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バカげた話だ



 重たい体を引きずって歩いた。


 飴色に解けた硝子窓。

 蜂蜜のカーペットが敷かれたみたいにプリズムを反射する床。

 遠くから聞こえるカラスの間抜けな鳴き声。

 熱を失っていく風。

 ――薄く差し込む黄昏色に校舎は染め上げられていた。


 不意に、学生たちの笑い声が鼓膜を揺する。

 騒がしい――けれど軽やかな足音に、俺は何かよく分からない後ろめたさを覚えてしまって。

 その度に、踵を返す。 

 そうやって、人の気配から逃げ出すみたいに――俺は、あてどなく。

 ただあてどなく、無人の廊下を、階段を彷徨い続けた。


 言葉にできない、胸を掻き毟りたくなるような切なさ――

 なおも続く倦怠感、不快感から逃れるように、延々と足音を鳴らし続けて。

 ――最後に辿りついたのは。


「教室……か」


 ろくすっぽ使われもしない癖に、妙に整った室内。

 無駄に質の高い小物類。

 ――そこは、Sクラスの教室だった。


 かつん。

 誰もいない――そして空しいほどに広いその内側へ、足を踏み入れる。

 白を基調とした室内も、今はすっかり夕暮れに染まってしまっていて。

 依然訪れた時とは全く異なる様相を呈していた。


 何の巡り合わせだろうな、これは。

 不鮮明な思考に言葉がぽたり、落ちる。


 かつてあんなにも恐ろしかった、憎んですらいた“教室”という空間。

 そこから逃れるために命を捨てて、新たな肉体と力を手に入れて。

 ――そうして、何もかもをリセットしたってのに。

 俺は今、あの頃と同じクソみたいな気分を抱えたまま、教室に――学校に、戻ってきちまっている。


 これは――もはや、呪いか何かのように思えた。

 ずっと、こんな重たいものを抱えたまま生きていかねばならないのだろうか。


 じわり、嫌な汗が掌に滲む。

 酸っぱいものが、喉の奥から込み上げてくる――


「…………シズム?」


 どくん。

 心臓が跳ね上がる。


「シズム――そこに、居るの?」


 誰かが、俺以外の誰かが俺を見ている。

 勢いよく振り向いて――


「アクア、マリオン……」


 その名前を、呼んで。

 蒼い髪の彼女は、少し影の差した笑顔を俺に向けた。





      ◇





「もう、身体は大丈夫?」

「あ――ああ」


 気にするな――心配されるほどのモンじゃない。

 そう言おうとして、つっかえてしまう。

 なぜだろう、上手く喋れない。


「……あなたは、どうしてここに?」


 生じた一瞬の沈黙を、埋めるように――恐れるように、アクアマリオンは言う。

 俺は奇妙にもつれる舌をどうにか動かした。


「別、に。何となく、外に出たかっただけだ」

「そう――私も」


 少し、部屋でじっとしているのが辛くって。


 言って、アクアマリオンは小さく目を伏せる。

 長くつややかな睫毛を、飴色の夕日が照らし出した。


 その姿を、なぜか俺は直視することができなかった。

 彼女に視線を向けられなかった。

 それが恥ずべき行為のように思えたのだ。

 急に自分が、酷く矮小な――惨めな存在に成り下がってしまったみたいな感覚を覚える。


 保たれる沈黙。

 埃一つない机の上を、ふと眺めた。

 綺麗に磨き上げられたそこには、淡い橙色のプリズムが、まるで水面のように静かに溜まっていて。

 いっそ、その中に飛び込んでしまえたらとバカげた思考が頭を巡る。


「……シズム」


 その静寂を破ったのは、やはりアクアマリオンだった。


「私は……あなたに、言っておかねばならないことがある」


 ――再び、心臓が早鐘を打ち始める。

 急速に激しくなる喉の痛み、カラカラに乾く口の中。

 目の前がぼやけてきた――ぎゅっと拳を固め、俯く。


 ああ、やっぱりだ。


 ズキズキと胸が痛む、揺れる。

 きっとアクアマリオンも俺をなじるつもりなんだ。

 夢の中のあいつらみたいに、きっと、きっと。


 俺は彼女の親友を傷付けたんだ。

 拭いようのない傷跡を遺してしまったんだ。

 優しい彼女は心を痛めているに違いない。

 その下手人を憎んでいるに違いない。


 だけど、だけど。

 他にやりようなんてなかったじゃないか。

 わざとやった訳じゃないのに。

 どうすりゃよかったってんだ?

 何でそんな、そんな俺ばかりを責めて、辛い、辛い。


 ――そうだ。

 俺は、彼女らを――子供たちを守ったんだぞ?

 怒りを向けられる筋合いなどある訳がないだろう。

 後ろめたく思う必要だなんて、以ての外だ。


 アクアマリオンのアズールの瞳は、琥珀色のプリズムを纏い、紫に染まっている。

 震える心根を奮い立たせて、見つめ返す。

 怒るなら怒るがいい、その瞬間にお前をねじふせてやる――





「…………ありがとう、シズム。私たちを――ガンドウを、助けてくれて」


 ――え?

 予想外の言葉に、全身が固まった。


「ガンドウは……多分、もう、限界だったんだと思う。私たちは、それに気付いてやることができなかった――ううん、気付いていたとしても、きっとどうすればいいか分からなかった」


 でも、とアクアマリオンは顔を上げた。


「あなたは、わざと嫌な言葉をたくさんぶつけて、敵役を背負ってみせた。……ガンドウは今までずっと、立ち向かうことで何かを手に入れてきたから」


 彼女は、淡々と言葉を連ねる。

 俺はただ、凍り付いたみたいに立ち尽くしていた。


「だから多分、何かを吐き出すにしても、彼には立ち向かうべき何かが必要だったんだと思う」





「……他人を憎むよりも、他人に憎まれることの方が何倍も辛いのに。あなたは、それを受け入れた。どうしてあなたが、容易くそんなことを決意できたのか――私には分からない」


「でも――ありがとう。あなたと会えて、本当に良かった」





 ――違うっ!!

 心の中で吠える、でも声には出せない。


 俺は、俺は、だって――ふざけてる、バカじゃないのか?

 頭の中がめちゃくちゃになる、混乱する。

 だって、いつも、いつだって俺が悪いんだよ。

 人を傷付けるのが大好きなんだよ。

 だのにどうしてそんな、優しいなんて嘘をつくんだ?


 ついさっきまで、責め立てられることが怖くて仕方がなかったのに。

 今は、今は、今は。

 全身から汗が噴き出るばかりだ。


「私は――きっと、あなたのことを尊敬し続ける。でも、私はあなたの魔法力に敬意を表する訳ではない。覚えている呪文の数を知って偉大だと思う訳でもない」


 痛い痛い、頭が刺すように痛い。

 気持ちが悪い、嫌だ嫌だ。

 居たくない、こんな所に居たくない。


「――あなたのその、在り様に。心の形に。私は、深く感謝を捧げたいと思う」


 言って――アクアマリオンは。

 静かに近付いてきて。


 強く、俺の身体を抱き締めた。


「明日――また、あなたと話したい」


 緩やかに、顔を離す。

 どこか、悲しそうに――影の差した笑顔を、俺に向けたきり。

 アクアマリオンは、教室から出て行った。



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