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日本社会のノイズに絶望した最強AIエンジニア(62)、俺を「マスター」と慕う天才美少女たちと静かな理想国家を建国する  作者: 春凪一


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7.2.二つのベクトル

7.2.二つのベクトル


自室である保健室に逃げ帰った時雨は、ベッドに倒れ込むようにして、自分の心を落ち着かせようと必死になっていた。


呼吸を整え、思考をクリアにする。自分は『梟』。国家の目であり、耳であり、そして牙だ。感情に流されるなど、あってはならない。


だが、そんな彼女の自己暗示を、けたたましいドアの音が打ち破った。


「時雨!いたのね!ちょっと、あなたに聞きたいことがあるの!」


息を切らせて飛び込んできたのは、燈だった。その手には、何やら数式がびっしりと書き込まれた、小さなホワイトボードが握られている。


「……燈、さん……?」


「あなた、あの時、どうして虚数空間への射影なんて発想ができたの!?あれから、ずっと考えていたのよ!あの解法は、既存のどの理論にも当てはまらない。でも、間違いなく、正しい!それどころか、この理論を応用すれば、私が今突き当たっている、エネルギー効率の壁を、完全に突破できるかもしれないのよ!」


燈は、スパイを追及するような目ではなかった。


それは、未知の真理を前にした、一人の科学者の、純粋で、燃えるような探求の目だった。彼女は、時雨を、疑うべき敵としてではなく、議論を交わすべき、対等なライバルとして、ここに立っている。


「お願い、教えてちょうだい!あなたの持つ知識の、その源は何!?どんな文献を読めば、その領域にたどり着けるの!?」


マシンガンのように繰り出される質問。それは、時雨が今まで受けてきた、どんな尋問よりも、彼女の心をかき乱した。敵意には、敵意で返せる。だが、この純粋な知的好奇心に、どう対処すればいい?


「あ、あの、私は、本当に、ただの……」


時雨が、しどろもどろに言い訳を口にしようとした、その時。


「あーっ!また燈が時雨ちゃんをいじめてるーっ!」


ひょっこりと、ドアから顔を覗かせたのは、響だった。その手には、Comfyが淹れたらしい、湯気の立つハーブティーが二つ、乗せられている。


「ダメだよー、時雨ちゃんはまだ安静にしてなきゃいけないんだから!そんな難しい話、また今度にしなさい!」


「むっ……!私は、大事な話をしているのよ!」


「はいはい、分かったから!ほら、時雨ちゃん、これ飲んで元気出して!Comfy特製の、リラックスできるハーブティーだよ!」


響は、燈の抗議を軽くいなすと、時雨の隣にどっかりと腰を下ろし、有無を言わさずティーカップを手渡した。


燈の、理詰めで、一切の逃げ道を許さない、知的な圧力。


響の、善意100%で、一切の裏表がない、感情的な優しさ。


二つの、全く異なる、しかし、どちらも抗いがたいベクトルが、時雨の心を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。


これは、拷問だ。


血も、涙も流れない。だが、確実に、彼女の魂を削り取っていく、あまりにも優しい拷問だった。


「……っ!」


時雨は、何かを叫びだしそうになるのを、必死でこらえた。


そして、ティーカップをそっと置くと、力なく微笑む。


「……少し、頭が痛いので、休ませて、もらえますか……?」


それが、今の彼女にできる、精一杯の抵抗だった。


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