だって優しくしてくれる人なんか居ないんだ。

 自分から距離を取ってしまうものだから誰も居ないし傍に誰も居ないならもうそんなの居ないのと同じだ。

 同じだ。


 俺は。

 俺は。


 今どこに居る?

 これからどこへ行ける?

 行きたい所なんかないから勝手に消去法で探してくれ。

 誰でもいいからこれからのこと全部決めてくれよ。

 もう頭使いたくないよ。

 助けてくれ。

 楽になりたいんだ。


 俺は楽になりたいんだ。

 そんな難しいこと言ってるかなあ俺。

 じゃあせめてここから出してくれ。

 この臭くて苦しい場所から出してくれよ。

 なあ。


 まっしろな指、爪、皮膚が暗闇へ綺麗にぷかり浮かぶ。

 差し出された掌が俺には地獄への切符か何かのように思えた。

 ガレットのまっかな瞳がルビーの宝石みたいに暗闇の中ですらピカピカ光っててそれが後ろめたくて仕方がなかった。

 心臓がバクバク鳴っていた。

 ゲロ吐きそうだった。

 悲しかった。

 遠くの方へ行きたかった。


 全部終わってくれ。

 終わってくれ――










 瞬間。



「あら。こんな所に居たのね――“成果なし”」









 凄まじい轟音が、響き渡った。






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