第1話 オークなんかに絶対負けたりしないんだからね!
「はっ、はっ、はっ、はっ!」
森の中を一人の少女が走っている。その姿はパソコンの中に表示されていたサクヤと名づけられた少女と寸分違わず、その少女が現実としか思えない世界を必死に走っていた。
少女の口からは愛らしい声と呼吸音が漏れ出し、その表情は必死という言葉がピッタリ当てはまるものになっていた。
その少女、サクヤは少し前の事を思い出す。自分は妙なゲームを遊ぼうとしていた。しかし、やっと冒険が始まると思った瞬間意識を失い、目が覚めると見慣れない森の泉の近くに倒れていた。
突然の状況に混乱するも、まず最初に気になったのは全身が軽い気がするのになぜか胸の部分だけが重く感じるという違和感だった。
もしかすると、いやそんな訳がないと思いながら近くの泉を覗き込むと、本来自分の顔があるべき場所に自分の理想の女の子として設定したサクヤが存在していた。
自分はサクヤになってしまった。現実的に考えてありえないとは思ったが、実際にそうなっているのだから否定する事は無駄で、どうしてそうなったのか考えようと思った時、後方からの物音に気が付いた。
「クソッ、んはっ、はっ」
物音の主を確認した瞬間、サクヤは考える事を放棄し走り出した。そして現在、サクヤは物音の主からの逃走を続けていた。
「グヒッ、ギジュルヒッ、ブヒッ」
汚い音を立てているのはサクヤではない、後方からサクヤを追いかけてくる物音の主だった。
「ブヒュッ、ブヒッ、ジュルュル」
物音の主はオークと呼ばれる生物で、とあるゲームで知識を得たサクヤも、見た瞬間それがオークだと認識していた。
ブタとイノシシを合わせたような顔に2メートルはある緑色の巨体。力士の様に脂肪と筋肉が融合した、逞しい肉体。衣服は腰に巻きつけた布のみで右手には木製の棍棒を持っている。
そんな生物がよだれを垂れ流し、息を荒々しくさせ、股間の物体を成人男性の腕くらい大きくして、短距離ランナー並みの猛スピードで追いかけてくるのだ。
それは最早恐怖でしかない。
「クソッ、何が速度特化だっ……、オークと同じ速度じゃねぇか……」
実際には元の身体よりも早くなっているのだが、慣れない身体と慣れない森の道無き道のせいで思うように走れない。
「ブジュル、ブヒィッ」
それに比べオークは洗練された動きで減速することなく追いかけてくる。もしここが平地であったならサクヤが有利だったかもしれないが、森の中ではオークに分があった。
「ちゃんとしたチュートリアルくらい……はぁ、用意しろよ」
ここにはいない誰かに不満を告げながら、サクヤはこの状況をどう打開するか考え、何か武器になりそうなものは無いかと周囲を見回した時、あることを思い出す。
「あの設定がそのまま反映されてるなら……、使えるはずだ」
パソコンの画面に表示されていた様々な項目を思い出しながら、その中の一つ、武器に関する項目に書かれていた言葉を口にする。
「形成っ!」
その言葉と共に右手の握り拳へ黒い粒子が集まっていき、剣の形に変わっていく。
「人造神剣、グランエグゼ!」
言葉と共に現れたのは一振りの剣だった。グランエグゼはバスタードソードに分類される形で、柄の部分は拳三個分ほどあり刃の身幅は太く、剣身を合わせた全長は140cmほどある。そして、鍔の部分は十字架を模している様な形をしており、ロボットの装甲を思わせる作りをしていた。色合いは柄の部分と鍔の中心部は黒と赤で構成されているのだが、柄より上は基本白銀と呼べるような色をしていた。
「かっこいい!」
サクヤがまず感じたことはそれだった。鉄パイプを聖剣と呼んで振り回していた頃の記憶がよみがえり気分が高揚してくる。
グランエグゼはさくやの所持品軽量化の効果が効いているのか、重さも鉄パイプと同じ程度で、サクヤは問題なく使えると思い、自分を追いかけてくるオークの頭に向けてグランエグゼを叩き付けた。
「よしっ!」
グランエグゼは見事にオークの頭部に命中し、サクヤの頭の中にはオークの頭が千切れ飛ぶ映像が再生されていた。しかし実際にはオークの頭に少し食い込む程度でグランエグゼは止まっていた。
その光景にサクヤは呆然とする。
「グヒッ……」
オークは気まずそうに頬をぽりぽりと掻き、そのまま無造作にグランエグゼの刃を力強く掴んだ。
普通に掴んでいた。
「えっ?」
オークの力は強く、簡単に剣を奪われ放り投げられる。その間サクヤはただその光景を見ているだけだった。
「ギュヒヒッ」
オークはサクヤに向き直ると、やっとご馳走にありつける喜びに満ち溢れたような顔でサクヤに手を伸ばしてくる。
「うおぉぉぉぉぉ!」
その顔に生理的嫌悪感を覚えたサクヤは正気に戻り走り出した。
「融合!」
走りながら発せられたその一言で、地面に放り投げられていたグランエグゼは黒い粒子に戻り、サクヤの体に吸い込まれていく。
「形成!」
サクヤはグランエグゼをもう一度顕現させて、本来相手を切断するための部分、刃先に指で恐る恐る触れてみた。刃先のはずの部分は滑らかで、まるで陶器を触っているかのようにつるつるしていた。
「ただの鉄板じゃねーか!」
グランエグゼは刃先が付いていない切れ味ゼロの剣だった。それでも重量と腕力が合わされば鈍器になったかもしれないが、所持品軽量化が原因で重量が足りず、速度特化が原因で腕力も足りなかった。
オークがどれほど頑丈かはわからないが、もしかすると丸めたポスターで殴った程度のダメージしか与えられていないのかもしれない。
「何が対神兵装だよ、他の相手には鉄パイプみたいなもんじゃねーか!」
サクヤは一転突破型にしても限度があるし、こういう装備は神殿にでも飾っておいて後半手に入れられる様にするべきだと思った。
「グヒヒャッ」
アホな事をしたせいでオークとの距離は一気に縮まり、やっと捕まえられる喜びで満面の笑みになったオークは、サクヤを見つめ手をわきわきとさせている。
サクヤは自分がオークを知るきっかけになったゲームに出て来た女騎士の事を思い出し、自分も同じようにされてしまうと想像した。本来なら恐怖するところなのだが、自分の見た目が理想の女の子になってしまっているせいで少し興奮してしまう。
頭を振って妄想を消そうとするサクヤだが、体の芯が熱くなっているような感覚になり、妄想が勝手に湧き上がってくる。その事によりサクヤは自分がオークに襲われることを期待しているのではないかと思い始めていた。
「違う、俺はオークなんかに絶対屈したりしない!」
そんなセリフを叫びながらサクヤは妄想を振り払いどうするべきか考える。武器は切れ味ゼロの剣のみ、魔法は使えず攻撃系の能力も無い。正面からの戦いではオークに勝てず、逃げることも不可能だ。
もう、誰かが助けに来てくれる事を祈るしかないと思い始めた時、左前方に太い幹の木を発見した。その木にある窪みを見た瞬間、これしかないと思いサクヤは木の方へ向かっていった。
「ギヒッ」
オークも当然サクヤを追いかけていく。サクヤは目標の木にたどり着くと木の幹に背中を押し付け、オークの方に向き直った。それを見たオークはサクヤが観念したのだと思い、その体を貪るために跳びかかる。
オークの巨体で木にもたれかかるサクヤに跳びかかったら、目的を果たす前にサクヤが潰れてしまうだろうが、散々焦らされて興奮が頂点に達したオークにはそんな事を考える理性は残っていなかった。しかし、これはサクヤにとって好都合だった。
オークが目前に迫った状態で、サクヤは不安と共にある言葉を口にする。
「思考加速」
そのとき、世界の全てが減速した。正確にはサクヤの思考速度が加速して時間の流れの感じ方が変わっただけだが、とにかく周囲の速度は通常の十分の一程度になり、オークの巨体がゆっくりサクヤに迫っていった。
サクヤは思考加速が問題なく発動したのを確認すると、剣身を握って背中に隠していたグランエグゼを木の窪みに押し当て、切先をオークの方向に向ける。
自分の体も遅くなっているせいでもどかしく感じるさくやだったが、オークに跳びかかられる前にグランエグゼの切先はオークの腹部に向けられ、ゆっくりとオークの体がグランエグゼに突き刺さっていく。
サクヤはグランエグゼが5cm程刺さったのを確認するとグランエグゼから手を離し、その場から飛び退いた。その瞬間、思考加速の効果が無くなる。
「うわっ」
突然通常速度に戻ったせいで体勢を崩して転んでしまうが、大した怪我も無くすぐに起き上がりオークの方へ振り向いた。
「ブッブベボッブビャッブッブビィィィブヒュ!」
サクヤの視線の先でオークは腹と背中からグランエグゼを生やして意味のない言葉を発していた。作戦は成功したのだ。
サクヤは切れ味ゼロのグランエグゼでも切先が尖っているならば突き刺す事は可能だとは思ったが、自分の腕力では難しいと考えていた。しかし、木の窪みを見て、オークの勢いを利用すれば良いと思いついたのだ。
グランエグゼには永久不変という絶対に壊れない能力があるため、手荒に扱っても壊れる心配はないし、思考加速が発動するなら間に合うはずという考えだった。
実際には思考加速の速度や発動時間によっては間に合わなかったし、そもそもオークがゆっくり歩いてきたら絶望するのはサクヤの方だった訳だが、その事に気が付くのはしばらく後の事だった。
「ガッガギ、ブヒュッブヒ」
オークは声を絞り出しながらサクヤを睨んでいた。オークの生命力はサクヤの予想以上で、グランエグゼが突き刺さっている状態でも二本の足で立ち、ゆっくりとこちらに歩いてくる。サクヤはその姿を見て短く悲鳴をあげるが、すぐに周囲を見回し、オークが落とした棍棒を見つけ拾い上げる。
棍棒は重そうだったが所持品軽量化の効果からか、木刀程度の重さしか感じなかった。
「もう、終わってくれよ!」
棍棒を拾ったサクヤはオークの横に回りこみ、棍棒をオークの腹部に刺さっているグランエグゼに叩き付けた。オークの肉体からはグチャリという耳障りな音が響き、緑色の血液が傷口から噴出す。声にならないような絶叫をあげながらも、それでもなお倒れないオークにサクヤは攻撃を続ける。
何度目かの攻撃を受けたオークは糸の切れた人形の様に両膝を地面につき、自らの血液で出来た血だまりに倒れこんだ。サクヤは飛び跳ねる血液を避けるために距離を取り、その様子を眺めていた。
オークが死んだことを信じられないサクヤは倒れたオークをしばらく見つめ、グランエグゼを体内に戻したり、棍棒でつっついたりして反応がないかじっくりと確認した。
「勝った……」
サクヤはやっとオークの死を認識し、近くの木を背にして座り込む。精神的にはかなり疲れたのだが、肉体的疲労は思ったほどではなく、少し休むと疲れはなくなっていた。サクヤはその事を不思議に思いながらも、やっと自分の状況を落ち着いて考えられる事に安堵した。