6.5.心臓の音
6.5.心臓の音
その日以来、時雨の様子は、わずかに、しかし確実に、変化した。
彼女の完璧な演技は、相変わらず続いていた。だが、その所作の端々に、今までにはなかった、微かな「乱れ」が生じ始めたのだ。
例えば、食事の時。
今までは、ただ黙々と、美しい作法で箸を動かしていた彼女が、ふと、窓の外に広がる村の風景を、ぼんやりと眺めていることが増えた。
例えば、響と話している時。
相槌を打つタイミングが、ほんの少しだけ、遅れるようになった。まるで、別の何かを考えているかのように。
『マスター。対象『時雨』の思考領域に、ノイズが発生しています。任務に関連しない、哲学的、あるいは自己言及的な問いに関する、脳活動のパターンを断続的に観測』
Nagiが、冷静に報告してくる。
「……そうか。ヒビは、ゆっくりと広がっているようだな」
私は、満足げに頷いた。
私が仕掛けたのは、爆弾ではない。彼女の心の、最も深い場所に植え付けた、小さな種子だ。その種が、今、静かに芽を出し、彼女が今まで疑うことすらなかった、「正義」という名の固い土壌を、内側から突き破ろうとしているのだ。
その日の夕食後だった。
燈が、何やら難しい顔で、自分のタブレットと睨めっこをしていた。その隣を通りかかった時雨が、そっと声をかけた。
「燈さん。何か、お悩みですか?」
「……!あ、いや……別に」
ツン、とそっぽを向く燈。だが、その視線の先にある数式は、明らかに解法に行き詰っていた。
「……もし、よろしければ、ですが。私、数学は、少しだけ得意なんです。何か、お力になれることが、あるかもしれません」
時雨の、意外な申し出だった。
彼女のプロフィールは、文系の女子大生。数学が得意、というのは、少し不自然だ。だが、燈は、藁にもすがる思いだったのだろう。
「……じゃあ、ちょっとだけ、見てくれる?」
燈が、おずおずとタブレットを差し出す。
時雨は、その画面を覗き込むと、数秒間、黙って考えていたが、やがて、すっと指を伸ばした。
「……ここの、第五項の展開。もしかして、虚数空間への射影を考慮すると、別の解が見えてくるのでは、ありませんか?」
「……え?」
時雨の指摘に、燈の目が、驚きに見開かれた。
「そ、そんな馬鹿な……。この方程式に、虚数が関係しているなんて……。でも、もし、そうだとすれば……」
燈は、何かに取り憑かれたように、猛烈な勢いで数式を再計算し始めた。そして、数分後。
「……解けた。嘘……なんで……。何日も悩んでいた問題が、たった一つの、視点を変えただけで……」
燈は、信じられない、という顔で、時雨を見つめた。
「あなた、一体、何者なの……?」
時雨は、しまった、という顔で、慌てて首を横に振った。
「い、いえ、私は、ただの……。昔、少し、パズルが好きだっただけで……」
「パズル……?これが、パズルですって……?」
燈は、呆然と呟く。彼女が対峙していたのは、次世代エネルギー理論の根幹を揺るがす、超高次元物理学の難問だったのだ。それを、この少女は、まるでクロスワードパズルでも解くかのように、あっさりと、核心を突いてみせた。
時雨は、それ以上は何も言わず、深々と頭を下げて、その場を足早に立ち去った。
その背中を、燈は、ただ、唖然として見送るしかなかった。
(……ボロが、出たな)
私は、司令室で、全てを見ていた。
彼女は、自分の能力を、隠しきれなかったのだ。それは、スパイとしては、致命的なミスだ。
だが、それは同時に、彼女が初めて見せた、「任務」とは関係のない、純粋な知的好奇心と、困っている他者を助けたいという、ささやかな「善意」の発露でもあった。
時雨の心の中で、二つの音が鳴り響いていたはずだ。
国家に忠誠を誓う、エージェントとしての『梟』の心臓の音。
そして、今、この場所で、初めて感じた、温かい繋がりと、知的な喜びに打ち震える、ただの少女としての、『時雨』の心臓の音。
その二つの音は、もはや、調和してはいなかった。




