03 恥ずべきことと思いますけれど
「ソーン様」
気づけば、ソーンの手はとまっていた。
「どうされました?」
「いえ」
彼は笑みを浮かべた。
オリフェリィ姫は美しい。
こうした姫君とふたりだけで舞台を見物し、差し向かいで食事をする。いまはこの事実だけを楽しもう。
食事を終える頃には、姫も気づくはずだ。ソーンが彼女の遊戯盤に乗ることはないと。
そう思うと、俄然、余裕が出てきた。失敗するまいと緊張していた身体から、余計な力が抜ける。
「姫はいったい、私のどの辺りを気に入られて、誘いの手紙をくださったのか?」
とても面と向かっては訊けないと思っていた疑問が、するりと口をついて出た。オリフェリィは上品に笑う。
「そうですわね。ソーン様が、まるで伯爵ではないように振る舞われるところですかしら」
「私は伯爵らしくありませんか」
「ええ。夜会で女性たちに囲まれても、まるで場違いなところにきてしまったと困惑している……近衛兵のよう」
「まさしく」
彼も笑った。
「どうやら私は、兵士の気質が抜けないままだ。姫様方はお守りする対象であり、気軽に手を取ってよい相手ではないと思うところがあります」
「ですから、ナルエアのお嬢様も、ウィーシェン姫も、パリナス家の姉妹姫も、ソーン様に積極的に話しかけるのをやめたのですわ。友人や兄上などに紹介していただいて、それから一対一でお話をするようにと」
「成程」
ソーンは片眉を上げた。
「私はてっきり、面白みのない兵士上がりなど、姫様方はお気に召さぬものと思いましたが」
「まあ」
冗談だと思うのか、オリフェリィは口に手を当てて目元をほころばせた。
気軽な調子で言ってはみたものの、ソーンには本音だ。オリフェリィが名を挙げたご婦人方は、確かに今年の初め頃、ソーンによく話しかけてきた。
だが近頃はとんと見ない。誰に紹介してもらってもいない、という訳だ。
おそらく、と彼は思う。
それは、宮廷雀などと揶揄されることもある、噂好きの姫君たちだけに通じる礼儀なのではないか。少し話したけれど私の趣味じゃありませんでしたと言う代わりに、ぐずぐずしているふりをする。そしてほかの誰かが標的を仕留めたら、お見事と称える。
そう、男たちがやる狐狩りのようなものだ。
狐が欲しい訳ではないが、興味のある風情を見せて参加し、仕留めた狩り手には名誉を与えて称える。
「ですから、ソーン様が私にお話しくださったとき、落胆した方々も多かったのですわ」
まさか。
「身に余る光栄です」
とでも言っておけばいいだろう。
(ついでだ)
(もう少し、つけ加えておこう)
「しかし、何よりも身に余るのは、こうして貴女を独り占めしていることだ」
「まあ、ソーン様」
公爵令嬢はにっこり笑んだ。そんな言葉で頬を赤らめるほど不慣れではないという辺りか。
「わたくしも、わたくしだけがソーン様を拝見できておりますこと、喜ばしいですわ」
ソーンは必死で、浮かびかけた苦笑を微笑に変えた。
決まりごとのようなやり取り。
それにもかかわらず、ちぐはぐだ。
彼は、心にもないことを口にするのは苦手である。姫を独り占めできて嬉しいのは本当だ。
ただ、先ほどまでであれば――まるで父親の言いそうなことを――気軽に言葉にすることはできなかっただろう。
とにかく、ソーン青年は気楽になっていた。深刻に考える必要はないのだと。
しかしそれは、誤りと言える。
いや、深刻に考える必要は、確かになかったかもしれない。
だが、力を抜いたソーンが取っている態度は、結局のところ、目前の姫君が望んでいるとソーン自身が考えている対応になっているのだ。この矛盾に、ソーン自身は気づかない。
皿が主料理にたどり着く頃には、よく煮込まれた鹿肉に舌鼓を打ち、かすかに効いている香辛料がいいアクセントになっているな、とまで気づくほど余裕を持って話をすることができた。
つまり、話はたいそう弾みつつ、ソーンの主導で進んだということになる。
食後果の皿には乳酪を使った白い菓子が乗り、赤い木の実のソースで紋様が描かれていた。青年は少し甘すぎると感じ、苦い飲み物フォートスで中和をしたが、姫君は嬉しそうに笑んでいた。それまでの食事や接客がよくても、最後の評価が低いと全体的な印象が悪くなりかねない。〈芝居の出来不出来は幕引きにかかる〉と言うが、この店の幕引きは見事だったようである。
ソーンは実に余裕たっぷりと、よい当たり籤を引き当てたガルファーに何か褒美でもやった方がいいのだろうかと、目前の姫からも食事からも離れた考えにまで至っていた。
「終幕の時刻が近づいてきたようです」
ミュルの皿が片付けられると、ソーンは残念そうに肩をすくめた。
「夢の時間は、終わるものですね」
「終わらぬ夜はありませんわね」
ふたりはよく似たことのような、正反対のようなことを言った。
(どうにも、ちぐはぐだ)
彼はまた考えた。
(オリフェリィ姫はとても美しくて――見ていたいとは思うんだが)
それ以上の感情は浮かんでこなかった。
彼女がちょっとしたお遊びを望んでいるのだと考えたときから、ソーンの心は落ち着いていた。
「馬車の用意をさせましょう」
彼は片手を上げて給仕を呼んだ。
「ソーン様がお送りくださるのでは?」
彼女は首をかしげた。
「もちろん、ご一緒します」
オリフェリィを別邸まで送ったその馬車で、中心街区の宿屋まで戻ればいいだろう。
「わたくし」
公爵令嬢は目を伏せた。
「――女の身でこのようなことを申し上げるのは、とても恥ずべきことと思いますけれど」
その前置きに、ソーンはぎくりとした。
と言うのも、師匠の教えが心に蘇ったからである。
(よいか、ソーン)
(ご婦人の言葉には、警戒すべき形式がいくつもある)
(そのなかで最たるもののひとつが、これだ)
「わたくしにこのようなことを言わせないでください」「女の口からこう告げるなんて、はしたないとお思いにならないで」「私に言わせようなんて、ずるい人」などなど。
実際に男が言わせようとしていたかは問題ではない。また、その内容についても、それほど問題ではない。
重要なのはただひとつ。
彼女ら狩人がそうした台詞を口にするときは、獲物を完全に射程距離に納めている自信が、あるときだ。
ゼレットはそんな話をした。
父の判断がいくらか偏っていることは承知だが、ある意味、偉大なる先達であることも確かである。
まずい台詞が出たようだとソーンは焦りながら、しかし何故そういう流れになり得るのかと思いながら目をしばたたいた。
「ウィストが回ったようですの。馬車に揺られるのは少々つらいですわ」
ぐ、とここでソーンはさすがに詰まった。
まさか公爵令嬢が、では宿を取って休みましょう、などと言われることを期待しているとは思えないが――。
「馬車ではなく、ゆっくり歩いて送っていただく訳にはまいりませんか」
「――は」
焦る必要があるほど強烈な台詞ではなかった。
酔ったのだと告げるのが、恥ずべきことだと言ったのだろうか。それとも、もっと長い時間、ソーンとふたりで過ごしたいと告げたこと?
「判りました、我が姫」
青年伯爵はすっと立ち上がると、宮廷式の礼をした。
「仰せのままに」