03 恋の季節
「実は」
「はい」
「ここだけの話にしてもらいたいんだが」
声をひそめれば、新人は真剣な顔をした。
「は、はい」
「彼は以前からの友人で、レスキルというのは偽名だ」
「偽名ですって?」
「そうなんだ。しかし、そのことは誰にも言わないでもらいたい。そして、彼がまたやってきたら、すぐ俺に知らせてくれ」
たぶん「彼」は、またあの顔と名前でやってくるはずだ。
「わ、判りました」
セイミはこくこくとうなずいた。密命を請け負ったとでもいう気持ちになったか、緊張した顔を見せている。ソーンは笑った。
「何も気負うようなことじゃない。ただ、彼が門前払いを受けるようなことにしないでくれと言うだけ」
その気になればレスキルは、案内など受けずにソーンの執務室にだって魔術でやってこられるだろうが――事実、カーディルの町の手前まで、彼はそうしてきているはずだ――そんなことは失礼だとでも思うらしく、いつでもきちんと案内を請う。
「お任せください」
セイミはにっこりと笑んだ。ソーンも笑み返した。
従姉に似て、感じのいい娘だ。
「ほう、これはなかなか、感じがよい」
「ゼレット様」
「父上」
ふたりは揃って、現れた前伯爵に礼をした。
「ソーン。面白い話があるが、聞きたいか」
「ええ、ぜひ」
「聞きたくない」と言っても聞かされるに決まっているが、素直に「何だろう」と思ったことも事実である。
「セイミ、父上に茶を」
「いや、酒だ。葡萄酒を二杯」
「俺はまだ業務があるのですけれど」
「少しくらい、かまわん」
それを決めるのはゼレットではなくソーンであるはずなのだが、父親は頓着しなかった。
「話だが」
ゼレットは先に立って執務室に入った。ソーンは続きながら、何ですかと促した。
「ウェレスで、お前とオリフェリィ姫の噂がますます盛り上がっているそうだ」
その言葉にソーンはぶっと吹き出した。
「どうしてそうなるんです!」
若伯爵は悲鳴を上げた。
「世論では、お前が姫にぞっこんだということになっている」
「だから、いったいどうしてですか」
情けない顔をしてソーンは問うた。ゼレットはにやにやしている。
「お前、オリフェリィ姫に、ずいぶんと甘いことを言ったようだなあ」
「大したことは言っていませんよ、父上じゃあるまいし」
「何を言う。俺がご婦人に愛の言葉を囁くときは、常に本気だ。くだらない社交辞令などではないぞ」
「社交辞令で済ませるべきです。ミレインへの求愛が本気でいらっしゃるなら」
「無論、本気だ」
「ならどうして、ほかの女性と夜をともにするんですか」
「以前に比べれば、かなり減ったのだぞ」
「それで言い訳をされたおつもりですか」
「言い訳になっているじゃないか。もっとも、体力の低下を覚えたためもあるんだがな」
少しも悪びれない調子で、ゼレットは口髭を撫でた。
「いや、俺の話ではない。お前の話だ」
「あの日の出来事は、父上にみんなお伝えしたじゃないですか」
「うむ、聞いた。陥とす意図であったなら及第点をやりたいくらいだが、そうではなかったと言うのだから奇妙な話だ」
「緊張が取れたせいで、気軽に話ができたんですよ」
あのときも言いましたけれど、とソーンは呟いた。
「もちろんのことだが、俺はその話をウェレスで誰かに喋ったりはしておらん。言うまでもなく、ガルファーもだ。ならば、何故噂になっているのか?」
「姫が話したんでしょうか」
「それ以外、なかろうな」
ゼレットはうなずいた。
「噂を広める意図があったにせよなかったにせよ、結果として話は広まった」
彼女が多くの宮廷雀たちがいる場所で話をしたのか、信頼できると思った友人ひとりに話したら広められてしまったのかは判らない。
だが何にせよ、ソーンがオリフェリィに向かって「あなたを見ていられればそれでいいんです」と言った――という話は現代の純愛物語として、姫君方に大評判だと言う。
ソーンはぽかんと口を開けた。
「俺はそんなこと」
「言わなかったのか?」
「い……」
言った。
鑑賞をしていたいが特別な交際は望まないということを告げようとして、そこに、賊が襲いかかってきた。
『あなたを見ていられれば、それで』
かあっと頬が熱くなった。
そこだけを切り取れば、間違いなく、それは純愛青年の台詞だ。
「違うんです、父上、俺は」
ソーンは慌てて、ぶんぶんと手を振った。
「俺に説明をしたところで仕方がない。お前がかの姫を嫁にと思っていないことはよく知っているのだし、次の算段も整えているところだ」
「つ、次の、ですか」
「貴族の姫ではお前が萎縮するようなのでな、もう少し気軽なところを攻めてみようかと思っておる」
にやにやとゼレットは言った。ソーンは天を仰いだ。
「何度も申し上げていますように、俺は父上が『この婦人と結婚しろ』と仰るなら従いますが、気軽に誰とでも交際をするなどは」
「一対一であればよいのであろう」
「それはそうですけれど、幾人かを試すなどというやり方はどうかと思うんですよ」
「結果的にそうなるだけであって、最初からお試しというつもりでなければ、よいだろうが」
「そういう結論を前提にしているならば、詭弁です」
「小うるさい奴め」
父親は顔をしかめた。
「だが何にせよ、噂が立ってしまったものは仕方がない。お前はオリフェリィ殿に求愛を続けており、姫の方でもまんざらでもないということに」
「誤解ですが」
「事実がどうかではない。人が何を真実と思うかだ」
まるで宮廷の醜聞などではなく、何か深遠な物事を話しているという風情で、ゼレットはゆっくりとうなずく。
「とにかく、お前はそれにどう対応していくか、決めておいた方がよいぞ」
「困りましたね」
言葉の通りに困った顔でソーンは両腕を組んだ。
「その言葉を否定すれば、オリフェリィ姫の体面を傷つけることになってしまう」
彼女が嘘をついたか、勘違いをしたかということになるのだ。実際、勘違いだが、あの一語だけを取ればソーンが彼女にぞっこんだと思っても何もおかしくない。
「それに、このままではますます〈エリファラン〉です」
ヤクレーンが命を落とすというようなことこそないにしても、ほかの男との噂など、あの戯曲を地でいく話だ。護衛の剣士が姫君をどう思っているかは判らないままだが、少なくともオリフェリィは、同じ連想をしているだろう。
(まさか)
(〈エリファラン〉ごっこがしたくて、自ら噂を流したんじゃあるまいな)
そんなこともないだろうと思うが、もしそうだったら――などと考えると頭痛がしてきた。
「エリファランか」
ヤクレーンのことはガルファーがゼレットにも話していた。
「身分違いの恋。何とも燃える話だな、息子よ」
「苦しいだけでは、ないのですか」
叶わないと思いながら恋心を抱き続ける。それはつらいことのように彼には思えた。
「何の。恋というものは、障害があった方が盛り上がるのだ」
ゼレットは、取りようによっては前向きと取れることを言った。
「もっとも、結ばれて平穏に落ち着いてしまうと、物足りなく感じてしまうのが玉にきず」
「父上」
ひょうひょうと言う父親に、息子は顔をしかめた。
「物足りないなどという仰いようは……」
「つまり、やはり障害などはない方がよいな」
うんうんとゼレットがソーンの言葉を遮ってうなずいたとき、戸が叩かれた。
「お持ちしました」
セイミが盆を持って部屋に入ってくる。
「ゼレット様」
「うむ」
「ソーン様」
「いや、俺はいい」
彼は手を振って、酒杯を断った。
「何だ。せっかくセイミが持ってきてくれたのではないか。受け取れ」
「父上が命じたんじゃありませんか」
「俺の命令だろうとお前のそれだろうと、使用人が仕事を果たしたらねぎらうのが上の者の仕事でもある」
「ねぎらっていますよ。何も怒鳴りつけたりしていないじゃないですか。有難う、セイミ。戻ってくれ」
「まあ、待て、セイミ」
しかしゼレットは彼女を引き止めた。
「アリシアは?」
前伯爵は猫の話を聞きたいようだった。使用人は盆を持ったまま、返事をする。
「相変わらず、姿は見えません。でも、そろそろ時季なんじゃないかって話になりまして」
「時季、とは」
「ええと、つまり」
セイミはこほんと咳払いをした。
「恋の季節、です」
「ああ」
ソーンは曖昧にうなずいた。
誰も彼も、恋をして結婚、だ。