6.2.偽りの盤面
6.2.偽りの盤面
「――時雨さん。もしよろしければ、少し、この施設を案内しましょうか?」
その日の午後。時雨に声をかけたのは、静香だった。
彼女の提案に、時雨は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに、喜びに満ちた笑顔で頷いた。
「よろしいのですか、静香さん?私のような部外者に……」
「ええ。あなたは、我々の『お客様』ですから。それに、いつまでも保健室に閉じ込めておくのも、退屈でしょう」
静香は、完璧な淑女の笑みを浮かべて、時雨を促した。
これは、私と静香の間で交わされた、「ゲーム」の、次の一手だった。
「まず、こちらが燈さんのラボです。表向きは理科室、ですけれど」
ガラス張りの向こうでは、燈が白衣を着て、複雑な数式が浮かぶホログラムと格闘している。
「彼女はここで、地球環境をクリーンにするための、新しいエネルギー源を研究していますの。少し気難しいところもありますけれど、その頭脳は本物ですわ」
静香の説明に、時雨は「すごい……」と、感嘆のため息をつく。
次に案内されたのは、響のスタジオ、元音楽室だ。
防音壁に囲まれた部屋で、響が新しい曲のレコーディングをしているのが見えた。
「響さんは、我々の理念を、世界中の人々に伝えるための『声』です。彼女の歌が、多くの人々の心を動かし、私たちの活動を支えてくれているのですわ」
「歌で、世界を……。素敵ですね」
時雨の瞳が、キラキラと輝いているように見えた。
そして、静香は、時雨を一つの巨大な地下施設へと導いた。
そこは、村の地下深くに建設された、巨大な植物工場だった。天井まで続く棚には、LEDの光を浴びて、瑞々しい野菜が青々と育っている。
「ここは……?」
「我々の食料を、全て自給自足で賄うための施設です。天候や、外部の供給網に一切左右されることなく、安全で、栄養価の高い食料を、村の皆様と私たちに提供し続けています」
静香が「見せた」もの。
それは、クリーンエネルギー、文化発信、そして食料の完全自給。
どれも、我々の持つ技術の一端に過ぎない。だが、軍事的な脅威を一切感じさせず、ただ、この共同体が、いかに平和的で、豊かで、そして自己完結した理想郷であるかを、雄弁に物語るものばかりだった。
(さあ、どうだ?君が報告すべき『悪の組織』の姿は、どこにもないだろう?)
私は、モニター越しに、静香の完璧なプレゼンテーションを見守っていた。
これは、情報を隠すための「防御」ではない。
あえて、管理された「真実」を見せることで、相手の判断を誤らせ、内側から混乱させるための、積極的な「攻撃」なのだ。
時雨は、一連のツアーの間、ほとんど言葉を発しなかった。
ただ、静香の説明に、感心したように頷き、時折、純粋な好奇心から、当たり障りのない質問をするだけだった。その態度は、どこまでも「招待された客」として、完璧だった。
ツアーの終わり。静香は、時雨に優しく微笑みかけた。
「いかがでしたか?私たちの『学校』は」
「……言葉も、ありません」
時雨は、感極まったような表情で、静香の手を握った。
「皆さんが、こんなにも素晴らしいことをなさっていたなんて……。私、何も知らずに、ただ助けていただいて……。本当に、ありがとうございます」
その瞳は、潤んでいるようにさえ見えた。
だが、その時。時雨の背後で、彼女の持つ小さな通信端末のランプが、ほんの一瞬だけ、青く点滅したのを、Nagiの監視システムは見逃さなかった。
彼女は、このツアーの映像と音声を、リアルタイムで、どこかへ送信していたのだ。
――静かなるチェス盤の上で、黒のクイーンが、静かに、しかし大胆に、一歩前に進んだ瞬間だった。




