01 昔馴染みの友人
オリフェリィからは、その後、丁重な礼の手紙が届いた。
楽しい一夜であったことにはじまり、狼藉者を退治したソーンを称える言葉などが書かれていたが、次の誘いもなければ、何か今後のことを匂わせる文脈はいっさいなかった。ゼレットですら、存在しない裏を読み取ることはできなかった。
ソーンは返事を書き、ヤクレーン殿によろしく、というような一文をつけ加えておいた。彼女がどのような顔をしてそれを読むのかと思うと、笑いがこみ上げた。
初恋をした少年のようなときめきは、もう立ち上ってこなかった。
それは少し安心できるような、少し落胆するような。
ガルファーの「オリフェリィがソーンに夢中になるかも」というのは結局のところ執務官の冗談だったようで、あの日のゼレット及びガルファーの判定は、ソーンが積極的に行かないのならばこのまま収束するだろう、というものだった。
ゼレットもまた、安心したようながっかりしたような様子であったが、では次だなと言って息子を困惑させた。
だがそれももう、半月前のことだ。
夜会の予定はいくつか組まれているものの、総じて、青年伯爵は何ごともない日常生活に戻ったと言えるだろう。
酷く寒い、南の冬。
陽射しは弱いが、だからこそ太陽が愛しく思える。
昼過ぎにカーディルの町の視察を終えて館に帰ってきた伯爵は、ソーン様、と声をかけられた。
本来ならば、彼は「閣下」と呼ばれる身だ。だがどうにもこそばゆくて、なるべく名前で呼んでくれと頼んでいる。
ミレインなどは「閣下は閣下です」と言って聞き入れてくれないが、タルカス辺りは適当に使い分けてくれる。使用人たちも、仕事中の彼に話しかけるときは「閣下」と呼ぶが、ちょっと行き会ったときであれば「ソーン様」だ。「様」だってこそばゆいが、それも避けろと言う訳にはいかない。
爵位を継ぐ前に親しくなった警護の憲兵や使用人の幾人かは、主に名前で呼んでくれる。彼らの内の誰かだろうかと振り返ったソーンは、見覚えのない顔に首をかしげた。
「君は?」
「あ、昨日新しく入りました。キュレイの従妹の、セイミと言います」
ぺこりと頭を下げたのは、成程、どこかキュレイに似た雰囲気を持つ、二十歳前後の娘だった。
「ああ、そう言えば。聞いている」
思い出してソーンはうなずいた。
「ご挨拶が遅れまして、すみません」
「かまわない。引き継ぎが忙しいんだろう」
キュレイはこまごまとたくさんの仕事を抱えていたはずだ。丸ごとセイミに引き継ぐのではなく、新人が引き受けるものは少量だろうが、新しい場所で新しい仕事に慣れるまでは時間がかかるものだ。
「引き継ぎと言いますか」
セイミはざっと結い上げた茶色い髪をかいた。
「アリシアを捜索するのに、時間がかかってしまって」
新人の娘はカーディル城一のやんちゃ猫の名を口にして顔をしかめた。
「捜索? 遊びに行ったまま帰ってでもこないのか」
「そうなんです。ルトフォーンは心配して城内をうろうろ、ご飯をやっても食べないし」
「それは心配だな」
「ええ、そうなん……あ」
「うん?」
セイミが口に手を当てたので、ソーンは何だろうかと思った。
「すみません、そんな話をしようとしたんじゃありませんでした」
彼女はぺこりと頭を下げる。
「かまわないが」
ソーンはまた言った。
「猫たちは、俺には特に懐いてもいないが、まあ、彼らも城の住民みたいなものだからな。その安否には、俺も責任を負うべきだろう」
伯爵が真顔で言えば、セイミはふふっと笑った。
「可笑しいか?」
「すみません、だって、伯爵閣下がそんなこと仰るなんて」
「ここじゃ猫は、時に伯爵より偉いんだ」
カティーラがゼレットの執務の椅子に眠り込んでいたとき、ゼレットは猫をどけずに自分が違う椅子を使ったりすることもあった。ソーンはそこまでやったことはないが、それは、カティーラがソーンの椅子には眠らないからだ。
「あまりに見つからないようなら、知らせてくれ」
「判りました。……あ、ソーン様」
そのまま去ろうとした伯爵に、娘は慌てて声をかけた。
「ですから、アリシアの話をしようとしたんじゃないんです」
「挨拶か?」
「それもですけど、ええと、ご友人がお見えです」
どうやらそれがソーンを呼びとめた本題だったらしい。
「友人?」
彼は首をひねった。約束をしていた覚えはない。そう告げれば、セイミはうなずいた。
「確かにお約束はないとのことでしたけれど、昔からのおつき合いとか」
「誰だ?」
「お名前は、レスキル殿と仰いました」
ソーンは少し考えたが、首を振った。
「聞き覚えがないな」
「キュレイも一緒に対応したんですが、見たことのない顔だと言ってました」
説明をつけ加えてセイミは困った顔をした。
「それじゃ、昔馴染みの友人だなんて嘘ですか? 追い返します?」
「いや、会ってみよう」
名前に覚えはないが、会ってみたら知った顔だということはあるかもしれない。
王城都市ウェレスからこちらへやってきてからと言うもの、ウェレスの友人たちとはずっと疎遠だ。親しい仲間ではあったが、これだけ異なってしまった立場を越えてまで友人付き合いを続けるのは互いに難しかった。
ただ、ゼレットからは、爵位を継げば友人が増えるぞと警告はされていた。ろくに言葉を交わしたことのない相手でも、親友のような顔をしてくることがあるだろうと。
ソーンは、別にそれでもかまわないと思っていた。たとえば新しい仕事でも探していて、それにソーンが何か協力できるなら、よほど腹に据えかねる相手でもない限り、彼の立場でできる協力をしたいと思っているからだ。
実際、これまでにもそういうことが一、二度あった。またしても、わざわざここまで訪れてくるほど困った人物がいたのだろうかと考えた。
しかし――。
応接の間に赴けば、そこにいるのは見たこともない顔だった。
年代は二十から三十だろうか、年齢の掴みがたい雰囲気だ。顔立ちは、正直、ぱっとしない。印象が薄いという感じがあり、それで覚えていないのかもしれないと少し思ったが――いや、やはり見覚えはないと思い直した。
「……失礼だが」
ソーンは、胡乱そうな声を出さないようにしながら、尋ねた。
「どちらだったか」
「悪い」
その声には、しかし、聞き覚えがあった。ソーンは目をしばたたく。
「え?」
「ここまでくるつもりじゃなかったんだが、ミレインから、伝言をもらったから」
「え?」
「ソーンと話をしてくれって。俺が何かの役に立つとも思えないけど、まあとりあえず、聞くだけでも聞こうかと」
「え?」
三度、ソーンは問い返した。
「だから、話があるんだろ? 俺に」
「話……いや、心当たりは、ないんだが」
「俺に?」
見知らぬ顔の男は尋ねた。
「話に」
ソーンは嘆息した。
「この前の姿とは、また違うみたいだが。声を聞けば判る」
「悪い」
男はまた言った。
「念のため、さ」
「普通に、訪れてくればいいじゃないか。俺の友人だと言えば、父上だって何も」
「駄目なんだよ」
友人は知らない顔をしかめた。
「よんどころない事情ってやつがあって」
「いつかは、話してくれるか」
「そうだな。いつかは」
約束とも言えない約束だが、ソーンはうなずいた。
「だが……話だって?」
「ないのか?」
「ミレインがどんなつもりでそんなことを言ったのか、俺にはさっぱり」
言いかけて、はたと思った。
「ああ、もしかしたらあのことかも」
「何だ?」
「それがな、エイル」
「しっ」
男は指を唇に当てた。
「レスキルって呼べよ」