3 炎を元に狼煙はあがる
その日の朝、彩音は継羽と通学路を歩いていた。その間、現在進行形で話題になっている悠哉のことばかりが会話に上がった。
「継羽も分かると思うけど、悠は話を聞かないから」
「理屈が単純だから譲らないよね。私も家族をバカにされたら怒るかな」
「でも、加減は必要」
「うーん。私は悠哉の行動は結構良いと思うけどね。私はあそこまで出来ないから」
継羽がそう言って軽く笑い声をあげると、彩音の右側、道路側から風が吹き抜けた。
赤と白で出来た自転車が、学校の方へ向けて進んでいった。
そのハンドルを握るのは、案の定、悠哉だった。
彩音は過ぎ去った悠哉の後ろ姿から、実に楽しそうにしているな、と思った。そしてそれから継羽の方へ顔を向けた。
「ほら、出来ちゃダメでしょ?」
「なんだか…楽しそうだね」
継羽が話をそらした。
「はぁ……なにか起こりそう」
明らかな問題行動を目にして、彩音はなんとなくそう思った。
しかしそんな思いとは裏腹に、直ぐに騒ぎが起こることはなく、彩音は普段と変わらない時間を過ごしていた。
杞憂だったか、彩音がそう落ち着いた時、問題が起こる。3時限目と4時限目の間にある休み時間、彩音が教室で授業の準備をしているときにそれは起こった。
普段と違う空気に彩音はなんとなく、静かだな、と廊下の方を見ていると、焦った様子でやってきた啓司が廊下側の席にいる継羽になにか話をし、継羽が手をこまねいた。
「どうしたの?」
「悠哉が階段から落ちた」
「…え?」
血の気が引いた。
授業開始のチャイムを無視して、彩音は保健室へ飛び込んだ。
保健室のソファーで悠哉はバツの悪そうな笑顔を浮かべていた。
彩音は全く安心することが出来ずに、悠哉の側まで近づきそのまま抱き締めた。
「うおっ。大丈夫、大丈夫だって、ちゃんと頭守ったし──」
「しんだら! 死んだらどうするの…。死んじゃやだよ…」
心の内側からボロボロと涙が零れて、それと共に、昔の恐怖と悲しみが津波のように押し寄せてきた。
「あぁ…そうだな。ごめん」
ぐずぐず泣いている時、悠哉に上から抱き締められたが、彩音はなぜか安心できず、心の内側で嫌な予感が煙のように燻っていた。
落ち着くまでどれ程の時間が経ったのか、彩音は悠哉から離れて時計に目を向けた。
4時限目を飛ばして給食の時間になっていた。
「…帰るか」
「うん」
まだ授業はある、だからまだ帰ってはいけない。そんな正しい言葉が聞こえてきたが、彩音はその声を頭の中から追い出した。
荷物もなにもかも学校に置き去りにしたまま、ただ悠哉と手を繋いで帰路へつく。
「いつぶりだっけか?」
「なにが?」
「こうやって手を繋いで帰るの」
「3年」
「覚えてるのかよ」
「うん」
「…そうか」
「体は痛くない?」
「平気…だったんだけどなぁ…。なんか時間差で痛くなってきた」
「大丈夫?」
「問題ない。帰ってからなんか貼るか、塗る」
彩音は手を強く握った。
「怖かったか?」
「うん」
「まだ怖いか?」
「うん」
「なら気をつけて帰るか」
「うん」
懐かしさを覚える暖かさを手から感じていたが、しかしピリピリとした嫌な予感は消える様子を見せず、まるで影のように付きまとっていた。
時折、彩音は右目で見える視界の中に悠哉を収めた。
手を握っていても安心しきれなかったのだ。
だが影は沈黙を守る。彩音は悠哉の手を強く握って、なんとか家にたどり着いた。
家に着いた時、彩音が安心しきったタイミングで、その影は自身の正体を告げた。
物心着く前から一緒に生きてきた猫、アニエルが死んだ。
沈黙の9日目、彩音と悠哉は学校を休んだ。
15歳、アニエルは長生きしてくれた。死ぬとは思っていなかった。
動物、ペットの葬式屋に依頼をして、丁寧に弔った。
アニエルが寝ていたはずのベッドは空っぽになった。それは昔、家を離れたときと同じような気持ちを彩音に刻んだ。
魂から何かが削り落ちるような、耐え難い空虚。
ソファーで呆然に揺さぶられていると、左側に座った悠哉が彩音の右肩を抱いた。
「辛いな」
「うん」
「もう危ないことはしないと約束する」
「うん。もう喧嘩しないで」
そう言うと、悠哉は少しの間沈黙した。
「俺は彩音のことが大切なんだ。だから、一緒に戦って欲しい」
「私は平気なんだよ」
「俺が平気じゃない。彩音は悪くないんだ、悪くないなら、戦って欲しい。お願いだ」
今まで聞いたことがないような、真摯な願いだった。
彩音はそこで、自分が戦わないから悠哉が戦っていることに気付いた。
「分かった。一緒に戦うよ」
夜、悪夢を見た。ブレーキの甲高い音からガラスの砕ける音が続いて、そして、強い揺れによって目を覚ます。
右手に猫はいない。左手は中学生になった時に部屋を分けた。隣には誰も、なにもいない。しかし、心は酷く落ち着いていた。
暗い部屋の中で、彩音は戦う意味を見いだした。
終わりの10日目、彩音と悠哉は久しぶりに一緒に登校した。人目を憚ることなく手を繋いでいると、継羽がフラりとやってきた。
「大丈夫?」
「正直傷付いてる。笑ってないと可笑しくなりそうだ。なのに彩音は平気そうなんだよな。無敵か?」
「ちゃんと別れは済ませて、私は頑張ると決めた。じゃないとアニエルが困る。居なくても平気だと教えてあげないとね」
「おー。無敵じゃねーわ。最強らしいわ」
ケラケラと笑う悠哉は、そう言いつつも手を離さなかった。
「案外平気そうだね。ところで、彩音はコンタクト忘れたの?」
「外した。私は私だから、私らしくする」
「生徒指導の先生から何か言われない?」
「戦うよ。私は間違っていないから」
笑顔でそう言うと、継羽は驚いた顔をしていた。
「あー…最強?」
「だろ?」
なぜか自慢げに悠哉が笑った。
そのタイミングで啓司が合流した。
「おはよー。なんか遠くからでもお前ら分かりやすいな」
「ジャンパーは着けてねーぞ」
「ピアスはあるだろ~?」
「お前、目が良いんだな」
「いやいや、周りから浮いてるんだよ。お前」
「喧嘩?」
「褒めてるんだよ。ほら隔絶した気配。すごいね」
「単にヤベー奴って言いたいんだろ」
「すごい!」
「死んどけ」
久しぶりの賑やかな登校だった。アニエルのことを思い浮かべながら彩音は赤い目を細めて笑った。
朝のホームルーム後に担任から放課後に三者面談が組まれていることを告げられ、彩音はそれを初めて知った。それは悠哉も含めて、到底三者とは言えない規模の面談らしく、伯父さんと伯母さんは既に了承していることも聞かされた。
アニエルが亡くした自分をおもんばかった措置なのだろうと彩音は納得して受け入れた。
左目のことは誰からも指摘されなかった。
放課後。伯父さんと伯母さん、悠哉に彩音。それぞれのクラスの担任と生徒指導の先生、最後に教頭先生が集まった八者面談が始まった。
伯父さんと伯母さんの態度は毅然としていた。特に伯母さんの声音は堂に入ったもので、面談の主導権を握っていた。
「始めに明言しますが、私たちは今のところ、息子が怪我をしたことについての責任を問うつもりはありません。しかし、それは許したわけではないことをご承知いただけますね?」
教頭先生が了承を返し、それから伯母さんは話を続ける。
「まず、この問題について、先生方の認識がどういったものになっているのか、お訊ねしても宜しいでしょうか?」
また教頭先生が口を開き、2つのことを述べた。
1つ、この転落事故は生徒指導の最中の事故であり、故意ではないものの、危機管理に欠けることであったこと。
2つ、このような事故が起こる前にこうした面談を開くべきという、この対応の遅さは改善する必要があるということ。
この事故を重く見ているということは強く伝わった。
「わかりました。その認識について異議はありません。では次に、なぜこのような事故が起こったのか、発端についてお訊ねします」
教頭先生は、悠哉が生徒指導の先生に突っかかったことを答えに上げた。
悠哉が露骨なタメ息を吐いた。すると伯父さんが無言で悠哉の頭を軽く叩いた。
「…それは確かに悠哉だけを見たならばそうですね。ではなぜ、私たちが面談に彩音とその担任をお呼びしたのか、説明させて頂きますね」
なんてことはない。悠哉が突っかかった理由として、彩音の目のことがあったという事実を伯母さんは淡々と説明した。
「私たちは娘の目の異常とそれに付随する事情を説明する書類を提出いたしました。よろしいですね」
彩音はその時初めて伯母さんを怖いと感じた。
「その結果が生徒指導提要に反した誤った指導ですか?」
生徒指導の先生が深々と頭を下げて謝罪を口にし、伯母さんは冷静に指摘した。
「私にではなく、娘にどうぞ」
そうやって頭を下げられても、正直スカッとはしなかった。ただ、悠哉がその様子を終始楽しげに笑って見ていたので、まぁいいか、と納得した。
「もし、このようなことが再発するのであれば、私たちは弁護士をお呼びして徹底的に責任追及を致します。そう言えば、階段から転落した現場には監視カメラがありましたね? その時刻のデータを頂いてもよろしいですね」
教頭先生はそのことを拒否しようとしていたが、弁護士を雇って強引に奪い取るというような言葉に沈黙した。
後日そのデータを渡すということで八者面談は終わった。
「うっひょー気分いいー!」
「寿司食って帰るか!」
学校を出たあとの伯父さんの一言で夕食が決まった。
祝勝会と口走った伯父さんは、伯母さんに頭を叩かれていた。
そうして伝説の2週間は終わりを迎えた。