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南春抄  作者: 一枝 唯
中編
10/16

04 夜の町

 南の冬は厳しい。

 だがウェレスは、南方と括られる地域のなかでは、まだ北の方だ。毎晩猛吹雪が続くというようなことはないし、夜の散歩が自殺行為であるほど寒いということもない。

 上質な外套を羽織ったふたりの若い男女が寄り添って歩けば、凍えてがたがた震えるということにはならなかった。

 そう、寄り添って。

 自然と肩を抱いたのは、オリフェリィが寒そうにしていたからだ。

 外套越しに触れたとき、彼女は少しだけ身をぴくりとさせたが、避けることはなかった。

 月の女神(ヴィリア・ルー)が冴え渡る夜空の下、ふたりは恋人同士のように、人気(ひとけ)の少ない街並みを歩いていった。

(何をしているのだろうか、俺は)

 ソーンは自分の行動がよく判らなかった。

(自分がオリフェリィ姫に恋愛感情を抱いていないと思った時点で、誤解を助長するような真似は避けるべきなのに)

 オリフェリィの方がどういうつもりであれ、こうした態度を取れば、ソーンの方では彼女に恋をしているか、最低線でも気に入られようと努力しているとしか見えまい。

 それは、オリフェリィにとってもだが、傍から見てもだ。

 ソーン・カーディルとオリフェリィ・アシェアが逢い引き(ラウン)をしていたという話は、明日か、遅くとも三日後には宮廷雀たちの話題に上るだろう。ソーンが、数いる恋敵たちの間で一歩先に進んだと、そう思われることは想像に難くない。

 人目につくところで逢瀬をしたのだから、それは仕方がない。

 だが、展開は奇妙なことになっていると自覚せざるを得なかった。

 ソーン自身は、劇場に赴く前よりも、ずっと引いてオリフェリィを見ている。だと言うのに彼の取っている態度は、もしかしたら彼女の望む完璧に近づいている。

 彼は次の札を引くことをやめたつもりなのに、場に捨てた札は役を形作っているように見える。

 むしろ彼女は、ソーンがようやく遊戯のやり方を覚えてきたと思っているかもしれない。

(話の持って行き方を誤っただろうか)

 そこで青年は、その可能性に気づいた。

(この逢瀬を終えるまでに、どうにか知らせなくちゃな)

 自分が遊戯盤に乗っていないことを。

(でも、どう言ったらいいんだろう)

 まさか「これまで貴女に興味がありましたが、いまはもうないです」だとか「お遊びにつき合う気はさらさらありません」だとか言う訳にもいかない。

 と言うより、彼としては、自分のいる位置を最初から変えてはいないのだ。

 オリフェリィを美しいと思い、見つめていたいと思う。

 けれどそれは、素晴らしい芸術作品に感心することに似ていた。それが誰かの所有物であろうと、気にならない。美術館(アイレイル)を訪れれば再び目にすることができると判っていれば、それでいい。

 舞踏を申し込んだのが失敗だったのかもしれない。言うなれば、美術品の競りに参加するとほのめかしたようなものだ。

 ただ、もっと近くで見ていたかっただけなのに。

「オリフェリィ姫」

「何でしょう、ソーン様」

 屋外では、彼女の声は細く響いた。

 室内でも決して大きいとか強いとかいうことはなかったのだが、照明の下で見映えのいい化粧や衣装、面と向かったときに感嘆の浮かぶ、気圧されるほどの美が強調されないためだろうか。

 美しい声であり、耳に心地よいことは変わらないものの、圧倒されることはもうなかった。

「よい月夜ですね」

 言うべきことが思いつかないまま、彼はそんなことを言った。

「ええ。ひとりで眺めるには惜しいですわね」

 彼女はわずかに、ソーンに体重を預けた。

「傍らに、同じ月を眺める方がおいでになる。素敵なことですわ」

「そうですね」

 ソーンはうなずいた。

「それが美しい貴女であれば、なおさら――」

 ええい、と思った。

(俺は何を言っているんだ?)

 こんな台詞を口にしてしまうのは、夜の魔力。それとも、美女の魔力。或いは、父親の訓練の成果がこんなところで出はじめたとでも言うのだろうか。

 実際、もし食事の途中から誰かが彼らの台詞を書き残しでもしていれば、ゼレットはそれを見て息子の成長を喜んだに違いない。

 しかしソーンが、女性の心を浮き立たせる類の言葉を口にしているのは、そういう意図が彼自身にいっさいなくなってからである。

 物事は思うままにならないものだ、とでも言う辺りだろうか。

 ソーンにも、ゼレットにも。オリフェリィにも?

「あの輝かしい月の女神(ヴィリア・ルー)同様、今宵は素晴らしい一夜でした」

 これ以上の何かは起きない、という意味合いを込めて、彼は過去を言い表す形を使った。

「忘れ得ぬ思い出となりそうです」

「どうしてそんな言い方をされますの?」

 オリフェリィは首をかしげた。

「わたくしたちは、出会ったばかりですのに」

「ええ、その通りですね」

 彼は同意した。

「姫。私の本心を申し上げます」

 どう言おうかと、いまひとつ心は定まらなかった。

「私は――」

 青年伯爵が浮かび上がる言葉をそのまま口にしようとした。

「貴女を見ていられれば、それで」

 そのときであった。

 脇の小道から、ぱっと人影が姿を現した。何だろうかと思い悩む必要はなかった。

 不潔な身なりをした若い男の手には、ぎらりと月光にきらめく刃が握られていたからだ。

「へ、へ、こいつぁ上物だ」

「な……」

「姫、俺の後ろへ」

 青年は素早く、オリフェリィを背後にかばった。

 この辺りの治安が悪いとは聞かないが、少し早計だったかもしれない。

 彼らの身なりは、夜の町を散歩するには、上等すぎる。獲物を物色していた盗賊(ガーラ)に目をつけられるには、充分だ。

「金目のものをみいんな出しな、坊ちゃん。それから、女は置いていけ」

「そんな馬鹿な台詞に応じるはずがあるか」

 ソーンは腰に手をやった。だが、そこに剣などはない。芝居鑑賞に帯剣していくはずもないからだ。

(まずいな)

(剣さえあれば、こんなちんぴらなんか、三(トーア)で蹴散らせるのに)

 元近衛兵にはそれだけの能力が十二分に備わっているが、何も切り結ばなくたって、抜剣をすれば容易な獲物でないことは知れる。賊も金は欲しいだろうが、命の危険を冒してまで襲撃を続けようとは思わないものだ。

「それなら、剥ぎ取らせてもらうっ」

 盗賊は短い刃物を握り締めて、強く一歩を踏み出した。

「姫、失礼」

 ソーンはまず、背後のオリフェリィをほとんど突き飛ばすようにして場所を作り、素早く襲撃者を振り返った。すんでのところで彼は刃をかわし、そのままちんぴらの武器をはたき落とそうと相手の右腕を強く叩いた。

 そのつもりだったが、踏み込みが足りなかった。寒いところで、身体が思ったように動かなかったというのもあるだろう。盗賊は均衡を崩しはしたものの、刃物を落としはしなかった。

「この野郎っ」

 怯える兎を狩るつもりでいたであろう盗賊は、理不尽にも腹を立てた。

 至近距離から、今度は刃物を振るってくる。ちょっと脅す程度ではない。殺意があるとまでは言わないが、かっとなって後先が考えられなくなっていることはよく判った。

 しかし、襲撃者を撃退する方法ならば、嫌と言うほど叩き込まれているのが近衛兵だ。それも、相手には訓練を受けた暗殺者を想定している。

 街のちんぴらなど、現役から離れて二年経っても、彼の敵ではなかった。

 わずかの間で呼吸を整えると、ソーンは刃物に怯むことなく、盗賊の腕を捕まえた。そのまま腕をひねり上げ、容赦なく石畳の上に投げ落とす。盗賊の悲鳴が上がった。

 彼が現役近衛で、ここが王室ででもあるならば、すぐさま同僚が襲撃者を押さえるだろう。しかし生憎、この場には彼しかいない。ソーンは続いて、盗賊の首に腕を回した。暴れる盗賊を全力で押さえつける。

 少しすると、無法者はがくりと力を抜いた。

「ふう」

 ソーンは額に浮かんだ汗を拭った。

「鈍ってるな。こんなんじゃ隊長(キアル)に怒られる」

 もちろんいまでは、彼が近衛隊長(コレキアル)に怒られることなどないのだが、ついそう思った。

「姫、もう大丈夫です」

 伯爵は姫君を振り返った。オリフェリィは、ソーンに突き飛ばされて石畳に尻餅をついたまま、呆然としていた。


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