痛えものは痛えよ
ガンドウに示された部屋の中。
研究室とは打って変わって――そこは、暖かな乳白色の光と、ぼんやりとした淡い薄闇の入り混じる奇妙な場所だった。
「……何だ、これ」
散らばる銀色の鱗と魔法陣のような紋様を踏み付け、まじまじとその光の発生源を見やる。
俺たちの眼前に佇んでいたのは――数メートルはあろうかという、不思議な結晶体であった。
透き通る銀灰色の輝き――丁度、翼を広げたよだかによく似た形。
世のあらゆる幻想を水飴みたいに溶かし、真冬の夜風で固めたみたいな。
或いは、冷えた早朝の空、純白のプリズムを硝子箱に閉じ込めたみたいな。
奇跡と奇跡を縒り合わせた末に生じた銀細工の結晶。
薄氷のような儚さと危うさを帯びる透明なヴェール――
全ての美と叡智に包み込まれたそれは、悠然とその身を宵闇に晒していた。
「ど、どうなってるにゃ、一体――この程度のサイズでここまで莫大なエネルギーを貯め込むだなんて、オリハルコンやヒヒイロカネですら不可能だにゃ……!」
「子供たちに埋め込まれていたあの鱗は、これのほんの破片に過ぎなかった、ってこと……!? 冗談じゃない、こんなとんでもない代物を突っ込まれたら、私だって気が狂うっ!」
口々に困惑と怒りを吐露するキャットウォーク、アクアマリオン。
二人の言はもっともだろう。
だが――今は、それよりも気になることがある。
結晶体に近寄り、手を触れる。
途端、泡が弾けるみたいに繊細な音を立てて、表面にごく小さなヒビが入った。
エメラルドとサファイアの光を放つ星がパチパチと舞い――
やがて虹色に染まった輝きは、俺の掌にするりと溶け込んでいく。
……この反応、やっぱり。
『君の、いや私のエネルギー回路に極めて親和性の高い魔力。間違いない――私はこの“鱗”の持ち主を知っている。遙か太古、神代の時代より、誰よりも深く』
闇のドラゴンが声を震わせる。
色濃い混乱を滲ませたまま彼女は言った。
『そうだ、間違いない。これは、彼の――“光のドラゴン”の鱗だ』
光のドラゴン、だと?
比類なき叡智を誇り、あらゆる問いに答えを与える……とかいう、あの?
まさか、そいつが“子供攫い”の手助けをしてたってことなのか?
『いいや、それだけはありえない――あってたまるものか、そんな戯けたことが!彼は苛烈な部分もあるが、決して愚かではないし、そもそも、“最も優れし魔法使い”のしもべとなれるのは龍のどちらか一方だけだ! 私がこうして目覚めている以上、彼は今なお眠り続けている筈なのだ……だというのに、なぜ!?』
普段のとぼけた様子からは想像もできないほどに激しく動揺するドラゴン。
龍のどちらかが、再び世界に停滞が訪れた時に現れるであろう“最も優れし魔法使い”の忠実なるしもべとなり、その者の望みに従うこと――
確か、御伽話の一節にこうあった筈だ。
龍にとって、女神は唯一の主だ――闇のドラゴンの方は俺に忠誠心を向けているんだけど、光のドラゴンはそうではないだろう。
となるとやはり、命令を無視したというのも考え難い。
だったら、もしかして。
光のドラゴンは、“子供攫い”の連中に無理矢理叩き起こされたってことか?
……たくさんの不安と恐怖、収まりの付かないことが頭の中をグルグル回る。
醜い姿で泣きじゃくる少女――
薄く涙を滲ませて微笑むアクアマリオン――
狂人めいたガンドウの振る舞い――
“子供攫い”の真意――
憂いに満ちたキャットウォークの横顔――
赤毛の男が死に際に喋っていた相手の正体――
存在する筈のない“光のドラゴン”――
さっぱり考えがまとまらない――悩まなきゃいけないこと、立ち向かわなきゃいけないことがあまりに多過ぎて、凄く心が辛いのだ。
もう、帰りたい。
握りしめた拳が小刻みに震える。
早く学院に戻って、ガレットたちとくだらない軽口を飛ばし合いたい。
これ以上、この場所に居たくないんだ。
モヤモヤが、ストレスが、いつしか頂点に達しようとしていた。
ただ帰りたい、安心できる場所に帰りたい。
もう、限界なんだ――
「……あ、あなっ、た、たち」
破綻寸前の精神に、酷く幼気な声が差し込まれる。
弾かれたように俺は振り向き――そして、絶句した。
「あ、あのっ……あなたたち、は……そ、そし、きの……ひ、ひとです、か?」
そこに居たのは、一人の小さな女の子だった。
くすんだブロンドの、痩せこけた幼い子供だった。
幾度も幾度もつっかえながら、必死な、どこか媚びた様子。
細く掠れ、濁った問い掛けに、俺は返答することができなかった。
理由は、至って単純だ。
「ど、どうかっ、どうか、おねがいです……あの子を、かえしてください。まっ黒い髪の、ちゃいろの顔のおんなのこ、おねがいです、おねがいしますっ……」
襲い掛かってきた、異形の少女。
真っ黒い髪に褐色の肌――今、キャットウォークの背で眠っている彼女のことを言っているのだろう。
だから、すぐに答えてやればいいのだ。
俺たちは別に組織の関係者ではない、むしろそれと敵対する者だ。
君の言う女の子は既に保護しているから、心配する必要は全くない。
安心してくれ、と。
でも、俺もアクアマリオンもキャットウォークも、それができなかった。
……なぜって?
「わたしのことを、わたしのからだを、すきにしてください。オモチャみたいにして、ちぎって、いじって、あそんでくださいっ……。ゾンビみたいに、すぐ、もどりますから」
するりと、ボロ雑巾のように赤黒い、血と糞尿の染み込んだ布切れが落ちる。
その下が――ただひたすら、ひたすらに。
想像を絶する惨状だったからだ。
ズタズタに引き裂かれた皮膚、刻まれた卑猥な言葉と無数の切り傷、ヤケド、刺し痕、剥き出しの筋肉、黄ばんだ骨。
ロクに手当てもされていないが故にそこら中が化膿していて、そこから凄まじい悪臭を放つ液体がビシャビシャと地面に流れ落ちている。
おまけに、至る所から生えた無数の触手が傷跡を引っ掻き回すものだから、ただもう、地獄のように、痛ましい、苦しい。
不幸を、痛みを比べ合うことに意味などない。
だけどこれは、赤子よりも、襲い掛かってきた少女よりも、更に酷い。
惨い、惨い、惨い。
「だからあの子は、あの子だけは、おねがいします、つれてかないで、持っていかないで、くださいっ……おともだち、なんです。だいじな、おともだちなんです。おねがいします、ゆるして、ゆるして……」
どうすればいい?
俺はどうすれば、何でこんな悲しい、どうすりゃ、畜生。
畜生畜生、畜生――
「…………ん、あ、あれ? ここ、どこ――あ、メルちゃんっ」
どくんっ。
心臓が勢いよく跳ね上がる。
「リム、ちゃん? どう、して……からだ、なおって」
「あ、え……ほんとだ、すっごーい! どこも平気だ、全然痛くないよっ!」
褐色の肌の少女――リムという名前らしい――が元気よく喋る。
あの子、いつの間に目を覚ましていたのか。
茫然と立ち尽くす俺たち――そこへ、ざわざわと子供の声と一緒に、歪な形の魔力が集まってくる。
「ね、ねえっ、リムちゃんだっ」
「からだ、もとにもどってるよっ。ど、どうして、どうしてっ?」
「つれてかれた子たち、みんな、もどってこなかったのに。リムちゃんだけ、どうして、もどってきてるの?」
「あ……な、なんで、出てきちゃ、出てきちゃダメ、ころされちゃうっ」
ぞろぞろと少年少女たちが溢れ出す。
メルと呼ばれたブロンドの女の子は必死にその波を止めようとするが、どうにもならない。
その全員が、酷く痛ましい姿で――不安と恐怖を顔に張り付けながら、こちらをじっと見つめていた。