闇に向かうことすら恐ろしいのだ
閉ざした瞼に、温い明かりが染み込んだ。
布の擦れるような音が耳元を擽る。
それが嫌に鬱陶しくて、俺は薄く目を開いた。
――夕暮れ時。
メイプルシロップを零したみたいな橙の光が、風に揺れるカーテン越しに届く。
カタカタと震える窓に手を掛け、のったりと閉めた。
柔らかな布団を退かして、ゆっくり上体を起こす。
ぎしっ、とベッドが軋んだ。
「……もう、こんな時間か」
随分長い間、眠っていたんだな――
呟いた声は酷く掠れていた。
喉が痛む――気管に針か何かを突っ込まれたみたいな感じだ。
それに頭もどんよりと重い。
じっとりとした汗が滲み出る――既に冬が近付きつつあるってのに。
肌に張り付いた薄手のシャツが邪魔臭い。
妙にイライラしている、何をする気にもなれない。
壊滅的な気分だ。
掌で目頭を拭い、ぼんやりと室内を見回す。
中途半端な所で開いた本、埃の積もった椅子、棚の上に散らばった紙クズ。
どこもかしこもすっかり黄昏色に染まっていた。
溜息を吐き、前髪を掻き上げる。
――屋敷での出来事から、一晩が経って。
あれから、色々なことがあった。
まず、子供らのことだけど。
彼らはキャットウォーク家の支援の下、孤児院へ送られることとなった。
アクアマリオンと――それから、俺も協力を申し出たけれど。
結局、キャットウォークには断られてしまった。
どうやら何か考えがあるらしかったが、それを聞き出すことは叶わなかった。
もう……それだけの体力が、俺には残っていなかったから。
だけど。
“あんなこと”をした俺にすら、ありがとう、と。
衒いのない感謝を述べてくる幼子たちの顔だけは、嫌になるくらい鮮明に覚えている。
――気分が悪い。
胃袋がどんよりと重たい、本当にクソみたいな精神状態だ。
二、三度頭を振り、何度も瞬きをした。
……それから、ガンドウは……。
彼は、あれからすぐに手当てをしたお陰で、ひとまず一命を取り留めた。
少なくとも死ぬことはないだろう。
だけど――彼にとっては、下手をすれば死よりも惨いかもしれないものが残ってしまった。
多分。
ガンドウはもう、二度と――魔法を使うことは、できないだろう。
彼の身体からは、完全に魔力が消失していた。
原因はハッキリとは分からない。
だが――アクアマリオンは、あの龍の鱗が原因だろうと考察していた。
前々から気になってはいたのだ。
確かに非魔法使いにとって高出力のエネルギー体――龍の鱗は毒だ。
だが俺たち魔法使いからすりゃ恰好のパワーアップアイテムだろう。
それならなぜ、攫ってきた子供たちにしか鱗を与えなかったんだ?
普通の魔法使いの組員にも使ってやりゃよかったんじゃないか?
多分、その答えが、これなのだ。
魔法力そのものの完全な消失。
詳しい理屈は分からない――でも、力を求めて使うにはあまりにデメリットがデカ過ぎる。
…………。
仲間に対する裏切りに加え、未知の物質の不正使用。
そして何より、殺人未遂。
ガンドウのしでかした罪は、例えエスト所属のSクラスであるという点を考慮しても、完全に庇い切ることは難しいだろう。
だけど今、ガンドウは牢屋ではなく、病院のベッドで横になっている。
魔法力を失ったことと、色々なショックが重なって。
彼は少し、心の調子を崩してしまっているのだ。
取り調べやらをするにしても、もう少し時間が経ってから――ということらしい。
俺はまだ、直接彼のその姿を見たことはないけれど。
でも……本当に、かなり酷い状態らしい。
ずきん、ずきん、ずきん。
頭痛がどんどん強まってきて。
それと一緒に、何か形容し難い、気持ちの悪い不安感が喉の奥を這い登ってくる。
知らず呼吸が荒くなる。
もうまともに起きていられない――まだ温もりの残るベッドに再び横たわる。
天井を見つめながら思い出す。
眠っている間に、幾度も幾度も繰り返し同じ夢を見た。
ガンドウが俺を責め立ててくる夢だ。
――お前が、最後に俺を撃ち抜かなければ。
こんなふうに、頭がおかしくなることはなかったんだ、と。
違う。
そんなことがあってたまるものか。
怪我や精神的なショックで一時的に魔法を使えなくなる例は少なからず存在するけど、魔法力そのものが消失するだなんて話、今まで聞いたことがない。
どう考えても龍の鱗を体内に取り込んだことが原因だ。
俺のせいじゃない、俺の責任じゃない。
そうやって何度も、何度も何度も何度も何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
繰り返し繰り返し喚いても、彼はずっと俺をなじり続けた。
次第に彼の姿がどんどん移り変わっていって。
父に。
母に。
姉に。
フォルミヘイズに。
前世の幼馴染に。
かつて俺を笑ったヤツらに。
俺が笑ったヤツらに。
皆が俺を責め立てた。
ざくざく心が傷付けられて、でも段々反論することすらできなくなっていって。
もしも――もしも本当に、ガンドウがあんなふうになっちまったのが俺の責任だったら。
どうすりゃいいんだ?
マジで俺の責任だって、でも本当にそうなのかもしれない。
だって。
俺にはたくさんの“前科”があるじゃないか。
他人の心を散々踏みにじった、前科ってヤツがあるじゃないか。
それも一つや二つじゃない。
たくさん、たくさん、数え切れないくらいたくさん。
山ほど、あるじゃないか。
気が狂いそうだった。
もう、耐えられなくて。
我慢できなくなって。
――丁度その時に、目が覚めたのだ。
均一に、淡々と時計の秒針が音を立てて動き続けている。
俺は――全身の力を振り絞って、ベッドから降りた。
駄目だ。
もうここに居ちゃ駄目だ。
遠くへ。
遠くへ行かねば。
どこか、どこでもいい、馴染みのない場所へ。
違う所へ。
もうここには居たくない。