8.4.羽化
8.4.羽化
シン、と執務室が、本当の静寂に包まれた。
上官は、モニターに映し出されたテキストを、ただ、食い入るように見つめている。その額には、一筋の、冷たい汗が浮かんでいた。
これは、報告書ではない。
春凪一からの、最後通牒だ。
我々の内情を、完全に把握した上で、こちらの信義を問う、あまりにも傲慢で、しかし、あまりにも正当な、挑戦状だった。
「……馬鹿な……」
上官の口から、呻くような声が漏れた。
「奴は、一体、どこまで知っている……?私が、『梟』を、どのように育ててきたかまで、全て……」
そうだ。
この報告書は、私にだけではない。
時雨の心を、誰よりも深く、抉っていた。
彼女が、今まで、弱点として隠し、そして、矯正すべき欠陥として憎んできた、自らの『優しさ』や『共感能力』。それら全てを、春凪は、肯定したのだ。
それは、弱さではない。お前が、お前であることの、証なのだ、と。
「……長官」
時雨が、静かに口を開いた。
その声には、もう、一切の震えはなかった。
「私は……いえ、わたくしは、本日をもって、内閣情報調査室を、辞職させていただきます」
「……なん、だと……?」
上官が、初めて、狼狽した顔を時雨に向けた。
「わたくしは、『梟』ではありません。わたくしの名は、時雨。ただの、一人の人間です。そして、わたくしは、春凪一が創ろうとしている未来を、この目で見届けたい。……いいえ、共犯者として、その未来を、創る側になりたい。心から、そう、願っています」
時雨は、そう言うと、制服の襟につけられていた、梟を模した小さなバッジを、静かに取り外した。
そして、それを、上官のデスクの上に、そっと置いた。
それは、彼女が、兵器であることをやめ、一人の人間として、自らの意思で、羽ばたいた瞬間だった。
「待て、時雨!君は、自分が何を言っているのか、分かっているのか!我々を裏切るということが、どういうことか……!」
上官の、焦った声が、背中に突き刺さる。
だが、時雨は、もう、振り返らなかった。
「……さようなら、長官。わたくしは、わたくしの『心臓』が指し示す場所へ、帰ります」
その背中は、もう、か弱い少女のものではなかった。
自らの意思で、未来を選択した、一人の、強く、美しい女性の背中だった。




