6.4.賢者の散歩道
6.4.賢者の散歩道
翌朝。私は、いつものように裏山への散歩に出かけようと、玄関のドアに手をかけた。
すると、背後から、控えめな声がかかった。
「……あの、春凪、さん」
振り返ると、そこにいたのは時雨だった。少し緊張した面持ちで、私を見上げている。
「もし、ご迷惑でなければ……その、お散歩に、ご一緒させていただいても、よろしいでしょうか?」
(……かかったな)
響との会話の中で、彼女が私の習慣を探り当てていたことは、先刻承知だ。
「うむ。かまわんよ。少し、退屈かもしれんがね」
私は、そう言って、優しく微笑んでみせた。
二人きりの、静かな散歩が始まった。
朝露に濡れた木々の香りが、肺を満たす。鳥の声と、自分の足音だけが聞こえる、完璧な静寂。
時雨は、私の半歩後ろを、音も立てずに付いてくる。その歩き方一つにも、訓練された者の気配が滲み出ていた。彼女は、必死に、私から何らかの情報を引き出そうと、神経を研ぎ澄ませていることだろう。
だが、私は、共和国の計画や、政治の話など、一言も口にしなかった。
「……時雨くん。君は、この静けさを、どう思うかね?」
「え……?」
「この、鳥の声。風が木々の葉を揺らす音。遠くで聞こえる、川のせせらぎ。……君には、これが、どのように聞こえる?」
突然の問いに、時雨は戸惑ったように、しかし、完璧な模範解答を口にした。
「……とても、美しいと、思います。心が、洗われるようです」
「そうか」
私は、それ以上は何も言わず、ただ、歩き続けた。
彼女の答えは、正しい。だが、それは、本で読んだ知識をそのまま口にしたような、空虚な言葉だった。彼女は、まだ、本当の意味で「聞いて」はいない。
やがて、私たちは、森の奥深くにある、小さな祠の前にたどり着いた。
誰が建てたのかも分からないような、古びた石の祠だ。だが、その周りは綺麗に掃き清められ、小さな野の花が供えられていた。村の誰かが、毎日、世話をしているのだろう。
私は、その祠の前で立ち止まり、静かに手を合わせ、深く頭を下げた。
時雨も、慌ててそれに倣う。
長い、長い沈黙。
風の音だけが、私たちの間を通り過ぎていく。
やがて、顔を上げた私は、隣で戸惑っている少女に、静かに告げた。
「――ここが、春凪共和国の、心臓だよ」
「……え?」
時雨の、整った顔に、初めて、計算されていない、素の驚きが浮かんだ。
「最新鋭のAIでも、地下のプラントでもない。ましてや、私の頭脳などでは、断じてない。この、名もなき祠の前で、静かに頭を垂れることができる心。自然への畏敬の念。目に見えないものへの、感謝の気持ち。……それこそが、我々が、何よりも大切にしているものだ」
私は、時雨の漆黒の瞳を、まっすぐに見つめた。
「時雨くん。君の報告書には、何と書くかね?『春凪一は、毎朝、山奥の石ころに向かって、祈りを捧げている』と。……君の上官は、それを読んで、どう思うだろうな?」
私の言葉に、時雨は、息を呑んだ。
彼女の完璧な仮面に、初めて、はっきりと、ヒビが入ったのを、私は確かに見た。
――盤上の黒いクイーンは、白いキングの、予測不能な一手に、完全に動きを止められていた。




