その35
緊張度MAXだった一同は、誰かが何か言葉を発すると途端に相手が態度を硬化させるのを恐れてでもいるかのように全員が無言のまま、ただ固唾を飲んで次なる蛸の行動を見守るしかなかった。
やがて巨大蛸は、全員から視線をそらせた。
そうして一本の足で一同を絡み取った状態のまま、ズリズリと断崖を降りていきはじめたのだ。
何がどうなったのかわからない。
敵意百パーだった蛸にどういう心境の変化があったのか……。
長い時間をかけて、ようやく蛸が降りきった峡谷の底は、巨大な岩石がゴロゴロしている河原だった。
その真ん中を流れる川はほとんど川の体をなしておらず、軽く五メートルの高さはある巨岩群の下をくぐるように水が流れていた。
蛸は自分の長い触手のような足から効太郎たちを解き放つと、自身はひときわ大きな巨石の上に乗り、一同を睥睨した。
その視線が千歳の背中のアップルビーに止まる。
「……」
蛸の目が、しばし哀しげにアップルビーを見つめた。
一同は蛸の眼前で硬直したまま微動だにしない。
教室掃除をサボッて先生に叱られている当番の生徒たちのように。
やがて蛸は、くるりと背を向けると、ジャンプしてふたたび絶壁に貼りつき、そうしてズリズリと岩の断崖を登っていった。
改めて見ると、あんがい身のこなしが軽い。
その姿がちいさくなっていき、もう襲ってくることはないだろうことがほぼ確実になると、一同はそこでようやく肩の力を抜き、ついでに全身の力も抜けてその場に座り込んでしまった。
「……助かったの巻」塵芥が安堵のため息を漏らす。
「死ぬかと思いました」鐘馬もぐったりといった感じだ。
「な」効太郎が一同を見回すと「崖から降りられただろ」
「効太郎さん、やっぱりさすがです」
この時鐘馬はチラと千歳を見たが、もはや彼女には激高する元気すら残っていないように見えた。
「……はいはい、さすがさすが」
投げやりにいった。
そのかたわらで、さらに一回り小さくなったシワシワのアップルビーがぐんにゃりと岩場に体を横たえている。
千歳がしゃがみ込んだ際に背中から降ろしたのだ。
「千歳さん、ずっと大変でしたね。あとは私が代わりますよ」
「いや、いいよ。この子はあたしに面倒見させて」
「大丈夫なんですか」
「彼女には冷たくしすぎたかもね。ちょっと悪い気がしてさ」
「千歳さん、本当はやさしいんですね……」
そういわれて千歳は焦ったように、
「えっ、違う違う、っちゅうか黙れ。それより鐘馬」
「えっ」
急に小声になって千歳が鐘馬に顔を近づけてきた。
何かいおうとするそぶりを見せたが、彼女が視線をふと効太郎に向けると先方ももこちらを見ていたので、
「いや、あとで」
といったきりスッと鐘馬から離れた。
特に気にするでもなく鐘馬はアップルビーのかたわらにしゃがむと、気遣わしげにこの温泉金魚を見つめた。
アップルビーから苦悶の表情はすっかり消えていたが、逆にそれがかえって死期の近いことを暗示しているようにも思え、不気味だった。
安らかな表情をしているとはいっても、体じゅうが百歳越えの老婆のようにしなびているので痛ましいことに変わりはなかった。
「早くお湯に入れてあげないといけませんね。あの蛸もきっとアップルビーちゃんのことを気遣ったんですよ」
すると千歳がまた近寄ってきて、
「どうして? 最初は明らかに怒って襲いかかってきたのに」
「同じ山奥に住む精霊同士だからだろうね」と、効太郎がいいながら近づいてきた。「きっと精霊同士通じ合うものがあったんだろう。ましてやアップルビーが今こんな状態だから余計にね。要するに蛸が金魚に同情したんだ」
「蛸が同情……。蛸が同情ね」
「そう。蛸の同情だよ」
「私たちがアップルビーちゃんを大事に思っていることがあの蛸にも伝わったのかもしれませんね」鐘馬がいった。
「……でもあの蛸って、精霊だったの?」千歳が聞く。
「じゃないの?」効太郎が答える。
「秘境の住人であることには間違いありませんからね」
「精霊ってツラでもなかったけどな。どう見たって怪物でしょ」
「精霊の怪物だよ。怪物の精霊かな」
「どっちでもいいよ」
その間に温泉忍者の塵芥が、そっとアップルビーのもとにやって来ると、鐘馬のとなりに座り込んでしばらくじっと彼女の様子を見ていた。
「アップルビー殿は本当に大丈夫なのかの巻」
「そう信じるしかありませんね」改めて鐘馬がアップルビーの顔を覗き込む。




