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遠くへ



 アクアマリオンたちが部屋を出てから、どれくらい時間が経っただろうか。


 凄く気分が落ち込んでいた。

 青黒い苔と泥と煙草の吸い殻に覆われた冷たい椅子に腰掛ける。

 抱えた頭が重たくって仕方がない。


 龍の鱗があったすぐ隣、何にもない小さな部屋。

 石造りの薄暗い空間の隅で、俺は身体を縮めていた。


 窓一つないものだから、室内の空気は淀んでいる。

 でも別にそれで構わなかった。

 正常な、清浄な感じの、そういうものが欲しいとは全然思えなかった。

 指先に張り付いた羽虫がのたのたと蠢く様を見つめながら俯く。


 妙に疲れていた。

 何もそんな大したことはしていないのに、なぜだろう。

 身体を動かしたり、人と話したりするのが酷く億劫だった。


 ――さっきまでのことは、あんまりよく覚えていない。


 ただ無我夢中であの子たちを治してやっていた。

 ひたすら痛みを取り除いていた。

 よく分からないのだ。

 確か初めのうちは、変な激情で、変な熱病に浮かされたみたいに手を動かし続けていて、そこまではぼんやりと記憶が残っているのだけど。

 途中からは完全に思考停止していた。

 何にも考えないであの子たちと向き合い続けていた。


 なぜだろう。

 もう初めから何も持たされていなかった人間の悲しい顔を見るのが嫌になっていたのかもしれない。

 でも俺はあの子らがどんな顔をして俺を見ていたのかもう覚えていないんだ。

 それだけは確かなんだ。


 天井から落ちる露がぴちゃぴちゃ鳴っている。

 地面に目を落とした――緩く窪んだ所が、小さな水溜りみたいになっていて。

 そこへアクアマリオンの深い藍色の髪が一本浮かんでいた。

 きっと部屋から出た時に落っことしたんだろう。


 ここには黒と灰と、それから、ごく淡い明かりしかないので、それが俺の心を安らがせていたってのに、こんなふうに色を付けられたんじゃ台無しだ。

 凡人ってヤツはつくづくセンスがない。

 人の気持ちが分かっていない。

 当たり前みたいに平穏を奪ってくる。

 ただでさえ傷付いてるのに、絶望してるのに、もっと傷付けようって。

 惨く、ただ惨く、残酷に残酷に。


 また頭の奥がずるずる沈んでいく。

 これ以上悩んだって考え込んだってどうにもならないって分かってるけど。

 分かってるけどまた悲しくなるようなことばかり考えてしまう。


 だからもうここに居ては駄目だ。

 俺は僅かに残った力を振り絞って立ち上がる。

 立ち上がろうとする。

 外に、部屋の外に、もっと前の方に出なきゃ駄目なんだ。


 まるで全身の骨を抜き取られたみたいな感じだ。

 脳味噌の芯が真っ暗くなっている。

 カビが生えてきている。

 関節と胸の奥がイガイガしている、ガシガシしている。

 外には出たくないけど暗い所にいるのも辛い。


 何なんだろう、本当に。

 ここ最近、感情の起伏が妙に激しくなったように思える。

 今日だってそうだ、怖くなったり悲しくなったり怒り狂ったり。

 何度も何度も心の中の色が切り替わって頭がどうにかなりそうだ。


 それでももう外に出なければ。

 出たいと心から思って出るんじゃないけど外に出なければ。

 遠くの方に行かなければ。

 楽になりたい。

 このしんどいのとおさらばしたい。

 俺は、扉の方へ向かった。









「――おや、ようやく出てきたのか、ドラゴリュート? 随分遅かったじゃないか」


 酷い悪臭が漂っている。

 生ゴミみたいなよく分からない、酸っぱい、気色悪い。


 そういう場所の真ん中にガンドウが突っ立っていた。

 どんな表情をしているんだかよく見えない。

 人間の気持ちが凄くぼやけている。


「さて、まあ、どうだ? 中々いい眺めだろう?」


 それに何だか変なものが見えるのだ。

 赤くって黒くってドロドロした感じのが流れ出ている。

 溢れ出している、飛び出している。

 挽き肉みたいなのが一緒くたになって。


「いや何、どうも不安だったものでな――連中はあまりに危険過ぎる、お前もそう思うだろう? 先程のガキだってそうだ、自爆などとふざけたことを……。今はお前の治療によって力の大半が失われたというが、それだって怪しいものだ」


 人の顔が転がっていた。

 子供の頭が転がっていた。

 小さくて幼くてロクな目に遭わなくて、それで本当に絶望してしまったヤツらの。

 俺が中途半端な希望を与えてしまったヤツらの。

 顔が転がっていた。


「だから、念には念を入れて、な。はは――どうした、ドラゴリュート? 酷い顔じゃないか」


 ただただ怖くて仕方がなかった。

 目の前を見据えることができない、そんなことできない。

 必死で必死で顔を背けて、違う方向、もっと嫌な気持ちにならない方を見ようとして――


「――ああ、そうか。アクアマリオンとキャットウォークを探しているんだな? 何だ、それならば心配は要らないぞ――ほら!」


 それを。

 そうやって目を逸らしたことを今本当に心から後悔している。





「そこに、ちゃんといるじゃないか!」





 真っ赤になったアクアマリオンが。

 キャットウォークが。

 ボロボロのグシャグシャになって転がっていて。

 あああああああああああああああああ。

 あああああああ……。



 そこで、もう、いや、実際の所はずっと前に。

 俺は限界になった。




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