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南春抄  作者: 一枝 唯
前編
1/16

01 若き伯爵、しかも独身

 輝かしい季節は、短い。

 気づけば時間はあっという間に過ぎて、慌てて背後を振り返ることになる。

 しかし、振り返ってみたところで、過去にはもう手が届かない。残された記憶も、次第に薄れていく。

 できることは、ない。

 形のない記憶を少しでも長く、少しでも正確に保っておこうと、無駄な努力を続けるだけ。

 そう、無駄だ。

 夏は終わり、あっという間に日は短くなる。

 長く暗く、寒い冬が、やってくるのだ。

「閣下」

 呼びかける声に振り返ったのは、短く切り揃えた濃い茶の髪を持つ、二十代後半ほどの青年だった。

 すらりとして均整の取れている身体は、よく鍛えた剣士のようにも見える。閣下と呼ばれるより、そう呼ばれる人物を守るべく護衛にでもついているのが似合いそうだ。年代もまた、その呼びかけに相応しいとは言えない。どうにもちぐはぐな感じがした。

 はじめの内は彼自身、どうしてもそれが自分のことだと思えなかった。そのように呼ばれる日がくることなど、ほんの数年前まで考えたこともなかったのだ。

 いずれそうした立場になるのだと理解してからも、まだ十年以上は先のことだと思っていたのに。

「そろそろ、執務室の方にお戻りを。お気に召さないことは承知ですけれど、署名をいただかないと書類は増えるばかりです」

「もう、そんなに時間が経ったか?」

 彼は驚いて言った。

「まだ数カイ程度かと思ったが」

「半刻はゆうに経っております」

「本当か?」

 疑う訳ではなかったが、彼は目をしばたたいて、顔を前方に戻した。目前に立っていた男は肩をすくめてうなずく。

「はい、閣下。正直に申し上げまして、私はもうへとへとです」

 細い剣を手にしていた男は、くるりとそれを回すと鞘へ収めてしまった。

「手合わせはここまでにいたしましょう」

「そうか」

 気分転換に少し身体を動かすつもりが、ずいぶんと夢中になっていたらしい。仕方なく、彼も広刃の剣をしまい込んだ。

「お前にも仕事があるのに、すまなかったな。有難う、タルカス」

「いえいえ、元近衛のソーン閣下と手合わせるのは、いい訓練になります」

 執務官のタルカス・ツァルは笑ってそう答えると、ソーン・クラス=カーディル伯爵に宮廷ふうの礼をしてみせた。ソーンも笑うと、伯爵としての答礼ではなく、敢えて近衛兵の礼をすることでタルカスの冗談に応じた。


 ソーン青年がカーディル領の伯爵という思いがけない地位に就いてから、一年以上の月日が流れていた。

 ある事件を境に、当時のカーディル伯爵ゼレットは養子のソーンに伯爵位を継がせることに決めた。もともとはゼレットも、早くてもまだ五年は先のことと考えていたが、自らの負傷に自らとカーディルの将来を案じたこともあれば、どうにも「ゼレット閣下に仕える」という雰囲気の抜けなかったソーンに荒療治をするのも悪くないと考えて、決断をしたのだ。

 ウェレス城の近衛兵(コレキア)をやっていた青年が、王子の危機を救った褒美を兼ねて、後継者を持たなかった伯爵の養子に迎え入れられ、一年あまりで養父の地位を継ぐ。

 それは物語師(トラント)の話すような成功譚であると言えただろう。

 だがお話のように「活躍をした兵士は、立派な地位を得ることができました。めでたしめでたし」では終わらない。

 ソーンは町を治めるための勉学などちっともやっていなかった。実父――ということになっている――ウェレス儀式長官モーレン・クラスは、まるでこうなることを知っていたかのように、二男のソーンを長男コーインの補佐としては育てることはなかった。

 知っていたのかもしれない。

 父の妻、つまりはソーンの母たるティセアが不貞を働いた、その結果がソーンであったことを。

 モーレンはソーンにつらく当たることはなく、ただ、彼が剣技を学びたい、近衛になりたいと言えばそれを叶えてくれた。知っていたのなら安堵しただろう。それとも落胆したのだろうか。

 よく判らない。父とは、あまり話をしなかった。

 ソーンは、モーレンの実子で、ゼレットの養子だ。そういうことになっているが、事実は逆だ。

 ティセアの浮気相手が、ゼレット・カーディルなのである。

 彼の養父は、本当の父なのだ。

 ややこしい。

 しかし明確でもある。ソーンには、ゼレットの跡を継ぐ資格があるのだ。

 それを公にするつもりなどゼレットにはないようであり、クラス家とカーディル家の仲が必要以上にこじれることはなかった。それは、父親たち(・・)が「本来の形に落ち着いたのだ」と考えているせいもあっただろう。

 実際、いまとなっては判ることもある。父モーレンの方でも余所に通う女があった。それを知った母が、宮廷切っての伊達男として名高かったゼレットになびいたとしても責められることではない。少々複雑なところはあるが、その辺りはソーンも割り切ることにした。

 ただ、万事納得とはいかない。

 ゼレットを父と呼び、その地位を継いでも、いまだに自分が領主であるなどとは思えないのだ。

「そう仰るのはソーン閣下だけですわ」

 彼を執務室に連れ戻した女性執務官は、肩をすくめた。

「準備期間が短かった、それはゼレット様も、わたくしどもも思っていることです。けれど閣下は、立派にやっていらっしゃる」

「有難う、ミレイン」

 苦笑いのようなものを浮かべながら、ソーンはミレインに礼を言った。

 ミレイン・ダールはゼレットの代からの優秀なる執務官にして――こういう言い方はソーンの好みではないが――父の愛人でもある。

 三十の半ばを迎えようとするこの女性から、しかし「愛人」という一語から連想される、匂い立つような色気というようなものは感じられない。化粧は薄く、髪はいつもまとめられ、服装もいわゆる「女性らしさ」より機能性を重視して選んでいるようなところがあり、言うなればとても事務的だ。

 この時代、女では珍しく瓏草(カァジ)()るし、ソーンにもゼレットにも手厳しい意見を言うような、間違っても「媚びを売っている」だの「色香で誘惑した」だのとそしりを受けるタイプではない。

 ソーンはミレインを尊敬できる女性と考えており、ゼレットが彼女を正式な妻にと考えることを歓迎していたが、ミレイン当人は数年に渡ってそれを拒否し続けている。

 あくまでも自分は執務官である、というのが彼女の姿勢らしい。

 ただ、そうは言うものの、もしゼレットが求愛をやめたらミレインは落胆するのではなかろうか。ソーンをはじめとする周辺はそう考えていた。

 もっとも、当人たちの間では求婚と拒絶が一種の挨拶のごとくなっているようで、周囲が気を揉む、或いは面白がる余地はあまりなさそうだった。

「気分転換をされることは、少しも悪いことではありません。根を詰めて一刻うなっているより、ずっといいですわ」

 続けてミレインはそう言った。

「それに、書類に嫌気が差した訳でもないのでしょうし」

 言葉は何気なく発せられたが、ソーンはぎくりとした。

「……何か知っているのか」

「先日の舞踏会のことでしたら」

 女性執務官は、手にした書類を整理しながら、やはり何気なく返した。

「お気になさることはないです。姫君方のお言葉は、額面通り受け取れるものでもない。彼女らは宮廷遊戯に長けていて、ソーン閣下はそうではないというだけ」

「父上から、聞いたのか」

「ええ。それから、ガルファーからも」

 さらりと言われ、ソーンは黙った。

 同席していたゼレットが知っていてもおかしくないが、何も言ってこなかったから気づかれていないかと思っていた。

 先日参列した、とある舞踏会。

 ウェレス城で行われた、きらびやかな一夜。輝かしい時間。

 ソーンはそうしたものを苦手にしていたが、何故だかゼレットは今年の年明けから突然、積極的に息子をそうした場に連れ出しはじめた。重要な会議に出るだけではない、こうした交流も伯爵の務めだと言われれば従うしかないが、舞踏はともかくとして――体術の足さばきだと思って身につけてしまえば、彼でも案外、華麗に舞える――話術などというのはどうにも論外。

 同年代や年上の男が相手ならば何の滞りもなく話を進められるものの、女性たちは困惑の種だ。

 母親世代のご夫人方は、ソーンが話題に困る様子をからかったりするが、鷹揚に見てくれている感がある。

 問題は、若い姫君たちだ。

 ソーンのように、二十代という年齢で伯爵位についている者は稀である。父親世代がまだまだ現役だからだ。若き伯爵、しかも独身となれば、夢見がちな娘たちの格好の標的となり得る。

 ゼレットは少し前まで「気軽な火遊びには気をつけろ」と言ってきたが、言われなくてもソーンが女遊びなどする性格ではないと判ったからか、それとも異なる理由によるものか、近頃は「経験を積むのは男としての成長に必要なことだ」などと掌を返している。以前はカーディルから出ることが少なかったのに、ソーンの修行だと言って頻繁にウェレスまで出向き、あちこちの夜会に出席する約束を取り付けてくる。

 何のつもりなのかと――判らない訳でもない。

 カーディル伯爵には、カーディル伯爵夫人が必要だ、と言うのだろう。

 これには、ソーンは大いに困っている。

 ゼレットの養子とならずとも、いずれ彼には適切な年齢で適切な身分で適切な能力を持った女性が引き合わされ、適切なおつき合いをして適切な時間を置いたのち、ではそろそろ結婚をしましょうという展開になったと思われる。熱烈な恋愛でもすれば別だが、貴族の息子、娘たちの婚礼などそのようなものだ。

 だがらソーンも、ゼレットが「ソーンの妻に」と考える女性がいるなら誠実に接するし、愛する努力もするつもりだ。

 しかし幸か不幸か、父はソーンに選ばせるつもりらしい。

 かと言って完全に「お前の好きにやれ」ではない。「経験を積め。そのなかでいいのがいたら、捕まえろ」だ。

 ゼレット自身はそうして妻を得たのかもしれないが――いまでは彼女は世を去っていた――万人に向く方法ではないと理解してもらいたいものだ。

 近衛時代から「真面目すぎて面白くない」と女性受けしなかった彼が、「物語のような成功を収めた若い伯爵は洗練されているに違いない」と思い込んで接してくる姫君たちをどうやったら満足させられると言うのか。

 回数を重ねる内、ソーン・クラス=カーディルの面白味のなさは宮廷雀たちの評判になったようで、自分から積極的に彼に話しかけてくる姫は減った。しかし、そうした男ならば安心して娘や妹を任せられるとばかりに、今度は父親や兄たちが姫を紹介してくる。おそらく、裏ではゼレットも手を回しているのだろう。

 舞踏会の類に出れば、ソーンの笑みは引きつりっぱなしだ。

 華麗なる宮廷、内容の薄いお喋り、流れ続ける音楽に、踊る男と女。酒を飲まずとも、酔った気分になってしまう。

 おかげで先日も――やらかした。

『申し訳ありませんけれど、ソーン様。わたくしは……』

 蘇りかけた記憶にぶんぶんと首を振って、ソーンは目の前のことに集中しようとした。

「何から手をつければいい?」

「まずはそちらの束からご覧になってください」

 ミレインも彼の気持ちを慮ったか、舞踏会の話題を切り上げた。

「青い貼り札をつけたものは、ゼレット様にもご覧になっていただきます」

 ソーンの判断だけでは心許ない、重要事項ということだろう。

「黄色いものは緊急性がありますが、どんな判断をされても大きな影響を及ぼすものではない。あとは、頭に入れておいていただければけっこうです」

「判った」

 有難う、と彼はまた礼を言うと、紙の束をめくりはじめた。

 嫌なことは、早く忘れてしまおう。


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