橘田柑子の場合(1)ー4
朝霧が言ったとおり、徐々にカフェに足を向けるお客が増えてきた。ふと、カフェの掛け時計を見ると、12を指す長針と、真反対にある短針で180度の角度を成していた。
「リイベ、いい時間だな」
「そうだね。そろそろお暇しよっか」
リイベは500円玉を1枚テーブルに置き、まるでこっくりさんに操られているかのように人差し指でこちらに滑らせる。
「100円多いぞ」
「いいよ、100円くらい。この前あんたにジュース奢ってもらったし」
「社長令嬢は言うことが違うねぇ」
リイベのドイツ人の父親は、表札などを製造している日本の会社の社長を勤めているらしく、中学の時に彼女の家の外装と内装を見た限りでは、それなりに良い生活をしているのだと感じた記憶がある。
「あはは、なんなら全部払おっか」
「それは遠慮しておこう」
「ま、とにかくおつりはいいから、会計はよろしく。ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「ああ。会計終わったら外にいるから」
彼女と俺は同時に席を外し、先ほどの時計の針のように俺たちは真反対へと歩を進めた。
カウンター席でお客を相手にしていた朝霧はこちらの行動を察したのか、すぐさまレジスターのところへと来てくれた。
「カヌレ、美味しかった?」
「あ、うん。美味かったよ」
「やっぱり?あ、会計は1100円ね」
「・・・・。ちょっと待て、高くないか」
「そう?アロンジェ400円、テが350円、カヌレ350円・・・・」
「おい、カヌレは朝霧のサービスじゃないのか」
「不味いならともかく、美味しかったんでしょ?だったら払ってね」
少し渋ったが、確かにリピートする危険性があるほど美味しかったし、そもそもカヌレという代物を知ってはいたものの、口に入れたのは初めてだったので、一つ経験をさせてくれたという意味では、お金を払うのは至極当然のことかもしれない。
そしてこのように納得しそうになる俺も、大概なマゾヒズムかもしれない。
「橘田くん、リイベに少し多めに払わせてるよね?」
「なぜ知っている」
「目は良いからね、遠くから見ちゃった。女の子のリイベにも多めに払わせておいて、私にもカヌレの代金払わせるなんて、橘田くんはヒモ男の素質があるっぽいねー」
小生意気な顔で、少しずつ彼女が俺を口車に乗せていくのが分かる。
先ほどのやりとりでは思ったほど悪くない奴だと思ったのだが、やはりこいつは手ぐすねを引いて獲物を待つ、小賢しい蜘蛛のような女だった。
「分かったから、払うから」
俺は用意していた1000円札に加え、桜が描かれた銀色の硬貨を財布から取り出し、トレーに置いた。朝霧はそのお金をせっせとレジスターへと入れた。
「本当にリイベとは付き合ってないの?」
「うん、付き合ってないけど」
「君は好きなの?」
「女子としてなら、好きじゃないよ」
「へぇ。不思議な関係」
朝霧はとぼけるような顔をして見せた。すると彼女は手をこまねくような仕草をして、カウンター席の一番端の席に座るように俺に仕向けた。
「座って」
「何で?」
「君といろいろ話したいから」
「いや、リイベも戻ってくるし」
「うわ、下の名前で呼ぶんだ」
「・・・・」
太宰治の小説『走れメロス』で、「帰ってこられなかったら、友人のセリヌンティウスを締め殺していいよ」というメロスの身勝手な決意を聞いた際に《ほくそ笑んだ》暴君・ディオニスの顔とは、彼女のような顔のことをいうのだろうなと思った。