05 どうしてこんなことが
ぐったりと卓に突っ伏している主を青年執務官は同情の視線で見た。
「あー……ご無事ですか、ソーン様」
「タルカス」
誰かが入ってきたことに気づきもしなかったソーンは、慌てて身を起こした。
「聞くところによりますと」
執務官は書類の束を置くと、両腕を組んだ。
「見事に撃沈されたそうで」
「仕方ない」
ソーンは息を吐いた。
「俺はちっとも、完璧じゃなかったから」
「完璧な人間なんていませんよ。いたら気持ちが悪い」
タルカスは首を振って顔をしかめた。
「でも」
ソーンは知らず、嘆息した。
「『完璧な男』を望まれたら、どうすればいい?」
「何をして完璧と言うかにも、よるかもしれませんねえ」
うーんと彼はうなったが、考えても無駄だとばかりに、また首を振った。
「若く美しき公爵令嬢となりゃ、選り取り見取りですからね。少しでもいい男をと思ってそんなことを言うんじゃないですか。でも、ゼレット様じゃないですが、これこれこういうのが望みであると伝えられてるってことは、脈有りですよ」
「そうなんだろうか。いや……でも俺は、台無しにしたような」
「何をやらかしたんです?」
興味津々という様子でタルカスは問うた。ソーンは息を吐いた。
「〈リリエの白羊〉と〈青い猫が入った箱〉を間違えた」
「は?」
「王城で姫君方に人気の、お伽話だ。聞いたことがあると思って白羊の話を続けたら、猫だった」
「はあ」
それが何だ、という口調でタルカスは言った。
「まさか、それっぱかしで『完璧じゃない』と?」
「少なくとも完璧じゃないだろう」
「ウェレスで行われる芸事の全てを把握してるのが完璧な男なんですか?」
「だから、してなかったら少なくとも、完璧じゃないだろうと」
「物語を間違えたから駄目だと言われたんですか」
「そうは言われなかったが」
「じゃあ、どういうふうに」
「……それは」
『――完璧な男性が好きですと、そう申し上げましたわよね』
どこがどう悪かったと具体的に採点をされた訳ではないが、明らかな失点では、あったはずだ。
「でも、踊ったんでしょう?」
「一曲だけ」
ソーンは息を吐いた。
「ステップは間違えなかったが、そこに気を使うあまり、会話が滞った。何を話したか覚えていないくらいだが、とんちんかんな返答をしたような気もする」
ゼレットの命令――死ぬ気で口説け――を果たす段階になど、足もかけられなかったという辺りだ。父は、大丈夫、あの態度ならば脈はあると言うのだが、慰めだろう。いや、彼は途中でどこかのご婦人と消えてしまったのだから、ソーンの様子をずっと見ていた訳でもないはずだ。
「せっかく足を運んだのに、言葉ひとつ交わせなかったのもいるって聞きましたよ。一曲だろうと踊れたのなら、大活躍じゃないですか」
「あああああ」
ソーンはまたしても卓に突っ伏した。
「いっそ、話しかけなければよかった!」
「まあまあ」
その間、タルカスの顔にはにやにや笑いが浮かんでいたが、幸か不幸かソーンはそれを見なかった。
「ひと仕事終わったら、また手合わせでもやりますか。もっと勘を取り戻して、そうですね、城内の大会にでも出て優勝したら、完璧な男に近づくんじゃありません?」
「無茶だ」
「まあ、そうですね」
簡単にタルカスは、その案を取り下げた。毎日訓練を続けている現役近衛兵に敵うはずもないのである。
「でも、つき合ってもらえるなら、少し頼んでもいいか」
身体を動かして発散するという提案は、悩める青年伯爵にとって魅力的だった。
「もちろんです。俺も勘を取り戻しつつありますからね、そうそう負けませんぜ」
「よし。じゃあ、まずは仕事だ」
前向きにソーンは書類に取りかかった。
オリフェリィ姫にまつわるどんな話をするより、いまや書類束の方が心を落ち着かせてくれた。
ほら見ろ、とゼレットは言った。
「俺の言う通りだったろう」
「何かの間違いじゃないでしょうか」
ソーンは顔をしかめた。
「俺には、そうとしか思えない」
「どこをどう間違えたら、ソーン・クラス=カーディル様と書かれた手紙がお前宛でないことになると?」
「たとえば」
青年伯爵は肩をすくめた。
「封筒を間違えたとか」
「中身にだって、しっかりお前の名前が書かれているじゃないか」
「ええと、侍女が代筆をする際、教わっていた誰かの名前と取り違えたというのは有り得ませんか」
「有り得ないに決まっておろう」
きっぱりとゼレットは言う。
「どうした、ソーン。お前はそこまで、自分に自信がないのか。それでも俺の息子か」
「卑下している訳じゃないですよ。ただ、どうしてこんなことが起こり得るのかと思ってるだけです」
「何をたわけたことを言っている。お前、オリフェリィ姫ばかりを見て、お前を見ている姫君たちのことにちっとも気づいておらんのか」
「はい?」
「お前に声をかけられることを待っている娘たちは、たんといたぞ」
「何をたわけたことを言っているんですか」
思わずソーンは返した。
「いませんよ、そんな変わり者の姫は」
「何。父の言うことを信じないのか」
「世辞や慰めでなければ、欲目ひいき目の類としか思えません」
「何と」
ゼレットはがっかりした顔をした。
「近頃は、よく言い返すようになったものだな。以前は、俺が何を言っても右往左往していたと言うのに」
「おかげさまで、鍛えられました」
息子は感謝の仕草などした。
「しかし、何にせよ、有り得ませんよ」
彼は話を戻した。
ゼレットのところへきたのは、自慢でもなければ、喜んでもらおうという親孝行精神でもない。何かの間違いであると、そう判定してもらうためだった。
オリフェリィ・アシェアからの私的な手紙は、ソーン・クラス=カーディル個人に向けられ、歌劇鑑賞の同伴を求めていているようだった。
ソーンにはそう読めたが、何かほかに解釈がないかと指南をもらいたかったのだ。
だが生憎と言うのか、「女の言葉をそのまま信じるな」と教える師匠も、この手紙はそのままだと言う。
「いったい、どうしたら……」
ソーンは眉間にしわを寄せた。
「文のやり取りをしたことがないのか?」
「友人と近況を報告し合うくらいしか」
女性とはない、と答えた。それも、近況報告ならともかく、逢い引きの誘いへの返答だ。
そんなことは自分で考えるべきだと言われたらそれまでだが、普通ならソーンだってそうする。しかし、オリフェリィは公爵令嬢なのだ。
「ふむ。そうだな。まずは手紙の礼から。いいか、手紙の礼だぞ」
父親は念を押した。
「それから、用事ができたので、姫の指定した日にちを含む数日間、ウェレスへ向かうことになったと書く」
「用事のついでとするんですか? 機嫌を損ねないでしょうか」
「まあ待て」
ゼレットは片手を上げてソーンの疑念を抑えた。
「用事の内容は、件の芝居のあと、近くのよい料亭で、ご婦人と食事をすることだ。相手が決まっていないので、ご一緒していただけませんかと」
どうだ、と口ひげを撫でながら前伯爵は言った。