その26
「なあに、少しのあいだだけさ。『赤の湯』の温泉亀だって結構持ち場を離れまくってしかも人間と結婚したじゃないか。おまけに浮気までして」
「まあ……そうだけど……」
「それに彼女を」と効太郎は温泉金魚を見つめて「このままここにひとりここに残すのはかわいそうな気がするんだ。温泉玉を取られて凍ったこんな寂しい『緑の湯』のところにね」
温泉金魚は今や目に涙をいっぱい浮かべていた。死んだお湯のもとにこれ以上ひとりっきりでいるのは耐えられないといった面持ちだった。
千歳は大きくため息をつくと、
「しかたないわね。でも、ここから遠出したことのないあんたがほんとに道わかるの?」
「がんばります!」
自分が頼りになる存在であることをアピールするため、金魚は力強く答えた。
「……なんかやっぱり足手まといになる気がするんだよなあ」
千歳は大きく首を傾げ、胸を張る金魚のことを胡散臭そうに眺める。
彼女の不安は的中した。
× × ×
四方を峻険な山々に囲まれた谷底の中心部から、いきなり細長い塔のような岩山が屹立している。
地上から見上げた時のそれは、てっぺんが雲に隠れて見えず、天上世界に続く柱というものがあるならまさにこれだろうということをいやでも想起させずにはいられないものだった。
今、その長い長い岩塔を三人の男女と一匹の巨大金魚がよじ登っているところだった。
「しかし、これだけのひょろ長い岩の塔が長いあいだの風雪によく耐えてこれたもんだなあ」
ちょっとしたでっぱりを探しつつ、それをひとつひとつ、次々に掴み、足をかけつつしながら少しずつ登っていく効太郎が、自分のとなりで同じように登っている鐘馬に話しかけた。
「はい。それとも逆に、むしろ長いあいだの風雪でこんな形になったのかもしれませんね」
「あるいは空から降ってきて地面に突き刺さったとか」
「なんにしても、このてっぺんに温泉が湧いてるなんて信じられませんよね」
「そうだなあ、ふつう誰も思わないよなあ。だからこそ秘湯なんだろうなあ」
「どういう仕組みなんでしょうね」
「僕たちにはわからない自然の脅威があるんだろうね」
「まだまだ先は長いですよ」
「あんな高い高いところまでお湯を吸い上げているってことなのか、それともこの塔の中にマグマみたいなものが詰まってるのか、どうなんだろう」
「ふつうなら屋上に行くあいだにお湯が冷めてしまいそうですよね」
「それこそが秘湯のパワーなんだろうなぁ」
「私たちだって相当体が冷えてきてるのにですよ」
「こんなに体が冷えちゃ湯につかるのがたのしみだな」
「もう凍ってたりして、てっぺんのお湯」
「そんなこというなよ、モチベーション下がるじゃないか」
「あすいません」
ハッハッハッハッハッハッ。
「それにしても、無駄話をしているあいだに、いつのまにか下のふたりと結構差がついちゃいましたね」
「しばらくここで待つ?」
「私たち、まるでセミみたいですね」
「おーい、大丈夫かーっ」
効太郎と鐘馬の遙か下方では今、千歳と温泉金魚が必死になって岩の絶壁をよじ登っているところだった。
「……あいつらふたりで猿みたいにスルスル登っていきやがって」
千歳が上を見上げながらブツブツいっている。
温泉金魚はさらにその十メートルほど下をふうふういいながら一生懸命クライミングしている。
しかし何せ金魚の胸ヒレも腹ビレも崖を登る行為には決して適しておらず、それどころか尾ビレなどはむしろ邪魔っけだったので、そのぶん彼女は相当苦労していた。
それでも泣き言ひとついわずに懸命によじ登っている姿からは三人の足手まといにならないよう必死になっているところがうかがえたが、現実として足を引っ張っている事実はいかんともしがたかった。
「おーい、無理ならもうやめたほうがいいよーっ」千歳は下を見て金魚に声をかけた。
聞こえているのかいないのか、よじ登るのに必死で返事すら返ってこない。
「崖をよじ登る金魚なんて前代未聞だっての」
あきれた顔の千歳はもう金魚のことは放っておくことにして、ひとりでグイグイ登りはじめた。
「あぁーっ!」




