その37
「どうしたのですか」鐘馬が不審げに聞く。
「急に温泉の匂いが消えた」
「えっ」
「な、なんじゃそらの巻」塵芥も同じくすっとんきょうな声を上げる。「ここまで来てそれはないの巻」
「ほらほらほらほら。来たよ来たよやっぱり来たよ」
千歳が効太郎の前に飛び出してきた。
「こんなことだと思ったよ! さあどうしてくれんの。アップルビーが死んだらあんたどう責任を取るつもりなのよ。もし最悪の結果になったりしてみろ。ためらいなくあたしはあんたの敵になるからね!」
「ま、まあ千歳さん、落ち着いて」鐘馬が両手を下に向けるジェスチャーをし、クールダウンさせようとする。
「鐘馬殿のおっしゃる通りの巻。千歳殿はここはもっと冷静になるの巻」
「うるさいの巻黙れの巻クソ忍者。あんた登場してからなんの役にもたってないじゃないの。それでよく『藍の湯』の守り神が務まったもんね」
「えへっの巻」塵芥が照れたように頭を掻いた。
「とりあえずもうちょっと先に行ってみよう」
一行はゾロゾロとなだらかな斜面を下っていった。
そうして少し歩くと一気に視界が開けた。
「あ……」
一同は思わずその場に立ち止まる。
目の前にいきなり広大無辺な風景が広がった。
山々はどこまでも連なり、盆地状の眼下には大草原が青々として風を受けていた。
しかも大草原の奥には小振りな湖もある。
静謐な湖面は否が応でも人跡未踏の神秘感を盛り上げていた。
都会で見るよりも明らかに空は高く、そしてこれまで以上に雄大だった。
まるで忘れられた別世界に辿り着いたような気分だった。
「きれい……」
しばし感動の面持ちで、千歳は目の前の大自然に思わず立ち止まって見入らずにはおれなかった。
いや、千歳だけではない。
ほかの連中もまったく同じだった。
「心が洗われますね」
「桃源郷の巻……」
「手つかずの自然って感じだなあ」
「これならどこかに神秘の秘湯があってもぜんぜんおかしくないよね。たぶん近いよ」
「いや、あそこだ」
効太郎が湖を指さした。
「意識があった時にアップルビーが僕の背中でいったことがあったんだ。湖の真ん中に小島があると。そこに秘湯がふたつあるってね。『橙の湯』と『黄の湯』が。ほら、あの湖の真ん中にも小島がある」
「ほんとだ」
「やりましたね、効太郎さん」
「長い旅路だったの巻」
「でも」効太郎は急に暗い顔になった。「たぶんもう凍ってるよ」
「えっ」
「なんたって温泉の匂いが途中で消えたからね。『橙の湯』と『黄の湯』の匂いだったのに違いない。温泉玉がその時に抜き取られたんだ」
「じゃ、じゃあ、あと一歩の差で間に合わなかったってこと?」
「その可能性は高いな」
「と、とにかくあそこまで行ってみましょうよ」
× × ×
湖のほとりに立つと、真ん中に浮かぶ小島はすぐ近くに見えた。
大きさはよくわからないが広くないことは確かだ。
島には木々が鬱蒼と生えているので秘湯の姿はこの位置からは確認できない。
小島までの距離はおおむね百メートルくらいだろうか。
泳いで渡れない距離ではなさそうだ。
「あそこまで泳いでいきますか?」と鐘馬が一同に提案した。
「拙者は泳げないのでご辞退申し上げるの巻」
「アップルビーちゃんはどうするんだ」
「このくらの距離なら背負ったまま泳いで行くよ」千歳は勇ましく答えた。
「いやちょっと待って」効太郎が制する。
「あの小島にまだ煉獄一味が残ってるかもしれないよ」




