6.1.最初の駒
第六部 静かなるチェス
6.1.最初の駒
時雨を保護してから、数日が過ぎた。
彼女の足はComfyの治療で完全に回復したが、私たちは「大事をとって」という名目で、彼女を校舎に留め置いた。表向きは、か弱い遭難者への温情。だが、その実態は、盤上に置かれた駒の動きを、注意深く観察するための時間稼ぎに他ならない。
「時雨ちゃん、こっちの手拭い、お願いできるかな?」
「はい、響さん!」
甲斐甲斐しく時雨の世話を焼いていた響は、いつの間にか彼女をすっかり「お手伝いさん」として懐柔……いや、懐柔されていた。洗濯物を畳んだり、Comfyと一緒に食事の準備をしたり。時雨は、常に控えめな笑みを浮かべ、誰に対しても丁寧に、そして完璧に、与えられた役割をこなした。
「いやー、助かるなあ、時雨ちゃんは!仕事が丁寧だし、気が利くし!うちの燈とは大違いだよ!」
「ちょっと響!聞こえてるわよ!」
音楽室から、燈の抗議の声が飛んでくる。
「ふふっ。私、こういうことしか能がないんです。響さんや燈さんみたいに、特別な才能があるわけではないので」
時雨は、そう言って、少し寂しそうに笑う。
その言葉と表情は、響の庇護欲を的確に、そして更に強く刺激した。
「そんなことないって!時雨ちゃんは、人の気持ちが分かる、すっごく優しい子だよ!それって、何よりの才能じゃん!」
「……ありがとうございます、響さん」
響の純粋な善意は、時雨にとって、最も扱いやすい情報源となっていることだろう。私は、司令室のモニター越しに、彼女たちのやり取りを静かに見守っていた。
時雨は、決して自分からは情報を求めようとはしない。
ただ、ひたすらに受け身に徹し、響たちがお喋りの中で零す情報の断片を、一つ一つ丁寧に拾い集めている。
『燈の実験がもうすぐ新しいフェーズに入る』こと。
『静香が、海外の投資家と頻繁に連絡を取っている』こと。
『私が、毎朝同じ時間に、裏山を散歩する習慣がある』こと。
どれも、単体では意味をなさない、些細な情報だ。だが、それらを繋ぎ合わせれば、我々の活動パターンが、徐々に見えてくる。
(……見事なものだ)
彼女は、スパイとして、完璧な立ち振る舞いをしている。
決して焦らず、疑われず、ゆっくりと、しかし着実に、聖域の心臓部へと浸透していく。その様は、まさに獲物の身体に、ゆっくりと毒を注入していく、美しい蜘蛛のようだった。




