第二章 海を喰らう蒼き災厄
世界の南端、七つの潮流が交差する海域に、地図に載らない海がある。
名を〈奈落海〉。
昼なお暗く、羅針盤は狂い、熟練の船乗りでさえ近づこうとしない。その海に足を踏み入れ、生きて戻った者は――いないはずだった。
ただ一人を除いて。
彼女は、人ではない。
だが、怪物でもない。
嵐の夜、漁村の沖に漂流していた赤子を、老漁師が拾った。人の姿をしていたが、その瞳は深海の色をしていた。黒にも青にも見える、底の見えない蒼。泣き声は波音に似ていた。
名を、セレナと付けられた。
彼女は水を恐れなかった。三歳で泳ぎ、五歳で潜り、七歳で誰よりも長く海中に留まった。肺がどうなっているのか、誰にも分からない。医師が診ようとしたが、彼女は笑って海に飛び込んだ。
十歳のある日、村に嵐が来た。
奈落海から吹き上げる黒雲。巨大な影が波間を裂く。船を呑み、家を砕く、海魔級の怪物だった。漁師たちは逃げ惑い、祈り、絶望した。
セレナは、波打ち際に立っていた。
「……帰れ」
そう呟いた瞬間、海が静止した。
波が止まり、雨が止まり、風が止まる。怪物の触腕が宙で凍りつく。世界が、彼女を中心に止まったかのようだった。
次の瞬間、海が割れた。
水が左右に裂け、奈落の底が露わになる。怪物は、圧倒的な水圧に押し潰され、音もなく消えた。
静寂。
そして、ゆっくりと海は元に戻る。
村は救われた。
だが、その日を境に、彼女は「普通」ではいられなくなった。
王都から調査団が来た。魔術師、聖職者、学者。彼女を測り、記録し、分類しようとした。だが、彼女の力は測定不能だった。魔力ではない。神聖力でもない。もっと根源的な、自然そのものの意思に近い何か。
十五歳の頃、彼女は真実を知る。
奈落海の底に、古き海神の骸が眠っていること。その力の一部が、自分の中に宿っていること。そして――自分は「封印」であること。
海神は滅びたのではない。分かたれ、器に宿った。
その器が、彼女だった。
力を使えば、封印は薄れる。だが使わなければ、人が死ぬ。彼女は選び続けた。守るために、削れる未来を。
十八歳の夏、海賊艦隊が奈落海に侵入した。禁忌を破り、海神の力を奪おうとしたのだ。砲撃が村を焼き、火薬の匂いが潮に混じる。
セレナは、海へ歩いた。
足首まで、膝まで、腰まで。やがて全身が沈む。
海が、彼女を迎え入れる。
次の瞬間、艦隊の下から巨大な水柱が立ち上がった。船は宙へ放り投げられ、砲は折れ、旗は消えた。海面に立つ彼女の周囲には、無数の水の刃が浮かんでいる。
一歩踏み出すごとに、海が従う。
敵船の船長が叫ぶ。「何者だ!」
彼女は答えない。
ただ、手を振る。
それだけで、艦隊は沈んだ。
圧倒的だった。
だが勝利の後、彼女は倒れた。体温は氷のように低く、脈は微弱。封印が軋んでいると、彼女は悟る。
それでも。
「守れたなら、いい」
目を閉じる彼女の頬を、海水が優しく撫でた。
やがて彼女は、奈落海の守護者と呼ばれるようになる。人々は彼女を畏れ、敬い、距離を取った。友は少ない。理解者も少ない。
だが、彼女は孤独ではなかった。
海が、常に隣にあったから。
ある夜、満月の下で、海がざわめいた。波が言葉を運ぶ。
「八つの最強を集めよ」
彼女は目を開く。
海の奥から、黄金の光が差す。塔の影が、水平線の彼方に浮かぶ。
「最後の一人に、願いを与えよう」
願い。
もし、封印を完全に保つ方法があるのなら。
もし、海神の力を制御できるのなら。
彼女は、静かに笑った。
「……行くよ」
海が、道を作る。
彼女は歩き出す。水面を踏みしめながら。
世界を呑み込む蒼の力を宿したまま。
人々は彼女をこう呼ぶ。
《深淵統べる蒼海皇》セレナ・ナイア
彼女もまた、最強の一人。
全員最強。
全員優勝狙い。
物語は、まだ始まったばかりだ。




