消えてしまえば
冷えた風の吹き込む教室には誰もいない。
俺が一人で立っているだけだ。
頭が重たい。
上手く物を考えることができない。
脳味噌がなくなってしまったみたいだ。
そのくせ根拠のない、漠然とした恐怖――不安だけは、いやにくっきりと残っていた。
思考が心を上滑りしていく。
精神のどこか大切な、致命的な部分にぽっかりと穴が開いてしまったみたいな。
そういう気持ち悪さがじんわりと全身に広がる――
手足の末端にまで行き渡って、行き渡って。
がくがくと膝が震える。
もうまともに立っていられない。
指先が震える、涙が滲む。
すとん、と四つん這いになる。
床へへばり付いた冷気が、掌に僅かに残っていた熱を奪い去っていく。
歯の根が合わない。
気分が悪い。
気分が悪い。
ぱたり、ぽたり、透明な雫が落ちた。
「…………う」
喉が焼けるように痛い。
いつの間にか、完全に日は暮れていた。
夜の差し込む教室で俺は一人きりだった。
じりじりと臓腑の底が削れる。
だのに重みは増すばかりだ。
胃袋から何かがせり上がってくる。
辛い。
辛い。
悲しい。
「ん、ぐ――う、ぶぐ、ぇ――げえっ」
びしゃっ。
影の覆い被さった床が汚物に沈む。
「げう、ぅ……っ、え、えぇ」
凄まじい悪臭が鼻を衝いた。
どろりとした黄褐色の液体に満たされる口内。
舌が燃えるように熱い。
不思議だな。
ぼんやりとした頭で他人事みたいに思う。
昨日から何も腹に入れていないってのに、出るものは出るんだ。
何だかバカみたいだなあ。
「う、ぶっ……っく」
やって、らんないなあ。
「んっ、う、ううっ、ひぐっ――ひっく」
涙が溢れる、零れる。
もう意味が分からない、訳が分からない。
何でだ?
どうして俺はこんな所に居るんだ?
俺に感謝してるって?
知らない、知らないよそんなこと。
頼むからただでさえめちゃくちゃな頭の中を余計に掻き乱すようなことしないでくれよ。
「ふ、う、うう……っく、ひ、んぐっ……」
嫌だ。
もう嫌だよ。
こんな所に居たくないよ。
どっか違う方へ。
誰もいなくって、何にもない方へ、去り退くようにして、どこか、どこかへ。
連れて行ってくれよ。
でもどこに行けばいいんだ?
行く当てなんかどこにもない。
行きたい場所なんかありゃしない。
どこにもないなら、きっと全てがどうにもならない。
だったらいっそ、せめて。
俺は――ゆっくりと、掌を首に当てた。
『……よせ、シズム』
魔力を、指先に送り込む。
強く、強く、喉を締め付ける。
次第に呼吸ができなくなっていく。
『それだけは駄目だっ。きっと後悔する、駄目だ、そんなことをしてはっ』
いっそ。
消えていなくなってしまいたい。
『よせっ。早まるなシズム! 絶望してはならな――』
黙れっ!!
心の中で叫び、精神に防壁を纏わせる――ぴたりとドラゴンの声が止んだ。
ふう、ふう、息を切らす、口元を拭う。
もっと、あと一息。
指先に意識を向ける。
あとほんの僅か、力を強めれば。
この場所から俺は永久におさらばできるんだ。
悩んだりする必要も。
苦しみ、傷付く必要も。
責任も悲しみも何もかも、全部、全部。
全てが消えてなくなるんだ。
もしもそうなったら、一体どれだけ楽だろう。
どれだけ救われた心地になることだろう。
全部が空っぽになる世界にどうしようもなく心惹かれてしまう。
そうだ。
俺はきっとそちら側へ行くべきなんだ。
ためらう必要なんてありはしない。
救いを望んでいるんだ。
安心して思考停止できる毎日を。
不安のない毎日を。
そこへ向かうための切符はとうの昔に渡されている。
行こうと思えば今すぐにだって行けるんだ。
――それ、なのに。
「う――う、っ、ううっ」
怖い。
「ん、ひぐっ、ああ、あああああっ」
怖くて、怖くて、仕方がなかった。
どうしようもない、立ち向かいようのない痛みが堰を切って溢れ出す。
怖い怖い怖い怖い。
悲しい、悲しい、やり切れない。
ここには誰もいない、誰もいないのに。
なぜか誰かに見られているみたいに思えた。
笑われているみたいに思えた。
死ぬこと、それ自体が恐ろしいのではない。
なら理由は何かって、全然分からない。
本当は恐ろしくなんてないのかもしれない。
体の内側を全部ずるずるに溶かして冷やして重りを詰め込まれるような、そういう嫌で嫌でしょうがないものへ、きっと強引に恐怖って名前を付けただけだ。
じゃあどうすればいい?
自分の気持ちすら分からない俺はどこに行けばいい?
ぴしゃん。
吐瀉物に手を着く。
裸で雪の中に放り込まれたかのように震える手足を念動力で無理やり動かす。
まるで操り人形にでもなったみたいだな。
ははは。
きっとそっちの方が苦しみは少ないだろう。
汚物に塗れた俺はまた歩き出した。
不恰好に、バカみたいな恰好で歩き出した。
扉をくぐる。
真っ暗な、長い、長い廊下に出る。
ぐちゃっ――壁に体重を預ける。
半身を擦り付けるように、足を動かす。
――どこまで、どれくらい、俺は歩いたのだろうか。
とうに消灯時間は過ぎていた。
皆、学生寮に戻っているだろう。
警備の姿すら見当たらない。
闇の中に――溶けてしまったみたいだ。
頭痛も吐き気も未だ収まらない。
一人で、ただ、一人で、俺は、俺は、俺は――
「――ああっ!? や、やっと見つけたよ、シズムくんっ!?」
「全く、探したよ――昨日からまるで姿を見せてくれないものだから、心配したんだぞ!?」
――酷く、暖かな声を聞いた。