5 蝕む無力の呪い
世界一になればいい。そんな言葉を彩音に叩きつけた悠哉は、そのまま背を向けて家を飛び出した。
酷く太陽が憎くなる高校1年生の夏だった。
どうしようもないほどの情けなさと怒りが複雑に混ざりあった感情は、なんの罪もない太陽への悪態を吐き出す。
「クソが。暑苦しいんだよ…」
だが、空に唾吐いたところで意味はない。空にその気持ちが届くことはない。やがて太陽の日差しに苦しくなる。悠哉は自分自身の無力感に打ちのめされた。
今まで苦労などしてこなかった。
学校のテストでは70点以外など取ったことはない。別に勉強などしなくとも、授業中に寝てようとも、渡された課題に手をつけずとも、授業が終わった後の黒板を眺めていればだいたい理解できた。勉強が出来ない人の気持ちなど理解できなかった。
運動神経も特に悪いなどということもなかった。人並みに動けて、野球でホームランを打ったときの気持ち良さや、サッカーでゴールを決める気持ち良さをよく知っている。勝てるから楽しかった。
そんな満ち足りていた日々の中で、不意に気付いた。
彩音に勝てるところなど殆んどないことに、気付いた。
知っていて、見ないふりをしていた。
貼り出される成績上位者の一覧。身も蓋もない実力差。テストで70点を取れたからなんだというのだろうか、少々の自惚れは、100点を叩き出す天才の前では無価値で滑稽なショーに過ぎない。
本気で勉強した。負けるのは好きじゃない。
大切な家族だからと言っても、負けるのは嫌だ。好きじゃない。
わざわざ学校に残って勉強をした。必死に努力しているのを見られるのは少し恥ずかしいから、こそこそ隠れながら必死にやった。
遊びに行くふりをして、彩音に見られないように、彩音への挑戦をした。
点数は当たり前に上がった。だが、勝てなかった。
70点以下を取らないことは、100点を取れる理由にはならない。
本気だった。本当に、負けたくなかった。だが、届かない。
そんな無駄な努力を彩音から褒められる。知らない彩音から褒められる。
授業中に寝てなかったんでしょう? と褒められる。
クソが……。
悠哉は勉強をやめた。どうせ勝てはしない。勝てないことは楽しくない。だから別のことで勝とうとした。
美術の課題で、彩音がなにかの賞を受賞した。悠哉はそれを体育館で、いち生徒として壇上の彩音を見るだけだった。
そこでまた悠哉は気付いた。彩音の話題を耳にして気付いた。今まで幼い頃から側にいたから気付かなかったが、彩音がとても美人である事実に気付いた。
神は不公平だ。
悠哉は必死になって彩音に勝てるところを探した。そして腕っぷし、喧嘩しかなかった。彩音を殴ることなど論外だった。
好意の中に潜む敵意。気持ち悪さを感じるほどに、彩音への感情がねじ曲がる。
ある日、彩音の目に文句をつけるアホ教師が現れた。紆余曲折あって悠哉はその教師の頭を下げさせることに成功した。
その最中で、悠哉は自分が彩音から特別扱いされていることを知った。
悠哉はそこで彩音が弱いことを知った。
綺麗で優れた彩音を守るという理由、そしてそんな彩音から特別扱いされること。
それは悠哉の劣等感を歪に満たす。笑顔が張り付いた顔の皮の裏側で、いいようのない、ドスグロいものが胎動する。
俺がいないとダメなんだな。仕方ないな。
知らぬ間に、笑顔に裏側が生まれる。
だが、そんな笑顔はすぐに消えた。
高校受験が終わった直後のことだった。啓司と継羽を誘ったショッピングで、悠哉は啓司とトイレに行った。その帰り、彩音と継羽がナンパを受けていた。
継羽は人見知りだ。そして彩音は弱い。直ぐに助けないといけないと考えて、駆け寄るとき、悠哉は聞いた。
自分の意思で、強い拒絶を相手に浴びせる彩音の言葉を。
欠点など無かった。彩音は強かった。魅力的で賢くて、強い。悠哉は自分の存在意義を疑った。
強い彩音から求められる。特別扱いされる。その優越感に悠哉は気色の悪さを感じた。
なにも勝てない。自分がしてやれることは、彩音が自分で出来ることだ。
蠢いていたドス黒い感情が爆発する日は、それから半年後。
悠哉は夢破れた。彩音に負けた。プロになりたいという夢すら、勝てなかった。
勝てなかった。
それからエルガレイオン・オーバードーズの2周年を祝う初の世界大会で、彩音は頂点に輝いた。
その動画を悠哉はベッドに寝転がりながら再生していた。
何度も何度も繰り返して、彩音が勝つ映像を網膜と心に焼きつけた。
嫉妬、悲しさ、羨望、称賛、恨み。複雑骨折した心で、綺麗な彩音を液晶ディスプレイ越しに眺めていた。
やがて動画が終わると、バイトに行くための準備する時間になった。
悠哉は深いタメ息を溢しながらスマホの明かりを消し、身だしなみを整え始めた。
奧の部屋から継羽が顔を出す。
「バイト?」
「あぁ。9時には終わる」
「いってらっしゃい」
家主である継羽に背を向けたまま手を振って悠哉はバイト先のコンビニへ向かった。
悠哉がバイトを始めた理由は、継羽に支払う家賃を捻出するためだった。
彩音との喧嘩別れとも言い難い別れ方をして、家に帰れなくなった悠哉を継羽が家に招いた。ネカフェで生きることを想定していた悠哉は、その代金を継羽への家賃に当てることにした。
必要があったから始めたバイトだが、いつの間にか悠哉にとって、バイト以外のことをなにも考えなくて済む大事な時間になっていた。
テンプレートに忠実に、機械的で事務的、感情を限界まですり減らした声音をもう6ヶ月、彩音と別れてから繰り返し続ける。
3月の中旬。エルガレオン・オーバードーズの世界大会は、もっとも熱い話題だった。
コンビニのカウンターで細々とした物の在庫確認をしていると、自動ドアの開く音が2人組の男を迎えた。パッと見高校生であり、悠哉は自分の通う高校の先輩だろうと思った。
「いや~。見た? ハーフレッド。くっっそ可愛くね?」
「あの左目って自前らしいぞ」
「事故に遭ってから見えなくなったって奴な。いや~かっこいいよなぁ」
「あんな目立つ赤色をしてるのに、全く違和感を覚えないのは凄いよな」
「スタイル良すぎる。あの顔で身長高いの最強過ぎるだろ」
心の内側で、なにか言い様のない感情がうねり始めた。
罪悪感、彩音を知っている優越感、彩音を軽々しく語るなという哀れみ。プロとなった彩音と今の自分を比べた劣等感。
ぐちゃぐちゃに混ざり遭ったそれは、悠哉の心を無秩序にかき乱す。
「いや~彼女にしてー。甘やかされてー」
「バカじゃねーの。お前が付き合えるわけねーだろ」
「うるせぇなぁ。夢は見るためにあるんだろうがよ」
「とっとと顔洗え」
「顔なぁ…。あーそう言えば、俺らが子供の頃にアイドルが交通事故に遭って死んだ話、知ってる?」
「知らねーと言いたいけど、言いたいことは分かったわ。あれだろ。ハーフレッドはそのアイドルの子供って話だろ?」
「本当なんかね」
「知らね。俺はそっちより、俺らの高校にハーフレッドがいるかも知れないって話の方が気になるね」
「ワンチャン生まれちまったなぁ!」
「? なんの話だよ」
「付き合えるかもしれないって話だよ」
「頭わりぃー。気絶でもしてたか?」
ケラケラと笑いながらカウンターに商品を並べた2人組に、鉄面皮を張り付けた顔で、お前らがアイツと付き合えるわけねーだろ、と思うことでその場をやり過ごした。
会計を済ませて笑いながら店内から出ていく2人組の背中に、悠哉はバレない程度の軽い嘲笑を浴びせる。
するとその背中が自動ドアを前にして止まった。
なにかを忘れたのかと疑問に思った時、悠哉は2人組の横をすれ違う赤色と目が合った。
悠哉はその赤色の瞳から視線を外した。すると彩音はカウンターにミネラルウォーターのペットボトルと数点の菓子を広げた。
商品のバーコードを機械が読み取る無機質な音が、幽霊さえも沈黙してしまったかのような、静かな夜の店内に響いた。
商品を全て読み取った後、彩音がなにかを口にする予兆を感じ取った悠哉は、それが出てくる前に機械的な声でその予兆を潰した。
「袋は必要でしょうか?」
「あ、はい」
袋をガサガサと開き、そこに淡々と表品を入れていく。悠哉はあえて音を大きく立てて、歓迎していないという態度を明確にした。
「あの、悠…」
「784円になります」
「…また、戻ってき───」
「ポイントカードはお持ちでしょうか?」
悠哉は言葉に重ねて彩音の言葉を潰した。すると彩音は悲しい顔を浮かべて、それ以上なにかを言うことはなかった。
電子決済で会計を済ませた彩音が自動ドアへ向かっていく。
「あの、ファンです! これから一緒に遊びませんか!」
「ばっ!? おま、なに言ってる!?」
未だに店内にいた2人組の内1人が突然彩音にそう声をかけて、もう1人が心底驚いた顔をした。
「そう。悪いけど興味ありません。失礼します」
彩音は信じられないほど冷たい声で、敵意を隠さずにその誘いを袖にした。
なんだよ、やっぱり1人で生きられるじゃないか。
目の前で自分の思い違いをまざまざと突きつけられ、悠哉はそんな自己嫌悪に陥った。
「はぁ……」
タメ息を吐いて、項垂れていると2人組の1人がカウンターの前に立っていた。
「あの~。あの人はハーフレッドさんでしたよね? お知り合いですか?」
目の前の男は、自分を介して彩音との関わりを持とうとしていると悠哉は理解した。
不快感を押し殺すことは出来なかった。
「それがなにか?」
「いや~その~…呼び出せませんか?」
「お断りします」
「そ、そうですか」
2人組は今度こそ店内から出ていった。
迷惑客じゃなくて助かった。そう考えていると、店内にいるバイトの先輩が話しかけてきた。
「なぁ天神。もしかしてあの美人と付き合ってたのか?」
「違う。そんなんじゃない」
不機嫌が極まっていた悠哉は、つい敬語をつけ忘れてぶっきらぼうに吐き捨てた。
「お、おう。そうか」
先輩は申し訳なさそうにして、それ以上の詮索はしなかった。
居心地が悪い。
彩音が正しいからだろう。自分が間違っているからだろう。世界の全てから指さされている。お前はもう必要ないという声が耳元から聞こえてくるようだ。
居心地が悪い。
悠哉は店内の時計に目を向けた。時刻は夜の7時。
「…なにやってんだか」
悠哉は誰にも届かない言葉を空間に放り投げた。
夜9時。バイトが終わり、バックヤードからコンビニを出ると、そこには継羽がいた。3月の夜は恐ろしいほどに暗い。そんな時期にわざわざ人通りの少ない場所に女の子が1人でいることは危険だ。
「なにやってんだ。危ないぞ」
「あ、うん。でも、今来たところだから大丈夫かな…?」
悠哉は継羽の歯切れの悪い言葉と態度から、なにかを話そうとしていると察した。
脳裏に彩音がよぎる。
バイトの疲労だと言い聞かせてタメ息を吐き出したくなったが、居候の分際で家主である継羽にそんな態度は取れない。取れる奴は最低だ。
心労を飲み込んで、悠哉は平静を装って優しく声をかけた。
「まぁいい。帰るか?」