真夏の一夜のホラー。~Returns~
「行ってらっしゃませ。このダーリン野郎」
妻の楓が俺を送り出す。
相も変わらず変わった嫁だ。
俺は苦笑しながらアパートの自宅を出る。
楓と結婚してから早二年。
念願の子供が今、彼女のお腹の中にいる。
絶対に幸せにしてみせる。
これから生まれてくるこの子と楓の事を、絶対に――。
◇
残業がようやく終わり帰路に立つ。
最近は真っ直ぐ家に戻ることが多くなった。
もうそろそろこの夜勤も日勤に変更になる。
俺の為に朝夜逆転の生活を楓もしてくれている。
別に俺に合わせることなんて無いのだが、そうしたいと彼女は笑顔で言ってくれた。
お腹の子には悪影響だからと俺が言っても彼女は聞かない。
『私たちが幸せでないと、きっとこの子も幸せだと思ってくれない』。
これが最近の彼女の口癖だ。
「……あれ?」
ふと人の気配を感じて振り返る。
しかしそこには誰もいない。
「……?」
時刻は正午を指したばかり。
人の往来もまばらな時刻。
気のせいかと感じたが、ふと肩に何かごみの様なものが付いていることに気が付く。
「……髪の毛……」
それは長く黒々とした女性の髪の毛の様だった。
どこで付いたのだろう。
うちの部署には女性社員はいないし、楓はこんなに髪は長くは無い。
さして気にもせず俺は、その髪を払う。
「……!」
また誰かの気配を感じ振り向く。
しかしそこには昼下がりの午後と通行人が暇そうに歩いているだけの光景が目に映る。
少し気分の悪くなった俺は近くの喫茶店へと入店する。
珈琲でも飲めば気分も落ち着くだろう。
きっと疲れているのだ。
夜勤で残業続きだったから、神経が過敏になっているに違いない。
◇
一番奥の席に座り、タバコに火を点ける。
当然家では吸わない。
楓はタバコの匂いが嫌いだし、何よりお腹の子に障る。
ウエイトレスが珈琲を用意してくれる。
香ばしい香りが鼻腔を擽り、俺は少し気分を持ち直した。
テーブルに置かれた珈琲カップ。
しかし何かがそこに浮いていた。
「ひっ……!」
黒い、長いもの。
先程と同じぐらいの長さの、黒い髪――。
慌てたウエイトレスは俺に謝罪し、別の珈琲を用意する為に奥へと戻って行く。
今日は一体なんなのだろう。
何故か焦りを感じた俺は、代えの珈琲を待つことなく店を後にする。
扉を閉める瞬間、何かが引っ掛かった気がした。
手元のノブに視線を落とすと、そこには長い黒い髪の毛が絡まっていた。
「な、んなんだよっ……!」
驚き叫んだ俺は、そのまま喫茶店を逃げる様に去って行く。
そして先程から感じる視線。
誰かが俺を監視している?
何故?
息を切らしながら自宅近くの公園へと駆け込み、水飲み場を発見する。
カラカラに乾いた喉を潤し、少し落ち着いて考えたい。
蛇口を捻った瞬間、出てきたのは水では無かった。
黒ずんだ何か。
大量の、長い髪の毛――。
俺は半狂乱になり叫び出す。
そして尻餅を付いた瞬間、背後に気配を感じ振り向く。
――そして何かで後頭部を殴打され、気を失ってしまった。
◇
「ん……」
目を覚ます。
鈍い痛みを感じ、後頭部を擦る。
いや、擦ろうとしても腕が思うように動かない。
俺は椅子に拘束されている?
何故だ?
どうして俺は――?
『お帰りなさい、あなた……』
くぐもった声が聞こえ、喉の奥で悲鳴ともつかない声を漏らす。
薄暗い室内に徐々に目が慣れ、そこに立っているのが髪の長い女だと気付く。
俺はキッチン脇に置かれている椅子に拘束されていた。
女は料理をしている様だった。
トントン、と小気味の良い音がキッチンに広がる。
俺は恐怖のあまり声が出せないでいた。
女は振り向き、俺に声を掛けてくる。
『ただいまも、言えないの? せっかくあなたの為に料理を用意したのに……』
女の手元に視線を移す。
錆びた包丁で何かを力いっぱい切断している。
俺は声にならない声で、叫び出していた。
そこには一本の腕があった。
その薬指には俺が楓に買ってやった結婚指輪が――。
『もうそろそろ煮えたかしら』
女はそのまま火の点いた大きな鍋へと近付いていく。
蓋を開けた瞬間、香ばしい匂いが俺の鼻腔を擽った。
しかしお玉で掬ったその先にあったものは――。
『憎たらしい餓鬼がふざけんじゃねぇよ寝取った男の間に出来た餓鬼なんざ料理の出汁にすらならないねぇあの女の腕なんてどう料理したって食えやしないよ人の男寝取りやがって泥棒猫がクソ女がふざけんじゃねぇああ腹が立つ殺しても殺しても収まらないお帰りなさいねぇあなた料理にしますかお風呂にしますかそれとも私にしますか私ですよね私だよな私に決まってるだろ答えろよ私だろう』
そして俺は――。
「っていう夢を見たから会社辞めてきちゃった。てへ♪」
「おい」
ごめんなさい。