夏の夜の残滓
「いよいよ明日だね」
ベッドの傍らに座っていた女性がおもむろに口を開いた。
清潔な純白のシーツに映える彼女の長い黒髪に僕は思わず息を飲んでしまう。彼女の頭皮から腰以上にまで伸びているつやつやの髪は、彼女が少し身じろぎするたびにまるで束ねた絹のようにベッドシーツの上を滑っていた。
「ねぇ、怖い?」
「なにが?」
「今日の手術」
「別に失敗したって、命に別状はないんだろ? 何が怖いんだよ。 別に期待してないよ」
「……ごめんね」
「なんであやまんの? 本当、意味わからん」
冷たく突き放し、彼女から目をそむけると、それっきり彼女は言葉を発さなくなった。
彼女が言葉を紡ぐごとに、僕は苛立ちを覚えていた。それは彼女の言動そのものに対してではなく、自暴自棄になっている自分の醜さと不甲斐なさを込めたものだった。
今まで藁をも掴む思いで必死に努力してきた。頑張ってきた。でももう遅すぎたのかもしれない。
僕はつかれていた。肉体的にも精神的にも僕はボロボロだった。
周りの人間にはあざ笑われ、時には同情され、でも結局は他人の振りをされ、僕を裏切り続けていた存在でしかなかった。
僕はなにも悪いことをしていない。
僕はなにも悪いことをしていない。
それなのに神様は僕の総身を鉛と化したような醜い肉達磨に仕立てあげたのだ。
親からは見放され、友達といえる人物もいなくなり、あげくの果てに自分一人ではトイレにすらも行けなくなったこの身体は、もう誰にも必要とされないただの社会の廃棄物でしかないのだ。
昔、ある映画を見たことをふと思い出す。
その映画の主人公は戦争の空爆によって自身の五体を無くし、さらに聴覚と視覚を失った。何も見えない、何も聞こえない永遠の闇の中をふわふわと浮いているような感覚の中、彼はその閉ざされた世界での孤独に耐え切れず、死にたいと願った。そしてその意図に気付いた彼の看護婦は、彼につながっていた様々な延命装置を停止させ、静かに彼を葬ったのだ。
素晴らしい話ではないか、彼の死の懇願は人々に受け入れられたのだから。
それに比べて僕は自分で死ぬことも出来ないし、殺してくれる人もいないのだ。
そして僕にとって見える世界、聞こえる世界は地獄だ。
この病院の一室から見える小鳥たちの踊り、近くの団地公園から聞こえる子どもたちの遊び声、見えるものすべて、聞こえるものすべてが羨望、妬み、底なしの絶望と化すのだ。
世界を感じてしまうから、より一層僕は押しつぶされそうになる。
僕は世界を拒絶するように目を閉じる。これで視界からの情報を遮断できる。
しかし棒のように動かない両腕は耳を塞いではくれない。
少し空いた窓から街の動き出す音が風と共に流れ込んでくる音――会話・雑踏・生活音などの街が動き出す様々な喧噪が耳殻にこびりつく勢いで、僕から離れてくれようとしない。
それは僕の中で負の感情にとめどなく変換されていき、その様々な激情がけたり狂いぐちゃぐちゃに合わさりあい、頭の中で暴れるのだ。
まるで媒介を通さずそのまま流れ込んでくるように、負の感情はあっという間に僕を支配するのだ。
「ねぇ」
彼女の弱々しい呼びかけは、病室の静寂とあらゆる激情の渾然となった思想を破るのにたやすかった。
一瞬、その声に救われたような気がした。
「きっと、大丈夫だよ。 また身体動くようになるよ、きっと」
ずっと僕の寝ているベッドの傍らに座っていた彼女が少し身を寄せてくると、動くたびにその振動がベッド越しにこの動かない身体に伝わってきたことがわかった。
「大丈夫だから、ね?」
少し顔を傾けて、上目遣いで僕の顔を覗いてくる。
小さな顔を支える首元は、とても弱々そうで少しでも刺激を与えると折れそうなほどだ。しかしその凹凸の無い、雪のように白くてなめらかな喉元が愛おしく感じる。
動けない僕に彼女の顔がゆっくりと近づいてくる。
目の前いっぱいに映る彼女の潤みを帯びた瞳にはそれ以外の感情を含んでいるように見えた。長いまつげの影が瞳に落ちて、その下にはふっくらとした涙袋が少し赤みを帯びている。
「あなたはがんばってきた。だから、もうなにも心配する必要はないよ。ずっと、あなたの側にいるから」
彼女の震える声は僕の耳元でかすかに響く。優しさと愛おしさ、そしてどこか切なさを含む彼女の声にはどこか心地よささえも感じるようになっていた。
彼女のか細い両手が僕の肩へかかる。そしてそのまま頭を胸に抱きかかえるように彼女はやさしく僕を包容する。
服越しからでもわかる彼女のぬくもりが僕の心を麻痺させる。
「私はずっと、ひぃちゃんのそばにいるよ」
やさしさに包まれた、それでいてどこか甘い言葉と共に、彼女の微かに熱を帯びた吐息が僕の肌をくすぐる。
それと同時に、僕の頬にひやりと触れた感触。
――まだ、着けていたんだ。
それは昔僕が彼女にあげた銀のネックレスだった。デザインはとてもシンプルなもので、何年も前に彼女の誕生日に買ってあげたものだった。
彼女の肌が照らされ、胸元の十字架がきらりと鈍く光る。
静寂に包まれた病室に、窓から夏の朝日が差し込んでいく。
赤と黄色を含んだ光が真っ白で無機質な病室を鮮やかに染め上げるを見て、僕は過去の思い出にふける。
あの時もこんな夏の朝だった。
初めてピアノを彼女に聞かせた時だ。
一緒に夜遅くまで未来のことを語り尽くして、いつの間にか夜が更けて、これからの栄光へ向けた二人だけのピアノ演奏会。
弾き終わった時に聞こえたのは、涙を浮かべた彼女の拍手と、夏の朝を知らせるひぐらし達の耳障りな称賛。
――でもこの時まではなにもかも、すべてうまく行くと思っていたんだ。
すべてが僕達のためにある世界だと思っていた――
ぽたり。
僕の頬に濡れた感触。
それは彼女の涙だった。
世界に拒否された僕を繋ぎとめる存在の女の子は声を出さずに静かに涙を流している。
涙を枯らしてしまった僕の代わりに彼女はまだ泣いてくれている。
心をなくしてしまった僕の代わりに彼女はまだ泣いてくれている。
彼女の熱い涙が僕の頬で冷えていく感触。
彼女はこんな身になった僕をまだ支え続けてくれているのだ。
窓の向こうはもう明るくなって、遠くの建物のウインドが太陽の光に反射してキラキラと輝く。
それは宝石のようで僕にはまぶしすぎて、なめらかにビルを滑るその光る雫は、まるで彼女の涙のようにとても綺麗だった。