02 猫番なんてどうだ
「それはどこから出た名前なんだ?」
「ああ、何つうか」
彼は頭をかいた。
「その場しのぎで知った顔の名前を使うと、いろいろと面倒が起きることが判ったんで。適当な名前を〈塔〉……知人に考えてもらったんだ」
とにかくそう呼べよ、と彼は繰り返した。
「うん、まあ、そうしろと言うならそうするが」
エイルという名の青年魔術師は、ソーンがカーディルにくるよりも早く、ゼレットをはじめとするカーディル城の面々と顔馴染みだった。
思いがけない事故がこの青年魔術師と前伯爵の間を分かったが、どうしてか誰も、それを修復しようとしなかった。「よんどころない事情」だとエイル――レスキルは言うが、その事情とやらは、カーディル最高権力者たる領主ソーン・カーディルに知らされてはいなかった。
しかしソーンは、信頼している彼らの言わぬことを無理に聞きだすつもりはなかった。だいたい、地位上はともかくとして、気持ちの上ではゼレットに命令などできないし、ミレインが口をつぐもうと思ったら、ソーンの命令ごときで言いなりになるはずもないのだが。
「実は、タルカスがいなくなるんだ」
このときも事情を問うことはせず、ソーンは思い至ったことを口にした。
「何だって?」
驚いたようにレスキルは目を見開いた。
「辞めるのか?」
「まさか」
伯爵は肩をすくめた。
「ウェレスに、ガルファーという執務官が詰めていたんだが、彼と交替することになった。ガルファーが覚えてきたことがいまの俺のためになるからと言うのと、タルカスにもウェレス事情を覚えてもらおうと言うのとで、話がまとまったんだ」
できたばかりの恋人と離れなければならないというのでタルカスは渋った顔を見せたが、それくらいで振られるなら所詮それまでだとゼレットに言われて諦めたようだった。
「へえ、そうなのか」
レスキルはあごの辺りをかいた。
「何もかも、いつまでも同じじゃないな」
ソーンが呟けば、レスキルはかすかにうなずいた。
「そうだな」
ふっと降りた雰囲気を振り払うかのように、ソーンは笑みを浮かべた。
「たぶんミレインは、俺から友人を奪うみたいな感じになることを気にしたんじゃないかな。タルカスはもちろん俺を『伯爵』として扱うけど、それでも仲のいい友人みたいなつき合いをしてくれたから」
「ソーンが寂しがるんじゃないかと、俺を?」
魔術師は顔をしかめた。
「俺はかまわないけど、ミレインらしくないような」
「そうかな」
伯爵は肩をすくめた。
「俺は、そうは思わないけど」
彼が言えば、レスキルはふうんと応じた。
おそらくミレインは、魔術師協会を通して、彼に伝言を送ったのだろう。それならそうとソーンにも言えばいいのに、黙っていたのは、彼が応じるかどうか判らなかったからか。
業務上では厳しい執務官だが、こうした気遣いも有難いなとソーンは思った。
「ところで、剣は続けてるかい?」
伯爵が尋ねれば、魔術師は首を振った。
「最近は、さっぱり」
「そうか。たまに手合わせでもしてもらえればと思ったんだが」
「元近衛の相手なんか無理だよ」
彼は肩をすくめた。ソーンは片眉を上げる。
「以前には、たまにやったじゃないか。真面目にやれば、もっと上達するだけの腕を持ってる」
「嬉しいこと言ってくれるね。でも生憎、それ以外に忙しいのさ」
レスキルは何か印を切るような仕草をした。魔術を行った訳ではなく、「魔術というもの」を示してみせたつもりなのだろう。
「ところで」
次にはレスキルがそう言うと、にやりとした。
「嫁さんはまだ決まらないのか?」
「幸か不幸か、そのようだよ」
他人事のようにソーンは返した。
「だいたい、そっちこそ」
「俺のことはどうでもいいんだよ」
魔術師は手を振った。
「伯爵閣下には、結婚だって仕事だろう」
「それは、判っている。父上が命令をしてくるなら従うんだが、そうじゃないから困っている」
「困っている?」
「多くの姫君と言葉……いや、それ以上のものを交わして、経験を積めと」
若き伯爵は嘆息した。
「ゼレット様らしいな」
レスキルは笑った。
そこで戸が叩かれ、セイミが盆を持って姿を見せた。
「ああ、有難う」
伯爵は彼と客人の前に茶杯を置いた使用人に、丁寧に礼を言った。
「どうした?」
セイミがそのまま立ち去らず、少しの間じっと立っていたので、ソーンは尋ねた。娘は慌てたように首を振り、謝罪の仕草をして部屋を出た。
「何だ?」
レスキルが不審そうな顔をする。
「新人なんだ。慣れていないんだよ」
たぶんそういうことだろうと思い、説明した。
「ああ、そうだ。キュレイが辞めるんだ。ボリーとの結婚のためにね」
「そうなのか。そりゃめでたいな。ああ、でもカーディル城からは優秀な使用人が減ることになるのか」
「確かにね。だが、いまのセイミが彼女の従妹で、なおかつ後任なんだ」
「成程ね」
彼は呟いた。
「いつまでも同じじゃない、な」
今度はレスキルが言い、ソーンがうなずいた。
「まあ、特に話がないなら、この茶だけもらって帰るよ」
「きたらきたで、それなのか。もっとゆっくりしていけよ」
「お前だって仕事があるだろう。それに俺は、ほかの連中と『久しぶりだな』とはやれない顔をしてるんだから」
「それなら、魔術を解けばいいだけのことじゃないか」
「そうもいかないの」
よんどころない事情が、とレスキルは繰り返し、仕方なくソーンは繰り返さなかった。
「じゃあ、その代わり、またきてくれ」
「何をしに?」
「話をしに、でいいじゃないか」
それとも、と彼は言う。
「キュレイの代わりに、城の猫番なんてどうだ」
「冗談」
「いい案だと思ったんだが」
「忙しいんだってば」
「判ったよ」
でも、とソーンは続けた。
「またこいよ」
「判ったよ」
今度はレスキルが仕方なく答えた。ソーンは満足して笑った。
あのとき以来、この魔術師とは機会を見つけて連絡を取っていたものの、彼はカーディルにやってくることを避け続けていた。
だが、こうして一度やってきたからにはこちらのものだ。次の約束を取りつけることができる。
そうして友人はまたなと言って去り、ソーンは笑みを浮かべたままで執務室へと戻った。
するとそこで、青年伯爵は新人と行き会う。
「まだアリシアを探しているのか」
初仕事が猫探しとは、難儀なことだと伯爵は思った。人懐っこい猫であればまだしも、アリシアはキュレイにすら抱き上げられることを嫌がる。
「それもありますけど」
セイミは少し迷ったが、思い切って口を開いた。
「さっきのお客様」
「彼が、何か?」
「お友だちだったんですか?」
問われて目をしばたたく。
「何故……ああ、名前を知らないと言ったからか」
「あの。差し出がましいこととは思いますけど」
少しうつむいてセイミは呟き、ぱっと顔を上げた。
「もし、変な人が何か変なことを言ってきてソーン様を困らせているんだったら、教えてくださいね! 私にできることがあるかは判りませんけれど、精一杯」
これにはソーンは吹きだしてしまった。今度はセイミがまばたきをする。
「いや、すまない。有難う、セイミ。でも大丈夫、彼は俺の醜聞を掴んでゆすりにきたのでもないし、怪しげな占い師のごとく破滅の予言を持ってきた訳でもない」
笑いながら言って、ソーンはどうしようかと考えた。