日常①
目が覚めると、見慣れた風景が目の前に広がる。
天井にジュースをこぼしたように広がる茶黒い斑点達を背に、年季の入ったペンダントライトの紐スイッチにぶら下がるカメのキーホルダーが少し揺れていた。
どうやら早く起きてしまったらしい。
目覚まし時計のアラームをオフにして、布団から勢い良く飛び出す。
カーテンを開けると、目の前いっぱいに青空が広がる。
カラッとした天候で、垣根の近くに気だるそうに歩く年寄りの姿が見えた。
今日も熱くなりそうだ。
セミがけたたましく鳴くのを聞きながら、僕は着替え始めた。
鍵をしめたことを確認して、ボロアパートの階段を降りる。
アパートの横にある花壇にはもう影が指していて、朝顔の花は少しうなだれていた。
土が湿っていたことから、管理人さんはいつもどおり水やりをしたのであろう。
紫と白が入ったしなびている花弁は、夏の昼間の生気あふれるイメージとは対照的だった。夏に咲かせる花なのに、朝にしか咲かない朝顔という花に僕ははかなさを感じる。
日向にでると、肌を焦がす勢いで日差しが照りつけてきた。じわりと汗がにじみ出て、衣服にまとわりつくのがわかる。
「どうしよう、もう一回シャワーを浴びてこようかな」
冗談めかしに独り言で笑ってみるが、そんなことをしている暇も無いのでそのまま待ち合わせ場所に向かうことにした。
「おまたせ~!」
噴水が湧きたつ噴水の前で座ること約5分、彼女は元気な声と共に現れた。
「ごめん~、待った?」
「いや、全然。それよりもこんな熱い中走ってきて大丈夫?」
「ううん、案外家から近いから平気!」
「少し木陰で休んでから行こうか」
「ううん、時間がもったいないし、早く行こうよ!」
彼女は僕の腕を抱いて引き連れていくように前進する。
僕は少しこっ恥ずかしさを感じながらもまんざらでなく、そのまま彼女に連れられて歩くことにした。
着いた先は近辺でも大規模のショピングモールだった。
ファッションショップ、雑貨屋、飲食店のみならず、スポーツができるゲームセンターや映画館なども設置されているアウトレットモールとして、県外からくる客も多数いる。
モールの中は、真夏の気温に耐え切れず、涼しい屋内へと逃げてきた客で混みきっていた。
ひと通りモールの中を回った後、中庭の噴水が見れる小奇麗な喫茶店で足を休めていた。
「ん~、おいし~! やっぱ熱い日には冷たいものよね!」
彼女は汗をかいたアイスコーヒーの入ったグラスを持って、思いっきり破顔する。
注文時にストローがついてきたのだが、彼女はそれを使わず片手でグラスを持って、直接コップに口をつけて飲む様子がいかにもおおざっぱな彼女らしい。
「えーっと、姉ちゃん。次はどこへ行こうか」
「あーっ! またそんな呼び方してる! ”夏希”って呼んでっていったじゃん」
「ご、ごめん」
頬をふくらませて、諌めてくる彼女に戸惑ってしまうと、さっきまでの不機嫌そうな顔が一瞬でかき消されて、彼女の表情に笑顔が戻った。
「もう、裕樹って本当に女心わからない鈍感さんだよね~」
「う、うるさいな。いいじゃんか、姉ちゃんは姉ちゃんなんだし」
「名前の呼び方だけでも、女の子はいろいろ考えちゃうのよ。それに何時まで経っても”姉ちゃん”だなんて。私達もういい年なんだから」
「ご、ごめん……」
「あらあら、すねちゃって。弟くんはかわいいなあ」
そっぽを向いた僕をおかしがるように、彼女はほっぺをぷにぷにと触ってくる。
少し恥ずかしいけど嫌な気分はなく、僕はそのまま抵抗もせずに、彼女の指先を感じる。
彼女の指の腹は湿ったスポンジのように柔らかくて、僕の頬に吸い付いてくるようだった。
無言になる僕を見た彼女の目は、小悪魔のようないたずらをしようとするものから、本当の弟を柔らかく見守るようなものへと変わっていた。
目尻を緩ませて、目を細める彼女には、母性があふれているようだった。
「裕樹」
「……なに?」
「お姉ちゃんはね、裕樹と一緒にいれて、幸せだよ」
「……」
「こら。恥ずかしいこと言ってんだから、なんか裕樹も反応しなさいよ」
「……ょ」
「ん?」
「――ずるいよ、こんなときには姉ちゃんヅラするなんて」
会話が止まる。
僕は言ってから後悔した。
こんな休日にするために、彼女と一緒にいたわけじゃないのに。
「――ごめんね」
「――え?」
「お姉ちゃん、バカだからさ。裕樹の気持ち、全然知らなかった」
「姉ちゃん……」
「裕樹が病気で大変だった時、そばにいなきゃいけなかった。なのに私は裕樹から逃げてしまった。――でも」
彼女は少し間を開けると、決心したのか、再び口を開く。
「私は、ずっと、裕樹のことが好きだったよ」
言葉が出なかった。
彼女は真っ直ぐに僕を見つめている。
口をへの字に曲げて「どうだ、言ってやったぞ」と言わんばかりに、顔を強ばらせていた。
「私は、ずっと、裕樹のことが好きだった。小学生の頃から思ってた。この胸のドキドキはなんだろうって。裕樹と一緒にいると、胸がいたいほど張り裂けそうで、でもどこか暖かくて――」
彼女は自分の胸に手をそっと置く。
恥ずかしくなったのか顔を俯けるが、それでも言葉を紡ぎ続ける。
「病気になってから、私、自分の居場所がわからなくなった。苦しむ裕樹を見て、私はどうすればいいのかわからなくなった。私があなたに近づけば近づくほど、あなたを苦しませてしまうと思ってしまっってた」
そのまま自分の心情を言い続ける彼女の頬にはいつのまにかとめどなく涙が流れていた。
嗚咽しながらも、僕に最後まで言葉を届けようとする彼女を見て、心が震えてしまう。
僕がずっと好きだった人――そんな人が僕を好きだ、と涙を流しながら言っているのだから。
「私、無理だと思ってた……っ、だって、だって……あなたには、いつも、あの子がいて、きっと、あなたは――」
それ以上聞くのがつらかった。
彼女の何年もの想いが、僕の心にひたむきに伝わってくるからだ。
こんなにも想ってくれたことで、彼女はこんなにも苦しんでいたことがわかっていたからだ。
彼女の口から綴られる悲しみの連鎖を、僕は唇で塞ぐ。
「――ンッ!?。はっ、んんぅっ……」
僕は今、昔から好きだった人とキスをしている。
憧れだった存在、僕に恋を教えてくれた人とキスをしている。
「はっ、んっ。……はむぅ……」
彼女はそれを許容したのか、舌を絡ませてくる。
呼吸するごとに感じる口と口の間の空気は、生暖かく僕達の頬をかすめ合う。
「んんっ……。ちゅっ……」
彼女は顔を少し上に傾けると、僕の上唇をついばむように求めてくる。
額がぶつかり合い、今まで閉じていたまぶたを開く。
すると彼女の潤みを帯びた瞳と目が合ってしまう。
長い下まつげから雫が落ちる。
互いの息遣いを聞きながら惚けた彼女の顔にはもう悲しみの表情がなかった。
「――ねぇ?」
「ん?」
「恥ずかしいから、もう出ちゃおうか」
「いや~、裕樹も大胆になったねぇ!」
高らかに笑う彼女を先頭にして、僕達は帰路についていた。
「いきなり立ち上がった時は本当にびっくりしちゃった。んで、そのままツカツカ黙って私の座席まで来るんだもん」
「う、うるさいな。いいじゃんか。姉ちゃんも僕のこと好きだったんだから」
彼女は足を止め、夕日を背に僕の方へ振り向く。
「ん~、まぁ、嬉しかったのは事実だけどね。あと”姉ちゃん”、き・ん・し♪」
僕に指を指す彼女は楽しそうに微笑む。
やっと僕は幸せになれたんだ。
神様なんて信じてはいなかった。
だけど今なら少し信じられる気がする。
「――ねぇ」
静かだけど、僕を包み込んでくれるような優しい声。
それだけで胸いっぱいに幸せが詰め込まれそうなほど心地良い声に、僕は彼女の方を見る。
「私、本当に、幸せだよ……」