警鐘
「さっき盗んだもの、返してもらえる?」
着地のとき、地面についてしまった手をぱんぱんと払いながら、盗人の行く手をさえぎる。
男は突然現れたわたしを見て、ぎょっと目をむいた。
「なっ――。くそっ」
男が慌てて踵を返す。
わたしはその足を狙って、抜いた短剣を投げつけた。
太ももに短剣が刺さり、男がよろめく。
その隙に距離を詰めて男の足を後ろから払うと、どしりと音を立てて男が転倒した。
素早く男の腕を取り、捻って地面にうつぶせに押さえつける。
「痛っ……」
男がうめき声をあげる。
「返してもらえるよね?」
ぎりぎりと腕を捻り上げながら、問いかける。このまま捻り続ければ、脱臼待ったなしだ。
「わたしが女だからって、甘く見てるんなら大間違い。脱臼させるくらい、なんの抵抗もないから。早く出したほうが身の為だと思うけど」
力を一切緩めずに、本気だということが伝わるように、冷淡に言い放つ。
「っちくちょう! やめろ! あんなもん、もう持ってねえよ!」
「ええっ⁉」
驚いて声を上げた拍子に、ゴキ、という嫌な手ごたえを感じた。
思わず力が入って、脱臼させてしまったらしい。
ぱっと手を放す。
ふぐふぅっ、というような声にならない声を上げて、男がのたうちまわっている。
「え、ちょっと、どういうこと?」
問いかけても、痛がるばかりで返事がない。
わたしは嘆息して、転がる男の背中を踏みつけた。
太ももに刺さったままになっていた短剣を引き抜く。血が流れ出すけれど、仕方がない。
男を蹴ってひっくり返し、短剣をちらつかせながら、大人しくさせる。
「で? どういうこと?」
「と……とっくに売っぱらったっつってんだよ」
男が、自分の血のしたたる短剣のきっさきを凝視しながら、かすれた声で答える。
「どこで?」
「ここを戻ったところにある、小道具屋だ」
「小道具屋……」
確かに、そのあたりには細々としたものを取り扱う道具屋があったはずだ。
やれやれ、とわたしはため息をついて、男の服で短剣についた血をぬぐってから、鞘に納
めた。
そういうことなら、転売される前に取り戻さないといけない。
こんなところでこの男にかかずっている場合じゃない。
「これに懲りたら、もう盗みなんてやめることね」
男を置き去りにして、小道具屋へ向かう。
と、前方から黒いローブを着た、さっきの少年がこちらへ向かって歩いてくる。
「さっきの銀の容器、もう売っぱらわれちゃったみたい。これからそれを取り戻して来るから。そしたら一緒に、本来の持ち主の人を探して返さないと……」
「いや。あれはまだあいつが持ってる」
「え?」
「だから、心配ない。あんたは離れてたほうがいい」
「どういう――」
問おうとしたそのとき、背後でなにかが光った。
振り返ろうとしたわたしの頭に、少年がばさりと黒いローブをかけた。
「あっ、ちょっと――」
「じっとしてろ」
「そんなわけ――」
ローブの下で暴れていると、ぎゅうっと拘束された。
その腕は細くて頼りなくて、わたしならすぐにでも抜け出すことができたけれど、なんとなく、わたしの直感が従ったほうがいいといっていたので、その状況に甘んじる。
やがて。
「もういい」
ぱさりとローブをのけられて、いつもの視界が戻ってくる。さっき感じた光の気配は、今はもうない。
わたしを拘束していた非力な腕からも、解放される。
「ちょっと、どういう――」
説明してもらわないと、と詰め寄ろうとしたとき、違和感を覚えた。
少年が、ゆっくりと歩いてゆくその先。
さっきまで、あの男が倒れていたあたり。
そこに、ころり、と、まるで最初からそこにあったかのように、銀の容器が落ちていた。
「え……? どういうこと? っていうか、さっきの男は……?」
ついさっきまで、そこに転がっていたはずの男の姿が、かき消えていた。
こんなに素早く動けるような怪我ではなかったはずだ。負傷させた自分が言うのもなんだけれど。
ぞくり、と。
冷たいものが背筋を伝った。
なにか、自分には理解できないことが起きた――?
路上には、血の一滴も残されていない。
そんなこと、あるわけがなかった。
太ももからの出血は、かなりの量だったのに。
わたしが感じている恐怖なんかつゆ知らず、少年はすたすたと銀の容器に歩み寄ると、開きっぱなしになっていた蓋をぱかりと閉じて、懐にしまった。
「ちょっと――」
少年を呼び止めようとしたけれど、出た声は消えそうに小さなものだった。
関わらないほうがいい。
本能が警鐘を鳴らしていた。
あの、非力で小柄な少年に対して、危険だ、と。
わたしが動けないでいるあいだに、少年は路地の奥へと消えた。
わたしはそれを、見送ることしかできなかった。