薄暮の「そら」
過去にPixivに投稿したものを少し改めた物です。
ラスト付近わかりにくいかもしれませんが……男子の誇大妄想を察していただければ。
「……地層?」
「地層だよな……」
美術の時間、一枚の絵が黒板に貼りつけられた瞬間に美術室の一画からザワザワと声が漏れた。皆一同に、思い思いの「困惑」を表す顔を浮かべている。その原因は、黒板に張られた絵が何を描いたものかさっぱりわからないことだ。
その絵は、平行に色が塗ってあるだけだった。上から、薄い黒の中に黄色だか白だかわからない点がいくつか配されていて、その下は紺色というか藍色というか、深い青。更にその下はうっすらとした水色っぽい色があって、更にその下はオレンジ色だった。そのオレンジとの最終的な境界はやっぱり暗めの青で、それぞれの色の境目ははっきりとしている。
初めてこれを見て一発でテーマを見抜けた人がいるとしたら、きっとその人は天才であるか、あるいはそれと紙一重の何かであろう。凡人の集まりである我ら中学2年生から見たら、誰かが言っていたように「地層」が偽らざる感想だった。
でも困ったことに、俺はこれが何を描いたものであるか知っている。別に俺が天才だからとかその紙一重の存在であるからとかではない。ただ、俺がこれを描いた人物を知っていて、その人から何を描くか聞かされていたからである。
これを見た時、「ああ、やっぱりな……」が、俺の最初の感想だった。どうやったらこんなある意味ダイナミックな絵が描けるのか俺には皆目見当もつかないが、描き手の特徴らしいと言えばらしくて、美術室中に浮かんだ「?」の中で俺一人だけは妙にこの絵をすとんと納得できていた。
ただ、おそらくもう一人「?」を浮かべていない人物がこの中にいるはずだ。
それは、この絵の作者。
果たして俺はその作者の方を向くべきか、判断に迷っていた。多分そちらを向いたら、見たことを後悔することになると思う。でも、見なけりゃ見ないで違う後悔も生まれてくる気がしてならない。
俺は黒板の絵を凝視しながら、to be or not to be…なんて英語の授業で覚えた文句を頭に浮かべて、その答えを必死で探していたのだった。
****
夏休みが始まって一週間経ったとある快晴の日の夕暮れ、俺は夏休みの宿題である風景画の景色を探しに、近くの海岸をA3よりも大きいスケッチブック片手にぶらついていた。この辺は海水浴場くらいしか地元自慢する所がないけれど、もう一つだけ、夕日が沈むのがきれいに見える、というウリがある。
正直、絵なんて上手い方じゃない。でも、だからこそこんな宿題さっさと済ませて残りの休みを謳歌するのが賢明だと思う。夕日の沈む海にちょっと波を被る岩礁を付け足してやれば、どうやったって絵になるし、適当に描いたって内容は伝わるから楽でいい。
そんな楽な宿題の済まし方を考えて、すっかり見飽きてしまった海岸線をぶらぶらと歩いていたら、
「あれアッキーじゃん。アッキーも絵ぇ描きに来たんだ」
予期していない所で、いきなり愛称で呼びかけられた。声に促されて振り向いた先には、同級生の水沢宙が、ショートカットの前髪を微風で揺らしながら、Tシャツとデニムのミニスカートという着飾らない地元スタイルで、俺と同じくどでかいスケッチブック片手に海の方へ体を向けながら小さな体を猫背に丸めて座っていた。
「おう宙、一週間ぶり。サバサバ~」
宙と会うのは終業式以来だけど、こんな狭い町だから、顔見知りに会うのは珍しくない。だからごく普通に見えるよう俺は宙の方を向いて、昔覚えた嘘くさいイタリア語で宙のご機嫌をうかがうと、
「アッキーお久しゅう~。ボンボンボンジュ~ル」
一週間ぶりという言葉がツボに入ったのか変なイタリア語が効いたのか、くすくす笑いながら宙はわざとばか丁寧にぺこりとお辞儀をして、本場のフランス人には通じないであろう謎フランス語で返事を返してくれた。
「宙も夕日が題材か?」
俺は宙の持ったスケッチブックを指して尋ねた。別に題材が被るのが嫌だというわけではない。そもそもこんな描きやすい題材、誰かとは被るだろうと思っていたから。でも、宙の画題は俺の予想に反していたようで、得意げにチチチ、と指を振る。
「それは違うんだな~。私が描きたいのは『薄暮』の空だから」
「『はくぼ』? 何だそれ」
初めて聞く単語に、知らずに声が裏返ってしまった。
「あれ? アッキー知らないの? 黄昏って言った方がいいのかなぁ。でも薄暮の空ってすごいんだよ。色んな色の空が、いっぺんに見られるの。何だろうね、こう……こうやってさぁ」
「へぇ……アホの坂田師匠のモノマネでも習得したのか?」
身振り手振りを交えて何かを伝えようとする宙だが、俺は宙の言葉を食い気味にそれだけ言って、続く言葉を止めさせようとした。だって全然知らないし、第一、空の色をジェスチャーで伝えようとしている宙がおかしいのだ。色をパントマイムで表現できる技量があるなら大道芸人として大成してしまえばいいのに。
そして、出来ないんだったらその身振り手振りを止めてほしい。両手を水平にして段々に重ねていくと、「よいっとせのこらせ」という間抜けな歌が本当に聞こえてくるようだ。
俺の呆れた様子に気づいたようで、宙はジト目で俺を見つめてくる。
「地元民のくせに~。見ないと結構人生損してるかもよ」
「損って、どれくらい?」
「ん~……大人になってから青春やり直したくなるぐらい」
そりゃあ結構な損だ。宙の言葉を鵜呑みにしていいかは疑問だが、出来るだけ、若いうちでの後悔はなくしておいた方がいいのかも。俺はしばらく思案したのち、
「……今から見ても遅くは?」
と聞いてみると、
「ない!」
と、宙は得意げに左手で胸元にサムズアップを掲げる。
「へぇ、じゃあついでだし見ていくか」
夕日なんてどこで描いても一緒だろうから、俺はここに場所を決めて描こうと決めた。ちょうど、絵になりそうな岩もここからなら上手く見える。呼びとめられて正解だったかもしれない。
「まぁまぁお隣どうぞどうぞ」
宙は、コンクリートで出来た砂浜へと続く緩い階段の、自分の座っている場所のすぐ隣を差し出しながら、そこに着いていた砂を払いだす。
「これはこれは、かたじけのうございます」
そんなことわざわざしなくていいのにと思いながら、宙の気遣いが嬉しくて、わざと古語風の馬鹿丁寧な礼を返して俺はそこに座ったのだった。
「しかし宙は何でそんなの知ってんだ? いっつも空見てるからか?」
「ん~、かもしれない。空っていっつも変わってくから見てて飽きなくて好きなんだ」
「宙が空を好き、か。寒いシャレだな」
「いいじゃん。自分の名前の元になってるんだし」
宙が眉をしかめながらぷぅと軽く頬を膨らませるのに、俺はついつい笑ってしまう。
実際、宙はよく空を見ている。どんな時間の、どんな天気の空をも、だ。
だから、天体とか天候のことに詳しくて、理科の問題でそっち系が出されると異様に強い。化学や物理系は全くダメだし、生物系なんてホルマリン漬けを見るだけで卒倒しそうだけども。
時折、空をボ~~~ッと眺めている姿も見かける。そのせいなのか、男子からは不思議ちゃん扱いされて、あれさえなければイケんのになぁとか残念がられているのを、宙は知らない。まぁ事実、天真爛漫という言葉が似合う奴ではある、が――
(こいつから「そら」を取ったら、何が残るってんだよ……)
夕日の朱に染まった宙の顔を見ていて、俺はそう思う。
別に悪い意味ではない。ただ、こいつには「宙」という名前が本当に似合っていると、心から思う。コロコロ変わる表情、飾り気なく表現される感情、宙から発せられる全てが、空の模様のように俺には見えてくる。
全開の笑顔は快晴で、怒る時は雷が鳴って、悲しい時は曇り気味、泣く時は土砂降り、そしてにこやかに笑う時は満天の星空が広がっているような、静かだけどきらびやかで、いつまでも見ていたくなる、そんな顔をする。だから、空を見ない宙を所望する奴なんて、宙のことを全くわかっていない奴なのだと俺は思っている。
そう、宙のことをわかっているのは――
「アッキー、余所見してちゃダメだよ」
「おぅ! そ、そだった…」
いきなり振り返られて、ギクリ――いや、ドキリと胸が高鳴るのに気づいて、それを悟られないように慌てて目線を海岸へと移す。
中学校で学んだ最大のことは、中国の歴代王朝でもなければ硫酸銅の結晶が青くてきれいだということでもなく、友達という気持ちが恋に変わるんだ――ということだった。
小学校の頃は、ただの楽しくてやかましい女友達だったのに、いつの間にか、違う風に宙を見ている自分がいた。
この気持ちを、宙には伝えていない。
言ってどうなるというのか。
きっと、どうにもならない。
我ながらヘタレなんだけれども、幼馴染からの恋っていうのは、一目惚れより辛いんじゃないかと自分では思っている。既に築かれているこの関係を壊して先に進む勇気なんて俺にはないのだ。壊したら、先に進むどころか二度と戻せないかもしれない、この関係を。
「アッキー、もう夕日落ちちゃうけど、絵描かなくていいの?」
「ん……」
俺は改めて夕日を見つめてみる。もう、円の端は海の中に沈みそうになっている。今から描いたって、流石に仕上げるのは無理な話だろう。それなら……、
「んじゃ、ちゃちゃっと風景の下書きだけでも」
「ほほう、アッキーの絵はどんなになるのかな~」
俺が鉛筆を取り出してスケッチブックを開いたところで宙が覗きこんできたのに慌ててしまって、まだ何も描いていないスケッチブックを俺はすぐに閉じた。
「こら、覗くな覗くな!」
「え~、けちぃ」
「誰のかわかんない絵を互いに品評しあうって言ってたろうが。自分の見せたらダメなの」
美術の宿題である風景画には、もう一つ面倒な問題が残っている。それは、夏休み明けに互いの絵に感想を言わなければいけないことである。それも、友達同士で馴れ合わないよう誰のかを伏せて掲示される。それに対して、少なくとも一人一回は感想を発表しなければいけないのだ。正直絵を描くよりも、そっちの方が面倒なことは間違いないだろう。
……ただ、今隠してしまったのは、単に恥ずかしかっただけなんだけどな。
「あぁそっか。じゃあ見ませんよ~」
宙も宿題の内容を思い出したのか、ふふ~んと鼻歌を歌いながら立ち上がり、どっかへ行ってしまった。一瞬、帰るのかと思ったけれど、スケッチブックも絵の具類もその場に置いたままだから、きっと俺に気を遣って一時的に離れただけなのだろう。
それにしても、せっかく会えたのに近くにいてくれないのはちょっと勿体ないなぁ、なんて一抹の寂しさを覚えながら、俺はさらさらと鉛筆で風景の輪郭を縁取っていた。その時だ。さっきの寂しさがアホらしくなるほどの杞憂に過ぎなかったことがわかったのは。しかも視覚でも聴覚でもなく……触覚で。
「はっけぇ!!(冷てぇ!!)」
いきなり真夏にはあり得ない冷気が俺の首筋の感覚を全部持っていきやがった。
肩をすくめながら、急に冷たい物に触った時の条件反射で普段は出ない方言を叫ぶと、後ろから聞き覚えのある笑い声が響く。
「あはは、さっきまで氷水に浸かってたラムネだぜぇ」
「~~~っ! 宙ぁ!」
俺の色っぽくもなんともないうなじを垂れる冷たい水滴をTシャツの襟で必死に拭き取りながら宙の方を振り返ると、宙は透き通るラムネの瓶を二つ持って、歯を見せながら早朝の薄い青空のような透き通った笑いを浮かべていた。
「ほいアッキー、頑張ってる君にごほうびだ」
「……もうちょい普通の渡し方をしてくれ」
俺の憮然としているであろう顔すら面白そうに、宙は俺の頬にぺとりとラムネをくっつけた。ひゃあ冷てぇ……でも心構えが出来ていると気持ちいいな。
「ありがとな。海の家のだと150円くらいか。今サイフ持ってないから明日返す」
「ごほうびだって言ってるでしょうに。おごりだよ~ん」
「女子におごられるのは男子のプライドが許さんのだよ」
「おや、アッキーにもプライドがあったとは驚きだ」
「宙さんよぉ……俺をなんだと思ってんだい」
「ふふん、ないしょー」
俺がわざと低い声を出しながら宙を見返すと、宙はやっぱりキャッキャと笑う。でも、小学校の頃だったら宙の頭をチョップしていたであろうそんな悪戯さえ、宙に近づいてもらえるなら――そして宙に笑ってもらえるなら、今の俺にとっては嬉しくなってしまうのだから、心の変化というのは本当に不思議なものだ。
そのまま二人揃ってビニールを剥ぎ取って、俺は左手で瓶を支えながら、宙は瓶を太ももで挟みながら付属のプラスチックで「せーの」とビー玉を押し込んだ。
そしたら俺の方はきれいにビー玉が落ちたのに、宙の方のラムネは中身が勢いよく噴出して、挟んでいた宙の太ももごと周囲を濡らしてしまった。
「だぁーーっ! しまったぁ! アッキーに渡す方開けちゃったよ!!」
「うわ大丈夫か? ……って、てめえわざとラムネ振りやがったろ!?」
よくよく考えたらとんでもないことを仕組んでやがった宙の叫びを聞いて、心配した自分が無駄だったかもと思ってしまった。しかし、流石にそのまんまにしておくわけにもいかないから、ポケットに突っ込んであったポケットティッシュを丸ごと渡してやった。
無造作にポケットに突っ込んでいたせいでくしゃくしゃになったティッシュを渡すなんて、「俺はガサツです」と言っているようでみっともないけども、今はそんなこと気にしてはいられないはずだ。
事実、宙はティッシュを受け取るとヨレヨレなことなど気づいていないようでビニールから何枚も引っ張り出すと、自分の足にかかったラムネを拭き取っていた。
「うえ~、拭いたけど太ももがべとべとするよ」
「自業自得この上ない」
ミニスカートだったおかげで服が濡れなかっただけマシであろう。でも、宙は濡れたティッシュを剥ぎ取ったビニールごと、せっかく無事だったスカートの後ろのポケットにグッと突っ込んでしまった。こらこら、そんなことしたら俺よりガサツじゃないか。
「濡れたティッシュなんか入れんなよ。その辺に捨てりゃいいのに」
「ゴミのポイ捨てダメ! 絶対!」
宙は鼻息を荒くして俺に言う。これは、律儀と言うべきなのかなんなのか。濡れたティッシュなんか風の吹くままにしておけば海に落ちて溶けて無くなりそうなもんだけど、そう思うのは俺が地元と環境に優しくないからなのだろうか。
宙のは半分くらいに減ってしまったが、俺たちはタイミングを揃えてラムネを一口飲みこんだ。口の中を満たすピチピチと泡の弾ける感触を味わいながら、俺は思う。うむ、やっぱ夏のラムネは格別だ――本当はここでゲップと行きたいけども、宙の前だからそれは我慢だ。
「そういえばさ、アッキーはもう描き終わったの?」
宙はラムネの飲み口からちゅぽんと口を離すと、もう道具をしまうばかりになっていた俺の様子を見て尋ねてきた。
「下書きはな。あとは色塗ればいいだけかも」
「おお早いね! どんな風に描いたんだろ」
「それは夏休み明けのお楽しみだな~」
なんて宙には勿体ぶってみたものの、本当は見せたら上手いとも言えなければ下手だと笑うこともできないであろう、中途半端な絵でしかないのだけど。
俺のスケッチブックには、2Bの鉛筆でさらっと描かれた海と岩、そして夕日を実際に見たものよりちょっと上ぐらいに配した、ラフスケッチという言葉すらおこがましい絵がほぼ一発書きで綴られている。
夕日をちょっと上に描いたのは、日没の瞬間なんか描いたら海に反射する部分まで描写しなきゃいけなくて面倒そうだから。くるっと丸い円を描くだけの作業量と比べたら、どちらを描くかなんて決まっているのだ。どうせ誰が検証するわけでもなし、多少の想像で補完したっていいと思うのだ、こんな邪魔くさい宿題なんて。
宙の前で絵を開くのは色んな意味で無理だから、色を着けるのは明日にしよう。夕暮れの浜なんて、小さな頃から数え切れないほど見てきた光景だ。たとえ明日が晴天の青空だろうが雨が土砂降る濁り空だろうが、下書きさえあれば色はどうとでも着けられる。全く我ながら最良の画題を知っているもんだと、この時ばかりはこのへんぴな地元に感謝した。
だからこれからの時間は、宙の言う薄暮というのを見ることだけを目的にしてみようと思いながら、もう1/4しか見えなくなった夕日を俺は特別の感慨もないまま眺めていた。
それにしても薄暮――宙の好きな空……ややこしいけれど、興味はある。一体、どんななのだろう。
「なぁ宙……」
どれくらい待てばいいのか聞こうと宙の方に首を向けて、俺は一気に呆れかえる。俺の横で宙は飲み干したラムネの瓶の口を、顔を夕日よりも真っ赤にしながら全力でひねっていた。
何やってんだこいつ……急に話さなくなったなぁ、なんて心の隅で思っていたらこれだ。
今この瞬間も含めて、何故にこいつに惚れたのかわからなくなる瞬間がままあるけども、惚れてしまったものは仕方ない。愛って悔やまないこと――昔の刑事ドラマの歌で、そんな詩があった気がする。それはその通りで、こいつに惚れたことに悔いは一切ない……はずなんだ、多分。
俺が見ているのに気づいたのか、宙はラムネの瓶を俺に向けて差し出した。
「ね、ね、アッキー、ビー玉取って」
「ああ? この歳でビー玉集めてどうすんだよ」
「いいから取って! ね~ね~」
うーん、周囲の不思議ちゃん扱いに、今なら首肯してしまいそう。
仕方なく俺はラムネの瓶を受け取ると、軽く瓶の口をひねってやった。それだけで、プラスチックで出来た瓶の口は容易く外れて、コロンと中の透明なビー玉があっさりと出てきた。宙は目を丸くして、俺がビー玉を出す様子に雷を打たれたような仰天をしていた。
「えぇ何で!? 私がいくらやってもダメだったのに!!」
「ふっ、知らなかったな? このタイプのラムネは時計回りに回さないと外れないんだよ。お前反時計回りにばっか力入れてんだから開くわけないっての」
「だってぇ、普通フタ開ける時はこっちに回すじゃん」
「だからそこが注意力が足りないと――」
「ああ! アッキー!! 見て見て!!」
俺が朗々と語ろうとした説教は、宙の大声とバシバシと力いっぱい背中を叩いてくるのに見事にかき消された。その上結構背中が痛いときたもんだ。
「はいはい、なにがどうしたって――おぉ」
宙の調子に翻弄されながらその指さす海の彼方に目をやってみたら、自分でも思わず声が漏れてしまった。
空が割れている。いや、この表現はふさわしくないか。もっとちゃんと言えば、空に、色の境界が生まれていたのだ。
既に夕日の落ちた日本海の水平線から上は、未だ鮮烈な朱に。海から少し離れた空は薄焼けに染まり、そこから上は早朝のような薄い青空が見えて、その更に上はディープブルー。それがしばらく続いた先に待っているのは、一番星が輝く夜空だった。
しかもその色の境目が、肉眼でもきれいに見える。まるで、空に平行な直線を引いて線の間をそれぞれの色で塗ったみたいな、くっきりはっきりとした模様が日の暮れた空に見事に描かれていたのだ。虹のような派手さはないけれど、夕闇の仄暗さに夕日の赤が合わさってかえって神秘的に見える。
俺は水平線の先に描かれた色の層に、ぽかんと口を開けて見惚れていた。
「ね! これが薄暮薄暮!! すごいでしょ!?」
「なぁるほど……こいつぁすげぇや」
はしゃいで俺の肩を揺らす宙に、俺も感服して本音の感想を言うしかできない。確かに、これは見ないと青春をやり直したくなるほどの損になる。宙が語る空のことは、信じる価値があるのかもしれなかった。
しばらく二人で何も言わないままそんな空を眺めていたけれど、水平線の赤が薄まるに従って徐々に夜が世界を侵食していって、正味20分弱できっちり描かれた境界は消えて、夜の闇と夏の星が俺たちの頭上を覆ってしまっていた。
「どうでしたでしょうかアッキーさん? 感想をどうぞ」
「うん、宙の言うことは信用することに決めた。空のこと限定で、だけど」
「他のことは信用してなかったの? まぁいいけど」
「誰そ彼」時も過ぎて、近くにいても表情がよくわからなくなってしまっていたが、宙が晴天の太陽を直視したようなまぶしいドヤ顔でこっちを見てきたのは大体わかる。悔しいが、今回ばかりはそんなドヤ顔だって全力で許せるというものだ。これを描きたいといった宙の理由が、確かにわかるぐらい、見ていてきれいな光景だった。
って、宙はこれを描きに来たんだよな? だったら、だ……。
「というか、お前絵描かなくて良かったのか?」
「………あ!」
己が目的を全部終わった後に思い出したのか、宙が頭を抱えて叫ぶ。いや、ほんと何しに来たのこの子…そんなんだから残念な子扱いされるんだっての。
「ばーか」
俺が端的に、かつ的確に宙への感想を一言で要約してやると、
「で、でもちゃんと描けるもん! ばっちり脳内メモリーに保存されてるからね!」
「あっそ。でも俺も夕日じゃなくてこっちの空にしようかな。風景はそのままで」
バカ扱いは流石に怒ったのか、宙は負け惜しみとばかりに自分の目玉を両指で指したのを笑いながら俺は言う。まぁ、確かにあの光景は中々に鮮烈で忘れ難かった。むしろ、俺の絵の題材にしたいくらいだったんだけど、宙は俺の言葉に強い勢いでかぶりを振った。
「アッキーは夕日を描きなよ。というか、描かなきゃダメ」
「どういう意味っすか?」
宙の強い調子で言った言葉の意味がわかりかねて俺は尋ねてみた。
「だってアッキーには太陽が似合ってるよ。太陽の子って感じじゃん」
「……俺のベルトからリボルケインは出てこねぇし、炎をパワーにもできねぇしゲル化もできねぇよ」
宙の答えは抽象的すぎて俺にはやっぱりよくわからなかった。しかもそれ以上のことを宙は言わずに、さっさと帰り支度を始めている。
「もう帰んの?」
「うん、絵は描けなかったけど薄暮の空を見れたから今日はもうオッケー。アッキーとも遊べたし」
暗くなった砂浜には、親子連れの人たちが何組か、花火の袋とバケツを持ってやってくるのが見える。もうじき、ここらは打ち上げ花火のピュンピュン飛んでいく音で騒がしくなる時間だ。
「へぇ、星空とかは見なくていいのか? 今日はきれいに見えてるぞ」
俺は、もう夜と言っていい快晴の空を見上げる。
薄暮の時に見えた一番星は他の星にまぎれてどれだったかわからなくなってしまっていた。でもここは、街灯以外の大した明りがないおかげで星空がきれいに見えるのだ。だからきっと、宙にとってはこの星空も興味の対象なのだろうと思って教えてやったのだけど、宙は星空を見上げながら「う~ん」と薄曇りの顔をしながら小さく唸って、すぐに曲げた首を元に戻した。
「……私さ、夜空ってあんまり興味ないんだよね。面白いけど」
「えっそうなの? 女子って星空とかにロマンを感じる生態なんだと思ってた」
「ん~……私は例外かな。夜空には私の見たいものがないんだよ。覚えておいてね」
「へぇ、覚えておく意味はよくわからんけど……わかった」
俺が素直に頷くと、宙は満足げににっこりと笑ったようで、両手にスケッチブックと絵の具類一式を持った格好のまま、
「じゃあ、お互いの絵は2学期までのお楽しみね! アッキーは夕日、私は薄暮、どっちが好評価もらえるか勝負だ!」
楽しそうにそう言うと、すたこらさっさと自分の家の方向へ走っていってしまった。
その場には、空のラムネの瓶が二本と、俺のスケッチブックが残されているだけ。あ、それともう一つ、宙に取り出すよう頼まれたまま渡しそびれたビー玉が、俺の手にぎゅっと握られていた。というかあいつ、ゴミのポイ捨てはダメとか言っといて瓶は置いてきやがったよ。
「しゃあないな。帰りにゴミ箱に捨ててくか」
独り言を言いつつ指でラムネの瓶を持つ。ビー玉は……捨ててもいいけどせっかく取り出したんだし、もらっとくことにする。また宙に会った時、「ちょうだい」と言われるかもしれないし。
広い砂浜のあちこちから炎色反応(理科で習った)による様々な色の火が光り、香ってくる火薬と煙の匂いを嗅ぎながら、俺も自分の荷物を抱えながら家に帰ることにした。
帰る途中にあった自動販売機のゴミ箱にラムネの瓶を放りこんだ後、まだその手の中にあったビー玉を指先で転がしながら歩いていて、俺はさっきの宙といた時間を思い出していた。
今日の俺は、宙にはどんな風に見えただろうか。自分では、いつもどおりに接したつもりだった。でも本当は、熱い鼓動があいつの隣に座った時からずっと続いていたのだ。夕暮れの気温は適度に心地よいはずだったのに、きっと俺の体温はいつもより高くなっているはずだ。
こんな気持ちは、いつまで続くのだろう。いつかは一時の気の迷い――ということになってまた普通に宙を見られる時が来るのか、それとも時が経つごとに苦しくなって、いつか耐えきれずに爆発する時が来るのだろうか。その答えを、俺は知らない。誰かに教えてもらいたいけれど、そのためにはその誰かに俺の心を打ち明けなければいけないということ。そんな真似、俺には恥ずかしすぎて出来やしない。
俺は左手だけで宿題用の道具一式を持つと、右手でビー玉を宙はあまり好きではないという夜空にかざしてみた。透き通ったビー玉は静かな夜空との境を失くし、触った感覚以外ではその場にあることを認識できなくなっている。
こんな風に、その先のあり様をあけすけに見せることのできる自分だったらどんなに良かったか。そう思えば、自分の心の様を素直に表現できる宙が羨ましく感じる。もしかしたら、俺が宙に恋をしたのはそれが理由なのかもしれないと、今思った。まぁ、残念なポイントは色々あるけども……って、
そう思った途端、俺の足取りは止んでさっきの宙の言ったことを改めて思い出す。
絵で勝負って言ってたけどさ……確かあいつ―――
****
―――俺のあの時の予感は見事に的中して、黒板の薄暮の絵を見ながら俺は一つため息をついた。
そうなのだ。宙は、絵心がない。ダメな意味での「画伯」というヤツだ。
いや、あるいはあの薄暮を絵で表現しようというのが難しい話だったのかもしれない。
あの日帰って自分のスケッチを見ながら思ったのだけど、あの空を表現するのは中学生の画力では無理がある。色使い、境界の表現、全体的な構図、全てが難しすぎた。
だから宙はどうするつもりなのか心配していたら、画面いっぱいにあの空の色を水平に塗るだけ、という俺の予想を光の速さで明後日に向かってダッシュする行為に及んでいやがった。さっすが水沢画伯……俺たちにできないことを平然とやってのけてくれる。
美術室のザワザワした声は次第に笑い声に変わってきて、
「地層だよ地層!」
「意味わかんねぇ」
男子からは容赦のない嘲笑の声が響く。先生が笑い声を静めさせようとするけども、大して迫力のない女性の先生からの注意ぐらいで男子の騒ぎが止むはずもない。
「先生~、地層は風景に入るんですかー?」
バナナが遠足のおやつに入るか聞く調子でクラスのお笑い担当が手を挙げて言うと、美術室は大爆笑に包まれた。
ただ俺は、笑えない。自分の血の気がスッと引いていくのを感じながら、俺は意を決して宙のいるはずの方向に目を向けてみた。そうしたら……、
――あーあ、これはひと雨来るぞ。
宙は、俺の位置からは顔が見えないくらいにうつむいて、肩を震わせていた。その様子に気づいた宙の隣の女子が、気遣って肩に手を置いている。こんな所で泣いてしまえばあれが自分の絵だと自己申告しているようなものだけど、自分の絵を散々馬鹿にされて、それでも平然としていられるほど宙の心は強くない。だから、宙を絵のことでからかうのは幼馴染の俺は絶対にしないと決めたことだった。
本当は、ここで笑っている連中にも「笑うんじゃねぇ!!」と言ってやりたい。でもそれをしたら、せっかくこの騒ぎのせいで宙の様子に気づいている奴が少ないのに、誰がこの絵を描いたのかが完全にわかってしまう。それは、果たして宙のためになるのか俺にはわからず、どうしたらいいか色々考えている時だった。
「はいみんな静かに! 誰かこの絵に感想を言いたい人はいませんか!?」
先生からようやく一喝を受けて、教室の騒ぎは少し収まった。でも「地層に感想も何もねぇよ」なんて声がやっぱり聞こえてきて、またザワッと教室が笑いで騒がしくなる。
「地層じゃねぇよ」
俺はぼそりとつぶやいて、一つの決心をする。元々、一回は言わなければならないのだ。だったら、今言ったって構いやしない。人前での発表なんてすっごい恥ずかしいし苦手だけど、それくらいの勇気なら俺だって……。
俺は緊張しながら、でもしっかりと力強く、右手で挙手をしてやった。
「じゃあ、三瀬君、どうぞ」
このクラス、というかこの学校で一人だけの名字を指名されて、俺は立ち上がる。立ち上がったは良いが……どうしよう、感想を言う決意をしただけで、感想の中身を考えていなかった。
「あ~、あの……自分もこないだ初めて人から教えてもらったんですけど……夕日が落ちた後に『薄暮』っていう時間があって……その時に色んな空の色が、あの……層みたいになって見えるんです……多分その絵だと思うんですけど…………あ~、なんていうか……そういう一瞬しかない空の様子に気づける人って、すごく…………すごいなって思います!」
しどろもどろの上、かなり支離滅裂な感想だけ言って、俺は顔が熱いのを感じながら急いで座る。くそう、カッコ悪い……。
クラス全員が俺の感想を聞いてさっきまでとは違う声色でザワザワ騒ぎだすのを、先生が大きな声を出して止めた。
「薄暮かぁ……良い所に着目しましたね。これはその時の空を描いたものだったんですね。今の感想にあったように、こうした一瞬に気づいて、切り取ろうとするというのは素敵な感性だと思いますよ」
先生がそんな風に俺の感想を補足してくれたのに「そうそう、それそれ」なんて思いながら、俺は美術の教科書にだけ目を向けていた。載っていたモディリアーニの女の絵に「なで肩すぎんだろうが」なんてツッコミを入れつつ、必死に気を紛らわす。宙が今どんな顔をしているかなんて、恥ずかしくて見れるわけがなかった。
****
美術室の騒ぎは俺と先生の感想でしぼんでいき、次に貼られた俺の無難すぎる夕日の絵とそれに返ってきた無難すぎる感想でもって、夏休み明け最初の美術の時間を俺は何とかやり過ごすことができた。
美術の時間が終わって教室移動をしている最中、宙に呼び止められた。
「ア、アッキー!」
その声に俺は今度こそギクリとして、そろそろと振り返った先では、まだ少し目の赤い宙がもじもじしながら教科書で口元を隠しながら俺を見つめていた。
「うん?」
俺はなるべく平静を装って、宙へ体ごと向きあう。
「あの……さっきの絵……褒めてくれて、ありがと」
「……へぇ、あれお前の絵だったのか、知らんかった」
……やっぱり平静ではいられなかったようだ。言ってしまって気づく。
夏休みに宙があの絵を書くと聞いていた以上、同じ題材の絵が二つとない限りあれは宙が書いた絵だと俺にはわかっているんだから、今の理屈は無理があるのだ。
やってしまった失敗の気恥かしさを悟られないように、俺は宙に何も言わせまいと慌てて続く言葉を探す。
「まぁ、俺は正直に感想述べただけだから、別に礼を言われることでもないし。あと、着想を褒めたんであって、絵そのものは褒めてないんだからな」
まぁいつもの俺ならこんな風に言うもんだろう。そしたら、宙もようやく雨雲が晴れてきたようで、
「……そっか。でも……ありがと」
そう言って、目元が細まった。教科書で口は見えないけれど、多分笑っているんだと思う。宙の笑顔が戻ってくれたなら、俺のこっぱずかしい感想もしどろもどろな言動も甲斐があったというものだ。
「…ん。やっぱ『そら』は、曇らない方がいいな」
「え? どういう意味?」
オウ。そこは軽く流してもらえると助かったのに。そんなことを思いながら、俺は視線を彷徨わせて、また言葉を探さなきゃいけなくなった。
「あ、いや……俺はあんまり雨の時の空は好きじゃないからな。空は曇ってないのが一番いい……かな、なんて。薄暮も見れなくなるし。空は透き通ってるのが一番、このビー玉みたいに。あとこれも」
俺は、あの時渡しそびれたままのビー玉と150円をポケットから取り出した。あの日以降、町の中では宙に会えず、学校が始まっても渡すタイミングがわからなくてずっとポケットに忍ばせていたのだ。俺がそれを渡そうとすると、宙は片手で教科書を持ったまま、もう片方の手でそれを受け取って「わぁ」と声を漏らした。
「あの時の持っててくれたんだ……でも、アッキーの言うことはちょっとだけ正解かな」
「ちょっとだけって、どういう意味だ?」
俺が尋ねると、時折視線を逸らしながら向き合っていた宙は、少しの間黙って俺と同じく言葉を探しているようだったけれど、やがて、
「……だってね、知ってる? 空は透き通ってるだけじゃ面白くないの」
そう言って、口元から教科書を外した。ようやく見れた口元はやっぱり笑っていたけれど、その口が一度大きく息を吸って、そして、言った。
「空が色んな色に見えるのは、太陽があるからなんだよ。太陽がなかったら暗い夜空と雲しか見えないもん。太陽が光をくれて、いろんな色をくれるから、空はいろんな色に染まれるの!だから私は、『そら』に本当に必要なのは太陽だと思ってるよ。私、お日さまの光が大好きなの!! 覚えておいてね!!」
雲一つない青空のような笑顔で、でも顔はほんのり夏休みのあの日と似た夕焼けの色をしながら、宙はそんな宣言をして、綿雲が風に吹かれたようにふわりとスカートをひるがえしながら教室へ向かって、俺の横を走り去っていった。
「……へぇ」
誰もいない空間にポツリと漏らした宙の宣言への返答は、本人に知られることもなく廊下でふわふわ彷徨って消えていった。
だから何なんだ。そう言いたくなったけども、宙の抽象的表現も言ってることの不可解さも、俺には経験済みなことだ。とりあえず、宙が笑顔になってくれたからよし。
そう思っていたら、最後に美術室から出てきた同級生の男子と目が合った。うちのクラスの学級委員だ。気まじめな奴で、いつでも移動教室後は机の乱れや忘れ物の点検なんかをしてから出てくる、他の男子とは全然違うタイプの人間だ。さっき宙の絵が笑われていた時も、こいつだけは笑っていなかったはずだ。
そいつは俺に気づいて、「サ・ヴァ」と学校で流行りだした俺よりも発音のいい珍イタリア語で声をかけてきた。まじめな割に冗談は言う奴である。
「なぁ、さっきの絵、よくわかったな」
「ん? まぁ……何となくそれっぽいかなって」
「ふーん。にしても、『地層』はひどすぎだけど、水沢の絵も中々に前衛的だよな。一周回って才能を感じる」
「! 宙のだってわかってたのか!?」
俺が驚くと、そいつは笑って教科書でパタパタと否定のポーズをとる。
「いやいや、正確には授業中の水沢の様子でな。地層だって言われて泣きそうになってたし、お前に褒められたらすごい嬉しそうな顔してたし。ってか、お前こそわかってたのか?」
「い、いや……ほんと何となく」
「……ふーん」
一言聞いただけなのに俺の心中まで全部察したような、少し含んだ笑いを浮かべながら、ふと視線を斜め上に向けて思考を変える素振りをした。
「さて、次の時間は理科だな。チャイム前に理科室行かないと先生に殺されるから早く行こうか、晃」
「了解~」
名前を呼ばれて促されるまま、俺はそいつと一緒に一旦教科書を置きに教室に戻ろうとした。でも、はたとさっきの宙の言葉が引っかかってきた。
あれ、さっきのって……いや、流石に考えすぎだよな……だけど……いやいや、自意識過剰すぎるだろそれは……でも、ひょっとして…………。
体がカァッと熱くなるのを感じて俺が立ち止まると、一緒に歩いていた学級委員が不思議そうにこっちを見てきた。
「どうした、体調悪いのか?」
「い、いや……何でもない……」
「そっか? でも顔めっちゃ真っ赤だぞ」
「…………」
うん、それは俺も今そうだろうと思っていた所だよ。でも客観的に指摘されたら、もっと意識して体が火照るのを感じてしまった。
というか、ヤバい。今の俺の体、太陽並に熱いかもしれない。
―了―