02 オリフェリィ姫
椅子に腰かけて書類を読み続けたり、何か書いたりしている時間がいちばん苦痛だ。
返書が必要なことがあれば、文章自体はミレインやタルカスが考えてくれるし、数が多いときは代筆もしてくれるが、署名は彼自身が行わなくてはならない。ソーンは文字を書くのがあまり得意ではないのだ。
生まれがよいから、教育は受けている。つまり読み書き能力自体はきちんと備わっているものの、筆よりも剣を握ってきた手にはあ、流麗な文字を書くことが難しいのだ。
一段落したところでソーンがひとり、凝った肩をほぐすように首を回していると、戸が叩かれる音がした。
「閣下、お休みになってはいかがですか」
「ああ、キュレイ」
見慣れた女使用人の姿と、手にした盆の上にある茶杯を目にして、ソーンは息を吐いた。
「ちょうどいい。落ち着いたところだ」
「そうだろうと思いました」
キュレイはソーンよりいくつか年下だが、伯爵家に仕えて五年以上経つ。もう熟練と言っていい。
「あの、少しお時間、よろしいでしょうか」
万一にも書類に茶がかかったりしないよう、執務の卓とは異なる小さな丸卓に杯を置きながら、キュレイはソーンを見た。
「もちろんかまわないが。どうかしたのか」
ソーンは首をかしげた。彼女がこんなことを言ってくるなど、珍しい。
「アリシアかルトフォーンが、何か?」
それはカーディル城に住み着いている二匹の猫の名前だった。〈星の姫君〉の名を持つ先住猫カティーラの子供たちであり、それぞれ〈海神の娘〉アリシア、〈山神の息子〉ルトフォーンと、大仰な名前がつけられていた。
キュレイは別に猫の世話係として雇われているのではなかったが、可愛がっているので懐かれており、結果として世話係のようになっているところがある。ゼレットなどは冗談混じりに「うちの猫番」と呼んだ。
「いえ」
しかしそれは的を外したようだった。キュレイは苦笑する。
「お暇をいただきたいんです」
その言葉にソーンはぽかんとした。
「何か……不都合でもあったのか」
開けてしまった口を閉ざすと、ソーンは真剣に尋ねた。
「待遇に不満があるなら、言ってくれ。改善できるかもしれないのに、不満を黙って抱えられて去られるのが、いちばん困る」
「そうじゃないんです」
キュレイは手を振った。
「私、ボリーと結婚します」
「……は」
ソーンはまた、口を開けてしまった。
「本当は、ボリーも一緒にご報告するべきなんでしょうけれど、彼、照れてしまって」
掃除人の若者と彼女が恋仲であるのは周知のことだった。
「そうか。……そうか、それはめでたい話だ。おめでとう」
「有難うございます」
キュレイは頭を下げた。
「仕事を続けることも考えたんですけれど、早く子供も欲しいし、相談をして、決めたんです」
「そうか」
ソーンはまた言った。そう言うしかない。
「判った。めでたいが、残念だな。いや、残念だがめでたいと言うべきなのかな」
ぶつぶつと若き伯爵は言った。有難うございます、とキュレイはまた言った。
「今日明日ということでは、ないんだろう?」
「ええ、新しい人が入るなら、いろいろ引き継いでからと思ってます」
「助かる。早速、誰か見つけてもらおう。それとも、心当たりでもあれば」
「従妹が仕事を探してます。遠くの町にある富豪の館で使用人をしているのですが、その富豪が破産をしてしまって、解雇が確定なんです」
「それはたいへんだ」
「よろしければ呼び寄せますから、ミレインにでも面接をしてもらって、それでよければ使ってください」
「助かる。呼んでくれ」
身内の紹介とは言え、後任のことまでちゃんと考えてくれた娘に、ソーンは礼を言った。
「ゼレット様には?」
「これからお話しにうかがいます。まずは伯爵閣下にと」
キュレイは笑って言った。ソーンが、ゼレットより先んじられることを苦手にしているのを知っていて笑うのだろう。
「カラン茶、ソーン様のお好みに合わせて、濃いめに淹れてありますから。冷めない内にどうぞ」
幸せそうな顔をした娘はそう言って部屋を出て行った。ソーンは立ち上がり、せっかくの好意を無駄にしないよう、湯気の立つ茶杯を手にしに向かう。
(結婚、か)
遠からぬ内に、彼も誰かを娶ることになるだろう。それは義務でもある。何のために、子を持たない――表向きは、ということだが――ゼレットが、養子を取ってまで後継者を用意したか。
普通に考えれば「自らの流れを絶やさないため」だ。
たとえ血のつながりがなくとも――ソーンとゼレットの場合は、実際にはあるのだが、表向きには、ない――養子を取れば、それは彼自身の後継者。ゼレット・カーディルの流れを汲む者となる。
しかし、後継者が欲しかったならば、養子など取らずとも、さっさと再婚をすればよかったはずだ。父には、息子に理解不可能な性的趣味があるが、男女を問わないだけで、男にしか興味がない訳でもない。
妻亡きあと、ゼレットは長いこと、再婚を考えなかった。自分が死ねば、次に手柄を立てたほかの誰かが次のカーディル伯爵となる、それでかまわないと思っていたと、前伯爵は息子にそう話した。
彼がその考えを変えた理由には、いささか不思議な話が絡む。
ソーンは半信半疑だが、あまり魔術的なものを好まないゼレットが真剣に話す様子は、彼をからかっているとも思えなかった。
もっとも、その話が問題となるのは、およそ五十五年ほど後のことだ。
その頃には、ゼレットはもとよりソーンも世を去っている可能性が高い。
だが、だからこそ彼は次なる伯爵、彼の息子なり娘なりに、同じ話を伝えなければならない。それが、彼の義務だ。
(俺があまりに不甲斐なければ、父上もしびれを切らして、どこかの姫君を見つけてくるかもしれないな)
そうなるのではないか、という予感がしていた。
いっそ、その方が楽でいい。
彼には無理だ。
『申し訳ありませんけれど、ソーン様』
『わたくしは』
涼やかな声が耳に蘇った。
ああ――美しき、オリフェリィ・アシェア公爵令嬢。
オリフェリィ姫は、ソーンがこれまで目にしたどんな女性よりも美しかった。
初めて自分から声をかけたいと思い、なけなしの勇気を振り絞って、舞踏を申し込んだ。応じてもらえただけで、天にも昇る心地だった。
しかし、やらかしてしまったのだ、彼は。
気を惹く話をしようと、ゼレットに伝授された話術を駆使したが、彼女はくすりともしなかった。儀礼的に微笑みはしたが、それだけだ。
緊張のあまり、一度だけ、ステップを間違えた。
派手な間違いではない。たった一度、大きく一歩を踏み出すべきところで、出方が中途半端になっただけだ。
そしてそのあとで、オリフェリィ姫は言った。
「わたくしは、完璧な男性が、好きですの」
儀礼的に微笑んで、美しき姫君はソーンから離れた。
それだけのことだ。それだけの。
もとより、公爵令嬢など、伯爵にだって高嶺の花。加えて婚約者もいない二十代前半の美女となれば、狙っている男は山のようにいる。一曲つき合ってくれたことだけでも信じられない話なのだ。
はっきりと断られてこれ以上押したり、妻にと夢見たりすることは、ソーン青年の気質にはなかった。
きらびやかな時間は、ほんの数分で、過ぎ去った。
それだけのことだ。それだけの。
「ソーン! 話がある!」
叩きもせずに扉は開かれ、ソーンはびっくりして茶杯の中身をこぼしかけた。
ずかずかと伯爵の執務室に入ってきたのは、四十の半ばから後半、整えられた口髭を生やし、長い髪をうしろでひとつに束ねている、彼によく似た男だった。
「父上」
言わずと知れた、それはゼレット・カーディルである。いつもながら突然の登場に、息子は茶杯を置き、ほとんど反射的に、伯爵に対する礼をした。
もちろんいまでは、彼がそれを受ける立場にいる。はじめの内はともかく、いまでは滅多に「つい」やってしまうことはなかった。
ただ、驚かされると、近衛兵をしていた間に染みついた癖が出てしまうこともある。
いつもはそれを笑って諭す、或いはからかうゼレットであるが、今日は手を振っただけで終わらせた。
「キュレイの話を聞いたな」
「はい、聞きました。何か祝いでも、用意してやりたいですね」
「そうだな。だが、俺はその相談をしようとやってきた訳ではない」
ゼレットの顔には、にやにや笑いが浮かんでいた。
(何だろう)
ソーンは目をぱちぱちとさせながら考えた。
(……何故だか、嫌な、予感がする)