センチメンタル
駅構内の改札口。家路を急ぐサラリーマンらの喧騒もほとんど耳に入らなかった。目の前のアオイの姿に見入っていたからだ。キャメル色のダッフルコートに身を包んだアオイからは愛くるしさを全身から発しているように思えた。
話始めると帰宅を促す言葉を言い出してしまいそうで、しゃべるのを僕が躊躇していると、先にアオイが口を開いた。
「今日のデート、とっても楽しかったよ。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうな。家まで送ろうか?」
「ううん。シュン、明日は大事な試験でしょ?今日はここまでで大丈夫だよ」
「気を遣わせちゃってごめんね。帰り道、気を付けて帰るんだよ」
「家に着いたら連絡するね。あ、このマフラー貸してくれてありがとう。とても温かくて、助かったよ」
そう言うと、彼女は僕の首にマフラーを巻いてくれた。
「なんか少しくすぐったいな」
僕は照れ隠しで鼻をすする。
「ふふふ。…それじゃあ」
「うん…。バイバイ」
僕は名残惜しげに、それでも控えめにアオイと言葉を交わし、別れを言った。次に会うまで二人の電池が切れぬよう、しっかり充電できただろうか、アオイの後ろ姿を見ながら僕は不安になる。
すると、人の流れに沿って改札を出たアオイがこちらを向いて立ち止まり、手を振ってくれた。口の動きを見ると「じゃあね」と言っているようだった。
遠目にアオイの笑顔を見たとき、今日一日がとても幸せだったことを覚え、それがビールの泡みたいに身体から溢れそうになるのが自分でも分かった。こちらも小さく手を振ってそれに応える。アオイは再び振り返ると、正面の出口から帰っていった。彼女の笑顔でホッとしたが、姿が見えなくなり、その場に自分一人になってからは、少し寒さが増した気がした。
アオイと知り合ったのは6ヶ月前。僕は就活全線の真っ只中で、履歴書やエントリーシートの作成のため忙しく、よく大学の図書館に通っていた。ほぼ毎日、同じ時間、同じ席で履歴書とにらめっこしていると、窓際に、ほぼ毎日、同じ時間、同じ席に座る女性がいることに気付いた。知的そうで、ショートカットで、清楚風な風貌だと知ると、気付いたときには『隣空いてますか?』と声を掛けていた。周りの席はがらがらだった。
それが二人が交際するきっかけである。今になって、大きな冒険をしたもんだなと我ながら思う。二人の仲は順調だったが、浮かれているのはいつもこちらで、アオイは冷静に且つ優しく僕をたしなめた。でも、僕の彼女への気持ちは高ぶるばかりで、楽しい日々を送れている。
今日はアオイの友人の出産祝いを買いにデパートに出掛けていた。
自宅最寄りの駅に引き返すため、上り線のホームから電車に乗車する。人の数は疎らで、なんなくシートに座ることができた。
斜め向かいにはうたた寝しているOLとスマホをいじる学生、車両の隅では老人がかじかんだ手を擦り合わせていた。電車はゆっくりと動きだし、窓の外の風景が夕刻の海に溶けながら流れてゆく。
さっきアオイと乗った下りの電車では、ずっと話しっぱなしだったので、街並みに気付かなかったが、今はそのせいで余計に孤独を感じてしまう。窓から見える街と空は夜に染まりつつあり、彼方にオレンジ色が減衰していくのが見えた。
先程、アオイと別れたばかりであり、頭の内側の大半は彼女で満たされていた。勿論、明日の試験のことなんて脳裏に浮かぶはずもない。今日は何故だか彼女の言動が残り香になって強く自分の記憶と結びついていた。『ありがとう』『じゃあね』といった雪のように儚い言葉や、髪を耳に掛ける仕草から、隣席に彼女の姿を鮮明に映し出せるほどだ。それを眺めれば眺めるほど口角が緩んでしまいそうになった。その写像に手に触れたいという願望から、彼女の手の温もりを右手に再現するも、上手くいかない。思い出そうにも出来ない、そのもどかしさが会いたい気持ちを沸騰させるが、同時に虚空を手探る感覚に陥った。
電車が駅に停車して、人と一緒に冷たい空気が乗車してくる。車外は既に黒い空に沈んでいても、多数の街灯が人の存在を示してくれた。電車は一定の心地よいリズムと揺れで、僕らを目的地まで運んでくれる。
アオイは今どのような気持ちで夜を歩いているのだろう。僕はこんなにも彼女のことで胸が満たされてしまっていて、少し大袈裟とも感じるくらいだ。でも、もし君も同じ気持ちだったら、この上なく嬉しいのに。それこそ、天にまで召されそうな、月まで泳いでいけそうな、そんな痛々しい22歳が恥ずかしくもあったり。ほんとは、改札でアオイが手を振ってくれたときも、改札を飛び越えて君を強く抱き締めたかった。でも、そんな度胸もないことなんて自分が一番知っている。
車掌が車内放送で最寄り駅の名前を告げる。ドアが開いたとき、冬の風に頬や手をつつかれて、自然と肩に力が入った。
改札の外には待ち合わせをしている人や学生の集団などでごった返していた。改札を出ると人の波が押し寄せる。荒波の海をボートで渡る気分だ。今の自分の心細さでは、波に押し潰されそうになる。僕は足早に雑踏を抜け、西出口から駅外に出た。正面に浮かんだ輝く半月を見上げて、少し安心した。
駅を出てから5分ほど歩くと、すれ違う人や車は一気に減って、月だけが自分を見下ろしている。すると、ポケットに忍ばせた、年季の入った音楽プレーヤーがいい選曲をしてくれた。今はあまり見かけないが、5年ほど前に売れてた男性歌手の恋愛ソングだ。どこか青年のような青臭さの残る歌声、切ない歌詞とメロディーが、今の僕の気持ちとリンクする。全身でセンチメンタルを感じ、曲が終わるまで聞き入っていた。
冬の夜では、寒さが身体に堪え、身震いしてしまう。マフラーを鼻に掛けたとき、アオイの香りがほのかにした。それだけでドキッとしたが、余計にマフラーに潜り込んでしまいたくなる。
寒さにさえ愛しさを感じてしまうあたり、僕はどうやらアオイの影に浸りすぎてるようだ。そうやって彼女を思い出しては、物思いに更けてしまう。君と出会ってから今になって、僕は心の居所がどこにあるのかを分かった気がした。僕からアオイへ、またアオイから僕へ、心から溢れた蜜を相手の心へ滴らす。全てを分かち合うことは難しくとも、互いが相手を響かせているのではなかろうか。その音を奏でているのは世界に僕ら二人であって、唯一無二であることを強く感じた。アオイによって輝き、彩られた自分の心が彼女自身にも届いて欲しかったが、愛ですぎて僕は胸が少し痛くて、涙が零れそうだった。
家まではあと少しの道のり。アオイからそろそろメールが来る頃だろう。僕はスマホを握りしめ、ただいまの言葉を待ちわびた。可憐な薫りが冬の冷たい空気にそっと溶け、宙を舞っていくのが見えた気がした。