僕より優しい僕に殺される ─ 地球に帰れるのは一人だけ ─
月の裏側という場所は、想像していたよりもずっと、安物のビジネスホテルに似ていた。窓がない。壁が薄い。そして、どこからともなく換気扇の回る、ひどく無機質な音が聞こえてくる。
「重力が六分の一ってことは、理屈の上では、僕らの価値も六分の一になってるってことだよね」
田中が言った。彼は文学部の学生で、隙あらば意味のない警句を吐きたがる悪癖がある。
僕――山田は、支給されたゼリー状の朝食を啜りながら、無言で頷いた。
ここ、月面裏側にある『クレーター・ラボ』に集まったのは、僕と田中、そして紅一点の鈴木の三人だ。三人の共通点は、金がないこと。それから、一ヶ月間自分を空っぽにしても構わないと思っている程度には、人生に飽きていることだった。
バイトの内容は、募集要項によれば「高度な自己内省を伴う居住実験」となっていた。時給は地上の十倍。ただし、一ヶ月間の隔離が条件だ。
最初の一週間、僕らは個室に押し込められ、脳のデータを根こそぎスキャンされた。痛みはない。ただ、頭の芯がずっと微熱を帯びたようにぼんやりとして、自分の記憶が古い映画のフィルムのように、カラカラと音を立てて抜き取られていく感覚だけがあった。
部屋の隅にあるスピーカーから、ときどき責任者の声が流れてくる。
『順調だ。君たちの欠落も、後悔も、深夜にふと思い出す恥ずかしい記憶も、すべて等しく資源になる』
声の主は、白衣を着た男だ。
モニター越しに見る彼は、植物のように感情の起伏が薄い。あるいは、人間を模した精巧な自動販売機。
彼は僕らの苦悩を、まるで週末の天気予報でも読み上げるような平坦なトーンで観察していた。
ある日、僕は質問した。
「この実験って、結局何のためにやってるんですか?」
白衣の男は少しだけ間を置いて、こう答えた。
『君たちは"素材"だ。完璧にトレースされた人格は、労働市場で極めて高値で取引される。記憶を持ち、感情を持ち、しかし文句を言わず、休まず働き続ける存在。企業が欲しがるのは、そういう商品だ』
彼はそう言って、薄く笑った。
『もちろん、君たちオリジナルがどうなろうと、それは関係ない。コピーさえ完璧なら、元は捨てても構わない。ゴミ箱に入れるか、リサイクルに回すかの違いでしかない』
彼の声には、悪意さえなかった。
それがかえって、ひどく気味が悪かった。
そして二週目の朝。
部屋の扉が開くと、そこに「僕」が立っていた。
「おはよう」
僕と全く同じ顔をした男が、僕と全く同じ声で言った。
そいつは僕の三センチ右側に立って、僕が昨日脱ぎ捨てた靴下の匂いを嗅いで、顔をしかめていた。
「「最悪だ」」
僕と"僕"の声が重なった。
実験の後半戦は、この「ドール」と呼ばれるクローンとの共同生活だった。
『ドールは君たちの完璧なトレースだ。今日から三週間、彼らと仲良く暮らしなさい。それが唯一の業務だ』
モニターの中の白衣の男は、どこか楽しげに、あるいは実験動物が共食いを始めるのを待つ子供のような残酷な目でそう言った。
それからの数日間、僕らは奇妙な「自分との友情」を育んだ。
朝、洗面所に立つと、二人の男が並んで全く同じ角度で歯を磨く。
鏡を介さずとも、右を見れば自分の横顔がある。
それは恐怖を通り越し、一種の滑稽なエンターテインメントだった。
だが、三日目の朝、僕は気づいた。
ドールの僕は、僕よりも早起きだった。
僕が目を覚ましたとき、あいつはすでに顔を洗い、シャツの襟をきちんと正して、部屋の掃除まで終えていた。
「おはよう、山田君。今日も良い一日にしよう」
あいつが微笑んだ。
それは、僕が普段絶対にしない、爽やかで健康的な笑顔だった。
僕は寝癖だらけの髪のまま、だらしなくあくびをした。
「……朝から元気だな」
「君もそうだよ。僕らは同じなんだから」
あいつはそう言って、僕の肩を叩いた。
その手の温度が、妙に優しすぎて、僕は少しだけ居心地が悪かった。
四日目。
ドールの僕は、僕が忘れていた課題を代わりに片付けていた。
「あ、あれ、やらなきゃいけなかったんだっけ」
「うん。でも大丈夫、僕がやっておいたよ」
あいつは笑顔で答えた。
「君、疲れてたみたいだし。無理しなくていいよ」
僕は礼を言いながら、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚えた。
五日目。
ドールの僕は、僕が失敗した料理を完璧に作り直していた。
「ごめん、焦がしちゃって」
「気にしないで。失敗は誰にでもあるから」
あいつの声は、母親のように優しかった。僕は自分の不器用さが、急に恥ずかしくなった。
田中は文学部らしく、ドールと「どちらの解釈がより太宰的か」という論争を連日繰り広げていた。
二人の田中が声を揃えて虚無を論じている姿は、マヌケな合唱団のようだったが、日を追うごとに、オリジナルの田中の言葉は尖りを失い、ドールの方が論理的で洗練された主張を展開するようになった。
ある日、田中は苛立った様子で僕に言った。
「あいつ、俺より頭が良いんだよ。同じ記憶を持ってるはずなのに、あいつの方が明晰に語れる。……なんでだと思う?」
僕は答えられなかった。
だが、一度だけ、オリジナルがドールに救われる場面があった。
田中が持病のパニック障害を起こしかけたとき、ドールは冷静に「大丈夫だ、僕が君の絶望を半分預かっているから」と言ってのけたのだ。
自分自身に優しくされるという体験は、麻薬のように甘美だったようだ。
田中はその夜、ドールの肩に顔を埋めて泣いていた。
鈴木はドールに自分のマニキュアを塗らせていた。お揃いの服を着て、二人でファッション誌を眺める彼女たちは、不気味なほど仲の良い双子に見えた。
だが、僕はあるとき、彼女たちの会話を耳にした。
「ねえ、私たちって、どっちが本物なのかな」
鈴木が、ぼんやりとした声で言った。
「それは――」
ドールの鈴木が答えようとしたとき、オリジナルの鈴木が急に笑い出した。
「冗談よ。私が本物に決まってるじゃない。だって、私の方が先に傷ついたんだから」
彼女は自分の手首を撫でた。
そこには、古い、誰にも言ったことのない傷があった。
「この傷を覚えてる? 高校のとき、一度だけやっちゃったやつ。……あんたにはこれ、ないでしょ?」
ドールは黙って自分の手首を見つめた。
そこには、何もなかった。
「そうね。私にはないわ」
ドールは静かに答えた。
「でも、その痛みは覚えてる。その夜、あなたが泣きながら消毒液を塗った感覚も。だから――」
ドールは鈴木の手首に、そっと触れた。
「私にもあるのよ。見えないだけで」
鈴木は、何も言い返せなかった。
六日目の夜、僕はドールと向き合って将棋を指していた。
指し手は常に同じ。千日手が続き、勝負がつかない。
「ねえ」
ドールの僕が、駒を握ったまま言った。
「僕ら、地球に帰ったらさ。二人で協力して生きていかない? 片方がバイトして、片方が授業に出れば、単位も貯金も二倍だよ」
「……悪くないな」
僕は笑った。自分という存在が二人いることは、人生の重荷を半分に分かち合えるような、不思議な全能感を与えてくれた。
だが、その全能感は脆かった。
七日目の朝、僕が目を覚ますと、ドールは既に起きて朝食を済ませていた。
「先に食べちゃった。ごめん」
そう言うドールの口元には、僕の分のゼリー飲料のパッケージが転がっていた。
僕は一瞬、むっとした。
「……お前、僕だろ。なんで僕の分まで食うんだよ」
「あ……」
ドールは、初めて見せる間抜けな顔で固まった。
「ごめん。寝ぼけてた」
その後、ドールは予備の配給を取りに走ったが、僕は妙な安心を覚えた。
こいつも、完璧じゃない。
だが、その安心は長く続かなかった。
十日目の朝、僕は気づいた。
ドールの僕は、もう「寝ぼける」ことがなかった。
失敗することも、遅刻することも、無駄な時間を過ごすこともなかった。
あいつは毎朝同じ時間に起き、同じ効率で動き、同じ完璧さで一日を終えた。
そして、僕はどんどん不規則になり、だらしなくなり、自己嫌悪を深めていった。
十二日目の夜。
僕は、壁に耳を当てて隣の部屋を盗み聞きした。
田中の部屋から、低い笑い声が聞こえた。
「ねえ、僕たちもう入れ替わっても、誰も気づかないんじゃない?」
ドールの声だった。
「……やめろよ」
オリジナルの田中が、震えた声で答えた。
「冗談だよ。でも、考えてみてよ。君が僕の代わりに地上に残って、僕が君の代わりにここに残ったとして、誰がそれを証明できる? 僕らは同じ記憶を持ってる。同じ傷を持ってる。同じ、なんだよ」
沈黙が流れた。
そして、オリジナルの田中が、小さく呟いた。
「……でも、お前の方が、俺より上手く生きられる」
その声には、諦めが混じっていた。
十三日目。
鈴木が廊下で僕を呼び止めた。
彼女の顔は青白く、目の下に隈ができていた。
「山田君、聞いていい?」
「何?」
「あんた、自分のドールのこと、好き?」
僕は答えに詰まった。
「……分からない」
「私もよ」
鈴木は壁にもたれかかった。
「あいつ、私よりずっと優しいの。私が言えなかったこと、全部言ってくれる。私がやりたかったこと、全部やってくれる。……でも」
彼女は震える指で、自分の頬を撫でた。
「私の失敗も後悔も全部知ってる。でも、あいつがそれを語る時、なんだか……他人の噂話を聞いてるみたいに聞こえるのよ。気持ち悪くない?」
彼女は自分の腕をさすりながら、足早に去っていった。
僕は何も言えなかった。
鈴木の言葉は、僕の胸にも刺さっていた。
十四日目の夕方、僕とドールは部屋で対峙していた。
将棋盤はもう片付けられていた。
「山田君」
ドールが言った。
「君、最近元気ないね」
「……そうかな」
「うん。でも大丈夫。僕が君の分まで頑張るから」
あいつは笑った。
その笑顔は、まるで聖人のように穏やかで、そして、どこか空虚だった。
そんな一見平和な生活の底には、泥のような自己嫌悪が沈殿していた。
ふとした沈黙の際、僕はドールの澄んだ瞳を見つめながら、こっそりと願うことがあった。
(こいつが全部やってくれるなら、いっそ僕は、ここで消えてしまってもいいんじゃないか)
二十三日目の夜。
僕とドールは同時に同じ夢を見たようだ。
それは、真っ暗な海に一人で沈んでいく夢だった。
目が覚めたとき、僕らは同時に枕を濡らしていた。
「死にたいって、思ってたんだね」
ドールが、僕よりも僕らしい、慈しむような声で言った。
僕は答えなかった。
だが、その全能感は、実験終了の三日前に粉々に打ち砕かれた。
二十七日目の朝。
食堂に集められた僕らの前に、白衣の男が立った。
「同調プロセスは完了した。最終段階に入る。……さて、言い忘れていたが、シャトルの座席には限りがある」
男は、事務的に、淡々と告げた。
「一ヶ月後、ここを出られるのは、一部屋につき一人だけだ」
一瞬、空気が凍りついた。
隣で田中が、「え?」とマヌケな声を出す。
「判定は最終日のディベートで行う。AIが『地上に帰るにふさわしい個体』を選出する。選ばれなかった方は――ここ、月の裏側で、静かに『欠員』として処理される」
田中が叫んだ。
「ふざけるな!そんなの聞いてない!」
白衣の男は、表情一つ変えずに答えた。
『契約書の第十三項に記載されている。君たちは署名した』
「誰が細かい字まで読むんだよ!」
『それは君たちの責任だ。それに――』
男は、初めて感情らしきものを声に滲ませた。
『どちらが帰っても、君たちは"生きている"。記憶も、人格も、すべて保存されている。何も失われない。むしろ、より優れた個体が地上で活動できるなら、それは合理的な選択だろう?』
彼はそう言って、薄く笑った。
『実際、過去の実験では、被験者の八割がこの選別を"納得して"受け入れた。残り二割は……まあ、問題があったが』
男が消えた後、食堂には重苦しい沈黙が満ちた。
さっきまで笑い合っていたドールとオリジナルの間に、ナイフを突き立てたような溝が走った。
「……おい」
田中が、隣に座る"田中"の肩を掴んだ。
「お前、知ってたのか? 僕を騙してたのか?」
"田中"が、冷たい目で彼を見返した。
「騙してた? 心外だな。僕の記憶は君と同じだ。君が知らなかったなら、僕だって知るわけがない。ただ――」
"田中"は田中の手を振り払った。
「君の今の見苦しい態度は、僕の記憶にはない。君は、僕より先に劣化し始めているんじゃないか?」
鈴木の部屋からは、その夜、激しい物音が聞こえた。
翌日、彼女の顔には痣があり、"鈴木"の顔にも全く同じ位置に痣があった。
昨日までお揃いの服を着ていた彼女たちは、今や鏡に向かって「どちらが先に老けるか」を呪うような、殺伐とした睨み合いを続けていた。
二十八日目の夜、僕は廊下で鈴木と出会った。
彼女は壁に背を預けて座り込んでいた。
「鈴木さん」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……山田君」
彼女の目は腫れていた。
「私ね、ずっと自分のこと嫌いだったの」
彼女は膝を抱えた。
「ブスだし、性格悪いし、誰からも必要とされてないって、ずっと思ってた。だから――」
彼女は震える声で続けた。
「あいつが現れたとき、最初は嬉しかったのよ。『私にも、こんなに優しい部分があったんだ』って。でも」
彼女は自分の腕を強く抱きしめた。
「あいつ、私の醜さを知らないの。私が中学で虐められて、トイレで吐いたこと。私が好きだった人に告白して、笑われたこと。私が母親に『産まなきゃよかった』って言われたこと――」
彼女は涙を拭った。
「あいつは、そういう記憶を『データ』として持ってるだけ。本当には、痛くも痒くもないの。だから、あいつの方が完璧に見える。私より、ずっと」
僕は何も言えなかった。
鈴木は立ち上がり、僕の肩に手を置いた。
「でもね、山田君。私、気づいたの」
「何を?」
「私が醜いから、私なんだって」
彼女は微笑んだ。
「あいつが完璧なら、あいつに全部任せて、私は消えてもいいかなって。……それが、私にできる唯一の『良いこと』なんじゃないかって」
二十九日目の夕方、僕は廊下で鈴木とすれ違った。
「山田君」
彼女は僕の腕を掴み、低い声で囁いた。
「私ね、絶対に帰るから。あんなコピーなんかに、私の人生渡してたまるか」
彼女の目は血走っていた。
「あいつ、私より先にシワが一本増えてたの。もう勝負はついたようなものよ。AIだって分かるはず。私が本物だって」
そう言って、彼女は自分の頬を撫でた。まるで、自分の皮膚の一ミリまで確認するように。
僕は、昨夜の彼女の言葉を思い出した。
(どちらが本当の鈴木なんだろう)
僕は部屋で、あいつと対峙していた。
将棋盤は片付けられ、そこには剥き出しの敵意だけがあった。
「山田君」
あいつが言った。その声は、僕よりもずっと張りと自信に満ちていた。
「君は、自分がどれほど不完全で、社会にとって不必要な存在か知っているだろう? 君はいつも逃げてばかりだ。でも僕は違う。僕は君の記憶を持ちながら、君が持っていない『意志』を持っている。僕の方が、上手に山田をやれる」
僕は震える手で、パイプ椅子を握りしめた。
「……それは、僕の言葉だ。僕が言ったんだ」
「でも、選ぶのはAIだ。AIが求めるのは、ボロボロになった山田か、それとも同じ記憶を持ちつつ、未来を向いている山田か。答えは明白だよ」
僕は何も言い返せなかった。
絶望さえも、あいつは「効率的な分析材料」として利用しようとしていた。
最終日。審判の間。
判定を下すのは、冷徹な認証AIだ。
まずは田中。
彼はやつれ果てた顔で、自分がどれほど唯一無二の存在であるかを熱弁した。子供の頃の傷、誰にも言っていない恥ずかしい性癖。
だが、"田中"はそれらをさらに流暢に、さらに感動的なエピソードとして語り直した。
その時、田中が震える声で言った。
「待ってくれ。……僕には、こいつが知らない記憶がある」
"田中"が眉をひそめた。
「あるわけがない」
「ある」
田中は深く息を吸い込んだ。
「この一ヶ月、僕はお前に救われた。パニック障害が起きた時、お前が支えてくれた。それは――お前の記憶には、ない。なぜなら、お前が僕を助けたとき、お前はまだ『僕を体験していなかった』からだ」
静寂が落ちた。
一瞬、田中の目に希望の光が灯った。
だが、"田中"はゆっくりと首を振った。
「違う。その記憶は、今、君が語った瞬間に僕の中にも刻まれた。僕らはリアルタイムで同期している。だから、その記憶はもう、君だけのものじゃない」
"田中"は、まるで慈悲を与えるような笑みを浮かべた。
「それに、その『助けた記憶』を、今ここで最も明瞭に、最も感動的に語れるのは、どちらだと思う?」
AIの判定は速かった。
『より明晰で、情緒の安定した個体を採用する』
一秒、田中は動かなかった。
「……冗談だろ?」
誰も答えない。
田中は突然、笑い出した。
「おい待てよ、こいつ俺なんだぞ。俺が消えたら、こいつ何を根拠に俺だって言うんだよ」
警備ロボットが腕を掴んだ。
「おい、山田!」
彼は最後に、子供みたいな声で叫んだ。
「俺、俺! まだ書いてない小説あるんだよ!」
田中の絶叫が響き、警備ロボットが彼を別室へと引きずっていった。
"田中"は、その光景を、まるで他人事のように眺めていた。
次は鈴木。
彼女はディベートの席に着くなり、冷たく言い放った。
「私は帰るのをやめるわ。あんな退屈な地上、あなたに譲ってあげる。……せいぜい、私より長く、私を演じ続けなさい」
"鈴木"は驚いた顔をしたが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
しかし、AIの判定は意外なものだった。
『自己犠牲を選択した個体を、高度なオリジナルと見なす。ドールにはその判断は不可能である』
"鈴木"が帰還を許され、鈴木が「そんなのずるい!」と叫びながら解体室へ運ばれていった。
いや、違う。
帰還を許されたのは、鈴木だった。
"鈴木"が解体室へ運ばれていった。
そう、そのはずだ。
でも――
僕は、どちらがどちらだったのか、もう分からなくなっていた。
最後に、僕の番だ。
僕は、目の前に座るあいつを見た。
「山田君。君の負けだよ」
あいつが笑う。
『理由を述べなさい』
AIが問う。
「僕は、君に勝てないよ」
僕は、正直に言った。
「僕は、自分が嫌いだ。これまでの失敗も、弱さも、全部ゴミ箱に捨ててしまいたいと思っている。でも、こいつは違う。こいつは僕のゴミみたいな記憶を、価値あるデータとして大切に抱えて、未来を語っている。……こいつの方が、僕よりも僕という人間を愛しているんだ」
あいつは満足げに頷いた。
「だから、こいつを地上に帰してやってくれ。僕はここで、静かに消えていく方がいい」
沈黙が流れた。
あいつは自分が選ばれることを確信し、整った顔でAIの言葉を待った。
AIの光が点滅する。
『判定。……山田を採用。地上への帰還を許可する』
「……なぜだ!」
あいつが、初めて焦ったような悲鳴を上げた。
『ドールは、対象を肯定するように設計されている。自己を否定し、消滅を望むという非効率な思考は、ドールの論理回路には構築できない。ゆえに、絶望を選択した個体を、オリジナルと判定する』
あいつは、呆然と立ち尽くした。
「待ってくれ。僕は――僕は山田として生きたかった。僕にも、未来があるはずだったのに――」
警備ロボットがあいつの腕を掴んだ。
あいつは最後に、僕を見た。
その目には、初めて見る「恐怖」があった。
「山田君。君、本当に僕なの?」
僕は答えなかった。
答えられなかった。
地球行きのシャトルの中には、三人の若者が座っていた。
田中と、鈴木と、僕。
シャトルが大気圏に突入し、凄まじい重力が僕らを椅子に押し付けた。
隣に座る田中は、窓の外に見える青い地球を、うっとりとした表情で見つめている。
彼の瞳には、これからの人生に対する一切の迷いがない。
彼はこれから、誰よりも効率的に、誰よりも幸福に生きていくだろう。
まるで、悩むことを忘れた機械のように。
――いや。
僕は思い直した。
あれは、本当に田中なのだろうか。
彼は、あんなふうに無邪気に笑う人間だっただろうか。
鈴木は、目を閉じて深く椅子に沈み込んでいた。
彼女が何を考えているのかは分からない。
ただ、その指先が微かに震えているのだけが見えた。
時折、彼女は自分の手首を撫でる。
そこには、古い傷があるはずだった。
でも、今、そこに傷はあるのだろうか。
僕には、確かめる勇気がなかった。
僕は、自分の腕を強くつねってみた。
痛かった。
重力は重く、肺に吸い込む空気はどこか埃っぽくて、不快だった。
これが、「生きている」証拠なのだろうか。
それとも、ドールもまた、こうして痛みを感じるのだろうか。
僕らは地球に降り立った。
バイト代は、約束通り僕の口座に振り込まれていた。人生をリセットするには十分すぎる額だ。
僕は街を歩き、駅のトイレに入った。
洗面所の鏡には、一ヶ月前と変わらない、冴えない男の顔が映っていた。
僕はその顔に向かって、小さく挨拶をした。
「お帰り、山田君」
鏡の中の男は、何も答えなかった。
ただ、ひどく疲れた目で、僕を見つめ返しているだけだった。
いや――
その目は、本当に「疲れて」いるのだろうか。
それとも、「疲れたふり」をしているだけなのだろうか。
僕は、急に怖くなった。
自分が自分であることの証明が、どこにもないことに。
僕は鏡から目を逸らし、駅の雑踏へと紛れ込んだ。
重力のある世界で生きていくのは、やはりひどく面倒で、そして、少しだけ誇らしいような気がした。
背後で、誰かの笑い声が聞こえた。
それが、本物の人間のものか、それとも月の裏側から来た新品のものか、僕にはもう、判別がつかなかった。
振り返ると、田中が立っていた。
「山田君、これから飲みに行かない?」
彼は、少年のように無邪気に笑っていた。
あんな笑顔、田中は昔していただろうか。
僕は思い出せなかった。
「……ああ、行こう」
僕は答えた。
そして、二人で雑踏の中を歩き出した。
遠くで、鈴木の姿が見えた。
彼女は、スマートフォンを見つめながら、誰かに電話をしていた。
彼女の声は明るく、弾んでいた。
あんなふうに、彼女は笑っていただろうか。
僕は、ふと空を見上げた。
そこには、薄く白い月が浮かんでいた。
月の裏側には、今もあの施設があって――
あの白衣の男が、新しい被験者たちを迎え入れているのだろう。
そして、いつか。
この地上にも、無数の「完璧な人間」が溢れるのかもしれない。
優しく、効率的で、絶望を知らない、新しい人類が。
僕は、自分の手のひらを見つめた。
そこには、昔つけた小さな傷があった。
中学生のとき、カッターで誤って切ってしまった傷だ。
この傷は、ドールにはないはずだ。……きっと。
だから、僕は僕なのだ。
――本当に?
胸の奥で、小さな声が囁いた。
――君は、本当に山田なのか?
僕は首を振った。
考えるのをやめた。
ただ、歩き続けた。
重い足を引きずって、この退屈で、でも確かに存在する地上を。




