03 有り得ません
そうした感覚というのは、得てして当たるものだった。
「ここに」
と前カーディル伯爵は、左手をくるりと回した。二本の指の間に、白い封筒が挟まっている。
「一通の書状がある」
「そのようですね」
ソーンは首をかしげた。
「何ですか?」
「気になるか」
にやりとした笑いが大きくなる。
「気になるな。うむ、無論、気にかかることだろう。この」
ゼレットは封筒を持ち直すと、留めてあったと思しき蝋印を指し示した。
「紋章がどこのものであるか判れば、なおさら」
青年はじっとそれを見た。どこかで見たことのあるような、ないような。
「申し訳ありません、父上。判らないようです」
「何だ」
息子が正直なところを口にすれば、父親はものすごくがっかりした顔をした。
「俺が言ってしまうのでは、面白くない。お前が自分で気づき、何だろうかと胸を弾ませる、その顔が見たかったのに」
「すみません」
何だか判らないが、謝っておいた。
「どちらからのお手紙なんですか?」
ソーンには見覚えがない。ということは、「カーディル伯爵」ではなく、ゼレット宛の書状だったのだろう。
「読め」
と、ゼレットは差し出した。
「よろしいんですか?」
「少なくとも俺宛の恋文ではない」
誰が読んでもかまわないものである、というようなことを言いたいらしかった。
「拝見します」
首をひねりながらソーンは封書を受け取り、はたと気づいてゼレットに椅子を勧めた。男はうなずいて歩を進め、訪問者用の椅子に腰を下ろしたが、主然としていた。
伯爵はソーンでも、この館の家長はゼレットであるから、彼が主と言えば主だが、それだけでもない。
一年半前まで、彼はこの部屋で仕事をしていたのだ。
思いがけぬ襲撃がなければ、いまでも同じだっただろう。
カーディル城の猫たちは、どこもかしこも我がもの顔で駆け回るが、カティーラはゼレットを好いている。時折、母白猫がふいっとこの部屋を訪れては、間違えたとばかりにさっさと出て行くことがあった。そのあとで、客室を新たに整え直したゼレットの部屋に向かって彼女用の敷物の上で丸くなるのだが、その敷物だって何ごともなければこの部屋に敷かれていたはずだ。
どうしてこういうことになっているのだろう、とソーンはいまさらのように考えた。
何度も考えているのだが、答えは出ない。或いは、これが運命だとでも言うしかない。
そうして青年は封書を開き、細かい縁飾りが描かれている書状を引っ張り出すと、ざっと中身を眺めた。
季節の挨拶にはじまり、ゼレットの体調を問う、礼儀正しいがごく普通の文章が続く。
それから、いついつに夜会を開く予定があるというような内容が続いた。要するに招待状だ。
ソーンがおやと思ったのは、文章が「カーディル伯爵」を招いていることだった。
まだ、ゼレットが引退したことを知らない貴族がいるのだろうか。はじめの内は、よくあった。いまだにというのは少し考えづらいことだが、単にうっかりしただけかもしれない。
あまり気にせずにソーンは読み進め、その署名を見て、目をぱちくりとさせた。
「――これは、アシェア公爵閣下からの」
ウェレスの重鎮にして、美しきオリフェリィ姫の父親。
「その通り」
ゼレットはぱちんと指を弾いた。
「何とも好機ではないか、息子よ」
「な……何がですか」
ぎくりとしながら、若伯爵は尋ねた。
「『何がですか』はなかろう。お前がひと目でオリフェリィ姫の虜となったこと、この父が気づいていないとでも思ったか」
胸を張ってゼレットは言い、ソーンは慌てて手を振った。
「虜だなんて。お美しい方だなと思いましたし、一曲お手を取らせていただきましたけど、それだけですよ」
「姫に何か言われて、振られたと思い込んでおるな。うむ、我が息子ながら可愛らしい」
「何がですか!」
ソーンは叫ぶような声を出した。
可愛いと言われても嬉しくなどないが、青年はそれに苦情を言ったのでもない。
いったい父は何を言い出したものかと、訳が判らなかった、いや、不安に思ったのだ。
「よいか。かの姫が、お前の心に残るような台詞をわざわざ口にしたのならば、お前は姫に印象を強く与えることができたということだ」
「……はい?」
「本当に何とも思わなければ、期待も落胆もさせず、ただその場をあとにするのが女というもの」
「あの。いくらか断定的すぎませんか」
胡乱そうにソーンは言った。
「うむ。いくらかはな」
ゼレットは指で、ほんのわずかな量を示した。
「しかし出鱈目でもないぞ。貴族の姫方が仕込まれる話法は、礼儀作法に基づくものばかりではない。自分から積極的に接する場合、相手を動かしたい場合、男を落胆させる台詞はもとより、期待を持たせる台詞であってもそのまま鵜呑みにするのは危険だ。一度引き上げて、落とす。落としておいて引き上げる」
ウェレス宮廷切っての伊達男は、芝居がかって掌を上下させた。
「彼女らには『教師』がいる訳でこそないものの、宮廷雀同士のお喋りは時に、生々しい性教育だ」
「ちょ、あの、父上」
「ああした女たちの自慢話は、女の虚栄心のみならず、想像力を煽るもの。男を知らぬ生娘ですら、知識ばかりは宮廷一の男喰らいと言われるご婦人並み」
「は、はあ」
とうとうと――楽しそうに――語る父に、気の毒にも息子は言葉を失った。
「要するにだな、息子よ。先日の夜会でお前がオリフェリィ殿に何を言われたとしても、彼女はお前に興味があるからこそそう言ったのだと心得よ」
「いや、それはないです」
ぶんぶんとソーンは手を振った。
「有り得ません」
「何。父の言うことを信じないのか」
「父上がオリフェリィ姫とお言葉を交わした訳ではないではありませんか」
「だが、彼女の母セラエシィとならば、あるぞ」
「あまりお答えになっていないと思います」
ゼレットが公爵夫人と言葉を交わそうと――それ以上だろうと――何も不思議ではないが、いまの話とは何も関わらないであろうに。
「何を言う。さすがの俺も、若い頃はセラエシィの言動に翻弄されたものだ。うむ、まるで昔の俺と彼女を見ているようだ。懐かしい」
「誤解のないように申し上げておきますが」
ソーンは慎重に続けた。
「私は、かの姫と一曲踊り、少しお話をした『だけ』です。翻弄するのされるの、父上のお好きな話になるには、ほど遠く」
「遠いならば近づけばいいだけのことだ。幸い、うちの馬は駿馬揃いなのだし」
ゼレットはソーンの持つ書状を指し、理屈に合うような合わないようなことを言った。
「オリフェリィ姫が、夜会の開催自体をアシェア閣下にねだったかは判らん。だが少なくとも、お前を呼んでほしいと、彼女は父親にそう頼んだのだ」
「どうしてそうなるんです」
顔をしかめて、ソーンは尋ねた。
「父上はアシェア閣下と交流がおありなのでしょう。会に招待があることは、意外なことでもないはず」
「それならば、お前に書状を送り、父上もどうぞご一緒にと書けばいい。俺だけを誘いたいなら、わざわざ『カーディル伯爵』と書く必要などない」
「父上のことなんじゃないですか。うっかり、筆が滑ったとか」
「仮に閣下がうっかりされたとしても、執務官が気づく」
称号を間違えるなど、はなはだ失礼なことである。
伯爵だった者を伯爵と呼んでも大して問題はないように思えるが、そうでもない。現伯爵たるソーンを認めないという解釈になり得るし、それはソーンを貶めるだけではなく、彼に爵位を譲ったゼレットの判断を危ぶむという揶揄になりかねないからだ。
もっとも、そこまで裏を読みたがるのは一部の人間、これもまた一種の宮廷遊戯を楽しむ類の人種だけ。普通は単なる誤りだろうと深く気にしないが、執務官たちは誤解を招くことを怖れ、明らかなる私信以外は慎重に確認するものだ。
「その書は、私に、お前を連れてこいと言っているのだ」
判らぬか、とゼレットはにやりとした。
判るものか、とソーンは嘆息した。
「面白いことになってきた。本音を言えばな、オリフェリィ姫は厳しいだろうと思っておったんだ。だが的を外した」
ゼレットはにやりとした。
「的を外してこれだけ爽快なのは久しぶりだ」
楽しそうに前伯爵は笑った。ソーンは一緒になって笑うどころではない。父が何かとんでもない勘違いをしているのではと心配しきりだった。
「招待状を手にしてにやついているところに、キュレイの吉報だ。幸先がいい。いいか、息子よ」
はい――と言いたくない気がする。
「セラエシィを陥とした手段を全て伝授する。死ぬ気で、彼女の娘を口説け」
にっこりと笑って父親は命じた。
いまの十倍の書類束を半刻で処理しろと言われる方がずっと楽だと息子は思った。