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日本社会のノイズに絶望した最強AIエンジニア(62)、俺を「マスター」と慕う天才美少女たちと静かな理想国家を建国する  作者: 春凪一


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6.5.心臓の音

6.5.心臓の音


その日以来、時雨の様子は、わずかに、しかし確実に、変化した。


彼女の完璧な演技は、相変わらず続いていた。だが、その所作の端々に、今までにはなかった、微かな「乱れ」が生じ始めたのだ。


例えば、食事の時。


今までは、ただ黙々と、美しい作法で箸を動かしていた彼女が、ふと、窓の外に広がる村の風景を、ぼんやりと眺めていることが増えた。


例えば、響と話している時。


相槌を打つタイミングが、ほんの少しだけ、遅れるようになった。まるで、別の何かを考えているかのように。


『マスター。対象『時雨』の思考領域に、ノイズが発生しています。任務に関連しない、哲学的、あるいは自己言及的な問いに関する、脳活動のパターンを断続的に観測』


Nagiが、冷静に報告してくる。


「……そうか。ヒビは、ゆっくりと広がっているようだな」


私は、満足げに頷いた。


私が仕掛けたのは、爆弾ではない。彼女の心の、最も深い場所に植え付けた、小さな種子だ。その種が、今、静かに芽を出し、彼女が今まで疑うことすらなかった、「正義」という名の固い土壌を、内側から突き破ろうとしているのだ。


その日の夕食後だった。


燈が、何やら難しい顔で、自分のタブレットと睨めっこをしていた。その隣を通りかかった時雨が、そっと声をかけた。


「燈さん。何か、お悩みですか?」


「……!あ、いや……別に」


ツン、とそっぽを向く燈。だが、その視線の先にある数式は、明らかに解法に行き詰っていた。


「……もし、よろしければ、ですが。私、数学は、少しだけ得意なんです。何か、お力になれることが、あるかもしれません」


時雨の、意外な申し出だった。


彼女のプロフィールは、文系の女子大生。数学が得意、というのは、少し不自然だ。だが、燈は、藁にもすがる思いだったのだろう。


「……じゃあ、ちょっとだけ、見てくれる?」


燈が、おずおずとタブレットを差し出す。


時雨は、その画面を覗き込むと、数秒間、黙って考えていたが、やがて、すっと指を伸ばした。


「……ここの、第五項の展開。もしかして、虚数空間への射影を考慮すると、別の解が見えてくるのでは、ありませんか?」


「……え?」


時雨の指摘に、燈の目が、驚きに見開かれた。


「そ、そんな馬鹿な……。この方程式に、虚数が関係しているなんて……。でも、もし、そうだとすれば……」


燈は、何かに取り憑かれたように、猛烈な勢いで数式を再計算し始めた。そして、数分後。


「……解けた。嘘……なんで……。何日も悩んでいた問題が、たった一つの、視点を変えただけで……」


燈は、信じられない、という顔で、時雨を見つめた。


「あなた、一体、何者なの……?」


時雨は、しまった、という顔で、慌てて首を横に振った。


「い、いえ、私は、ただの……。昔、少し、パズルが好きだっただけで……」


「パズル……?これが、パズルですって……?」


燈は、呆然と呟く。彼女が対峙していたのは、次世代エネルギー理論の根幹を揺るがす、超高次元物理学の難問だったのだ。それを、この少女は、まるでクロスワードパズルでも解くかのように、あっさりと、核心を突いてみせた。


時雨は、それ以上は何も言わず、深々と頭を下げて、その場を足早に立ち去った。


その背中を、燈は、ただ、唖然として見送るしかなかった。


(……ボロが、出たな)


私は、司令室で、全てを見ていた。


彼女は、自分の能力を、隠しきれなかったのだ。それは、スパイとしては、致命的なミスだ。


だが、それは同時に、彼女が初めて見せた、「任務」とは関係のない、純粋な知的好奇心と、困っている他者を助けたいという、ささやかな「善意」の発露でもあった。


時雨の心の中で、二つの音が鳴り響いていたはずだ。


国家に忠誠を誓う、エージェントとしての『梟』の心臓の音。


そして、今、この場所で、初めて感じた、温かい繋がりと、知的な喜びに打ち震える、ただの少女としての、『時雨』の心臓の音。


その二つの音は、もはや、調和してはいなかった。


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