橘田柑子の場合(1)ー1
少し早い青嵐のせいだろうか。今日はやけに肌寒く感じる。
少し静かな住宅街のせいだろうか。どこかの木から「ちょっとこい、ちょっとこい」と、コジュケイに声をかけられる。
いつもより少し遅い下校時間。ホームルームで行っていたクラスの委員決めが長引いてしまったからだ。
いつもより少しうるさい帰り道。隣に、コジュケイの鳴き声をかき消すほどの声の大きさで笑う、一人の女の子がいるからだ。
「何が面白いんだ」
「だって、高校一年生にもなって犬のフンを踏むだなんて、これ以上に面白いことはないよ」
その犬のフンを踏んだ高校一年生の俺、橘田柑子は、二日前に私立の謝戸高校高校に入学したばかりのニューカマーだ。
そして、入学してから三日目。中学からの友人であるハーフの如月リイベ(きさらぎりいべ)と帰り道をとぼとぼ歩いていると、上白糖のコーティングによる照りと、凹凸の形による翳りを交互に見せる、まるで高級カヌレかのようなシェープをした犬の一本糞を、俺は右足で招かれるように踏み潰してしまったのだった。
「気がつかなかったから仕方ないだろ」
「私は気がついてたけど」
「じゃあ、言ってくれよ」
「あんた、気づいているもんかと」
「まあ、踏んでしまったものは仕方がない。運が付いたって思えば、これほど幸福なこともないぞ」
「あははっ、そんなの踏む時点で、幸福じゃないと思うよ」
正論を浴びせられた俺は、それがまるで呪文であるかのように、口を噤むことしかできなかった。
中学三年生のときの国語の授業で、芥川龍之介の何とかという作品に「弩にでも弾かれたよう」という難解な表現が出てきたことを思い出した。当時ではよく意味の分からなかったこの言葉も、今となっては何となく分かるような気がする。
「じゃあ、そこにももう一個フンが落ちてるから踏んでみてよ。さらに運が付いて、好きな人と結ばれるかもよ」
「嫌だよ。好きな人もいないし」
「あはは、そうなんだ。あれは私の思い違いだったか」
「何の話?」
「いやいや、こっちの話」
そんなことより、この町はいったい幾つのカヌレが落っこちているのだろう。
これが、お母さんから買ってもらってホクホク顔の幼気な少女が、うっかり落っことしてしまったカヌレ、ということならば可愛げもあるというものだが、行く先々にあるのは鼻を突くような香りを漂わせる、それに擬態した犬の一本糞ばかりである。
「コージ、少しお腹が空かない?」
「うーん、まあ少しは食えるかな」
「じゃあここ入ろうよ」
彼女は、ちょうど右に屹立していた「カフェ・ド・フランス」という喫茶店を指さした。外観は、トリコロールの国旗が立てかけられていたり、テラス席を広く用意していたりと、フランス感を演出しようという努力が節々に垣間見える。もっとも、俺はフランスのカフェなど見たこともないが。
「新しくできたっぽいね」
「ああ、確かに前は工事してたな。気になるから入ろうか」
俺と彼女は、新設されたそのフランス風のカフェに足を向ける。それと同時に、俺たちは入り口の横の看板におのずと目を奪われた。そこには、俺の記憶に新しい絵が。
「カヌレがこの店のおススメなんだって」
「・・・・俺はそれは遠慮しておこう」