侵入者(2)
左の頬を、風が切り裂くように何かがかすめた。
「アルバスぅ!!」
「アルバスくん!!」
突然のことに一瞬思考が停止する。
しかし、響く声に思考が戻った。
「な、何が?」
頬にかすかな痛み。手で触れてみると、血がにじんでいた。
その刹那、反射的に後ろを振り返る。そこには、一本の矢が洞窟の壁際に転がっていた。
これは――罠?
どういうことだ。ここはただの洞穴じゃなかったのか?
途端、頭が真っ白になった。
さっきまではなんともなかったはずだ。ゴブリンを倒して、それで……
何かの気配もなかった。それなのに。
「アルバスくん、まずは外に出ましょう!」
スライネが腕を掴んで引っ張る。ハルディンもその後に続く。俺達は慌てて洞窟を飛び出した。
しかし、先程まで眼の前にあった血のついた矢が頭に残って離れなかった。
外の空気は冷たいが、洞窟の中にいた緊張感が和らぐ。呼吸を整えながら、俺はさっきの状況を頭の中で繰り返していた。
「早く治療しないとぉ!!」
「動かないでくださいね、毒が塗られていたら大変ですから」
ハルディンが冷静に指示しながら、スライネが手際よく薬草と布を取り出す。頬の傷にしみるが、すぐにじわりと痛みが引いた。
「傷自体は浅いですね。ですが念のため、毒消しも塗っておきます」
俺はただ頷いた。小さな傷。でも、それが意味するものは重い。
「あそこ、ただの洞窟じゃなかったのかなぁ……」
スライネが不安げに呟く。俺もおんなじことを考えていた。
あの一撃――あの矢は明らかに人為的だった。誰かが仕掛けた罠。つまり、そこは管理された空間だった。
「この後どうするぅ?」
ゴブリンの死体は放置している。素材は売れるから取りに行きたい気持ちもある。
でも、まだ罠があったとしたら。なにせあのゴブリンが死んだ瞬間、あの矢は飛んできたのだ。
あの死体ですら何かのトラップに繋がってるのかもしれない……
いや、考えだしたら終わりがない。
それよりも、これらがたちの悪いイタズラではないのだとしたらあの場所は単なる自然洞ではなく「ダンジョン」として機能している。
「さっきのゴブリンの死体はもったいないけど、やめよう。俺達だけでは危険過ぎる」
自分の言葉に悔しさがにじむのがわかる。せっかく見つけた獲物。でも、命には代えられない。
「……そうだねぇ」
「その通りです。お金も命あってのことですからね」
スライネが笑ってくれる。その表情だけで心がすっと軽くなる気がした。
消化不良なところもある。でも、ここに新しくダンジョンができたという情報は、冒険者協会に報告して受理されれば多少の報酬にはなるはずだ。
「今回はこのくらいで満足しておこう」
俺達はそう結論づけ、街へと引き返すことにした。
「今回の詐欺依頼を送りつけてきたやつにはクレーム入れとかないとな」
「えー、今回もやるのぉ?」
「もちろん、ちょっとは痛い目みてもらわないとな」
「それで毎回、僕達が痛い目みているのはどうなのでしょうか」
「そうだよぉ。結局、私達が返り討ちにされているじゃん」
「……そ、そのうち相手もこりて依頼も出さなくなるかもしれないだろ」
帰り道には、夕陽が西の空から静かに降り注いでいた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ようやく、街が見えてきた。
遠くからでもその存在感は圧倒的だった。広大な平原の先に、堂々とそびえ立つ灰白色の城壁。
まるで異物のように自然の中にそびえ立ち、その無機質な質感がかえって人工の力強さを主張していた。
「……ベジタブル1号は元気かな」
ポツリと呟いた言葉は、誰に届くわけでもなく風に溶けていった。
あのひどい名前のゴブリン。妙に懐いてきて、別れたときには少し胸に引っかかるものが残った。
あいつのことを考えると、心の奥がほんの少しだけ暖かくなる――ような気がした。
眼の前には街への唯一の入口、巨大な鉄製の門がある。
そこには旅の者、商人、冒険者、様々な人が重たい荷物を背負い、すでにうんざりした表情で順番を待っている。
僕もその列に加わった。
背後からは馬のいななきと荷車の軋む音。前方からはざわめきと、時折聞こえてくる怒鳴り声。
目算では人気スポーツチームの試合を見に行っているときぐらい並んでいるのだが。
意外と進みが良く、スムーズに人が流れていく。
一歩、また一歩と前に進み、やがて僕は門のすぐ前に立っていた。
衛兵の男が、無表情でこちらを見る。
「名を名乗れ」
鋭い声。威圧的な態度。
けれど、どこか事務的な冷たさが支配していた。
「ハルです。辺境の村から来ました」
「目的は?」
「旅をしてまして……この街で宿を探したくて」
言いながら、自分の言葉が少し曖昧すぎたかなと不安になった。しかし、衛兵はちらりと僕の姿を一瞥し、すぐに頷いた。
「ふむ……怪しいところはなさそうだな。通ってよい」
僕は軽く頭を下げて、門をくぐった。
そして、次の瞬間。
眼の前に広がる景色に、思わず足を止めた。
――きれいな街だ。
石畳が整然と敷かれ、両側には色とりどりの店が並んでいた。赤や青、黃の布地が貼られた露天の屋根。甘いお菓子の匂い。香辛料の風に乗った刺激的な香り。商人の叫び声、子どもたちの笑い声、馬車の轍の音。すべてが賑やかで、生き生きしていた。
「すごい……」
無意識にそう呟いていた。まるで、色彩そのものが空気に溶け込んでいるような街だった。全身に活気が染み渡る。
異世界の街は街全体が、というより人が生き生きしてるな。
元の世界でいうと繁華街で酔ったおじさんたちが近いかも。でも、おじさんたちみたいに嫌な感じはしない。
こっちもつられて元気になるような、そんな温かい賑やかさだ。
街の活気にあてられながら、今回の目的である宿を探そうと通行人に声をかける。
老人に聞いたり、少女に道を教えてもらったりして、ようやく教えられた場所にたどり着いた。
そこは、街の中央から少し外れた比較的静かな通りに佇む木造の宿屋だった。
柔らかな木の香りがあたりに漂い、屋根には緑の苔がほんのりと張り付いていた。建物全体は古めかしいけれど、清掃が行き届いていて清潔感があった。
入口には花の鉢植えが並べられ、小さなベルが風に揺れてちりんと鳴る。
「いい雰囲気だな……」
現代的な整備された宿屋も悪くないけれど、こういう温もりのある少し不揃いな木の柱や、年季の入った屋根のシミが妙に落ち着く。
受付で名前を伝え、簡単な手続きを済ませてから、案内された部屋の扉を開ける。
そこには――ベッドがあった。そう、ベッドがあったのだ。
「やったぁ!ベッドー!!」
言葉にするより先に、身体がベッドへと飛び込んでいた。ふかふかの布団。弾力のあるマットレス。
木の床からはわずかに温もりが感じられ、窓から入る夕方の光が、部屋をやさしく照らしていた。
「……あぁ、最高だ……」
前進をベッドに沈めて、目を閉じた。心地よい布団の感触が、まるで母親の腕に抱かれているようで久しぶりに心が緩んだ。
ずっと張り詰めていた疲れが、波のように引いていく。
そのまま暫く、ゴロゴロと転がりながら時間を溶かしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ふと、顔を上げるといつの間にかシステムパッドが浮かび上がっていた。
「ん?どうしたんだ?」
基本的に、システムパッドが勝手に表示されることはない。何かあったのかと、少しだけ背筋が冷えた気がした。
表示内容を確認する。
「――え?」
《 ボスモンスター:ゴブリン【個体名:ベジタブル1号】 が死亡しました 》
何かが胸の奥を、冷たくなぞった。
視界がふっと陰る。
見上げていた天井から差し込んでいた夕陽の光が、雲に隠れたのか、部屋の中が急に暗くなったように思えた。
胸の奥が、ほんの少しだけ締め付けられるように痛んだ。