2 惨火の左目
華道彩音は生きるに苦しむようなことはなかった。
仲の良い両親と懐いている猫。食うにも寝るにも困らない裕福な家庭に生まれ、普通に幸せに生きていた。
父は俳優だったが、なにか炎上するようなこともなく、祝福の声を受けながら結婚した。とにかく優しかったし、どこか剽軽な人で愉快な人だった。
母は俳優である父を全く知らなかった。美人であるせいで苦労したらしく。言い寄られることが凄く嫌いで、あまり交遊関係を広げない人だった。
そんな2人が結婚した理由は一目惚れだそうだ。お互いに。
彩音は両親を見て、子供らしく、いつか自分も母のような結婚がしたいと口にしていた。
家では猫の権力が強かった。彩音も猫には逆らえそうになかった。
彩音は猫を通して、相手のために相手の要求を突っぱねることを学んだ。相手のために相手を拒絶することは不思議だったが、しかし長生きして欲しいという気持ちがあったため、それを素直に受け入れた。
彩音は子供らしく家族が好きだった。そして兄妹のような親戚のことも好きだった。
父の妹と結婚した人の子供。つまりいとこ。それが天神悠哉だった。
なんでもかんでも分けてくれる男の子で、よくゲラゲラ笑う。そして猫に首ったけで、定期的に猫に負ける。膝の上で寝られて動けなくなるなど、物理的に負ける。
彩音は悠哉のことを頭が悪そうだと思うものの、素直で可愛いと思っていた。
悠哉とは家が近く、週に4回以上は会っていた。やがて小学生になると一緒に登下校していたため、会わない日の方が少なくなってしまった。
なにごともなく平和的だった。事件や事故に遭うこともなく、病気はインフルエンザにかかった悠哉が、蝶々がどうの、とヤバいことを言っていたぐらいだった。
このままなにも変わらず日々が続くと、疑うことすらしなかった。
彩音は夏休みに家族旅行に出掛けた。本来なら小学生になった祝いだったのだが、その時は父の仕事が忙しく、時間が取れなかった。
当時、ひたすらに謝る父を母は笑っていた。彩音は気の毒に思った。
天神家に猫を預けて、テーマパークに出掛けた。
非常に楽しかった。ジェットコースターには身長の都合で乗れなかったが、それ以外で乗れるアトラクションを楽しんだ。
悠哉へのお土産を選びは直ぐに終わった。
そのテーマパークのマスコットキャラクターの猫が好きだと言っていたからだ。とにかくもふもふしたぬいぐるみを見たときに、これ以外にない、そう考えてしまうほどで、家族からはもう少し見てみようと催促されたが、結局そのぬいぐるみ以上はなかった。
「お土産喜んでくれるといいね」
「うん。大丈夫。絶対!」
帰りの車の中で母にそう返事を返して、彩音は悠哉がどんな風に受けとるのか想像して笑っていた。遊び疲れていたが、しかしそれ以上に興奮していた。
それは一瞬で終わる。
ブレーキの甲高い音と強い衝撃で揺れる車、ガラスが砕ける音。
鉄筋を運んでいた大型のトラックが信号無視したバイクと激突、その衝撃でトラックがバランスを崩し、積んでいた鉄筋が放り出される。そしてそれが彩音の乗る車に直撃した。
彩音はそこで、父と母の血を浴びた。
彩音は左側頭部を強打し、朦朧とした薄れ行く意識のなかで、お土産のぬいぐるみが赤く染まっていくことが凄く悲しかったことを強く覚えていた。
目を覚ました時には、全てが変わっていた。
家族が、猫だけになってしまった。
父と母は即死。遺体は損壊が酷く、彩音が意識を失っている間に火葬を済ませたそうで、死に目にすら会うことは出来なかった。
彩音自身も左目を完全に失明。左肩から腕にかけて一生残る傷跡が出来た。現代医療、美容技術ですら消すことが出来ない傷跡。
生きていることが奇跡と言っていたことを覚えていたが、彩音はその奇跡を死ぬほど恨んだ。奇跡なら父も母も助けて欲しかった。
彩音はそれから悪夢を見るようになった。
家族とテーマパークで笑っていると、甲高いブレーキの音とガラスの砕ける音が聞こえてくる。そんな悪夢を見るようになった。
夜。彩音はあの日の強い揺れと共に目覚めた。
「はぁはぁはぁはぁはぁ……っはぁはぁ……」
荒い呼吸。吸っているのか吐いているのか自分でも分からないそれに彩音が苦しみ始めると、みー、と鳴き声が聞こえた。
唯一残った猫。アニエルがベッドの上によじ登って彩音の手の甲をペロペロと舐める。
彩音はアニエルを両手で抱き締めて、なんとか1人の寂しい夜を凌いだ。
しばらくして、彩音は天神家に引き取られることが決まった。
彩音はアニエルと自分の服などをまとめて、写真立てに入った家族写真を1つ。それ以外の写真はデータ化して天神家に引っ越した。
引っ越しは天神家の伯父さんと伯母さん、そして悠哉が手伝ってくれた。
家を離れるとき、とても寂しい気持ちになった。空っぽになってしまった家が、全てがなくなってしまったことを突きつけている。
ガチャリと家の扉が閉まる音が、嫌に耳に残った。
それを書き消すように、みー、とケージのなかでアニエルが鳴いた。
「大丈夫だよアニエル」
アニエルにそう声をかけると、悠哉が右手を彩音の前に差し出した。
「左が見えないんだろ? 手を繋ごう」
おっかなびっくり、恐々と、彩音は左手を伸ばしてその手を取った。
それから彩音の人生がまた、ゆっくりと進みだした。
夜に悪夢を見て、飛び起きて寂しい思いをしても、部屋にはアニエルはいた。そして左手は右手と繋がっていた。
右にはアニエル、左には悠哉。
やがてそこにいることが当たり前になっていった。
天神家に来てから、ゲームを触ったり、本を読んだり、室内で遊ぶことが増えた。
伯父さんはプロゲーマーとして有名人であり、とにかく様々なゲームを触った。
可愛い猫と触れ合うゲームから理解不能の怪物とのダンスバトルまで、本当に様々なジャンルを触った。
その中でVRゲームは、見えないはずの左側も見ることが出来たため、彩音はVRゲームに触れる時間が多くなっていった。
悠哉も一緒に遊んでいたが、目的のないほのぼのしたゲームは退屈そうにしていた。
1年が経過して、痛みが新しい日常に溶けていく頃、小学校で事件が起こった。
彩音の左腕の大ケガを見て、キモい、と口にした男の子を悠哉がぶん殴った。彩音はその傷跡を気にしていたためその悪口に傷付いたが、しかしそれよりも悠哉がぶん殴ったことに強い衝撃を受けた。
悠哉の行動があまりも早すぎた。スタスタと歩いていって、突然顔を殴り付けたのは普通に怖かった。
そこから喧嘩に発展し、ただ彩音はそれを止めることも出来ず見ていた。
それによって悠哉が怪我をしたことが悲しかった。
「気にしてないから、やめて」
「嫌だ。俺はムカついた」
「悠が怪我する方が嫌」
「俺も彩音に文句言われることが嫌だ」
悠哉は頑固で、俺は間違ってない、殴ったけど間違ってない、と意地でも謝らなかった。伯父さんも伯母さんは、問題を起こした悠哉を褒めた。
彩音は悠哉がいないタイミングで、伯母さんに気持ちを打ち明けた。
「伯母さん。私は悠が怪我することが嫌なの」
「そう。どうして?」
「見たくないから」
「それは悠も同じよ。大丈夫、悠は男の子だから怪我しても平気。なにかあったら頼りなさい。きっと彩音を助けてくれるから」
結局解決はしなかった。
釈然としないまま、また月日が流れた。
「赤目カッコいいなぁ…」
「なに、悠?」
「隻眼の赤ってカッコいいなって」
「赤が好きなだけでしょ?」
「白の方が好きだけどな~」
嫌みも、哀れみもない。純粋な言葉だと彩音は理解しているため、悠哉の言動に思うところはなかった。それどころか、彩音は鏡でこの赤を見る度に、自分の腕の傷跡を見る度に、陰鬱な気持ちになっていた。だが悠哉の言葉で少しだけ気持ちが軽くなっていた。
そんな矢先。中学生に進学し、2年生となった頃。
生徒指導の先生に目をつけられた。今年に赴任してきた男の先生で、高圧的だった。
確かに彩音の目の色は普通ではない。しかし事情を聞くよりも先に行動を起こしてしまうような先生には関係などない。
その時、彩音と悠哉は別のクラスで、その先生の言葉を悠哉は耳にしていなかった。
彩音は悠哉が先生に殴りかかることを恐れた。
黒のカラコンを用意するだけ、それだけで無駄な論争を穏便に終わらせることが出来る。
そんな考えはその先生が台無しにした。
「その目はいつまでに隠せますか?」
よりによって全体集会が始まる前の時間に、悠哉がいる時にそう口にしたのだ。
呼ばれた彩音の左側にいつの間にかスルリといた悠哉が、怪訝そうな声をあげた。
「…どゆこと?」
「なんでもない。ただ、この目が少しだけ気になっただけだから」
「ほーん? それで生徒指導? 先生、先生はこの目についてどう思います?」
あ、と彩音が焦る瞬間には先生が話し始めた。生徒指導の対象だと。
「へー」
「周りに合わせるのは大切だから。私は大丈夫だから」
1度、悠哉と一瞬だけ目があったが、悠哉はすぐに先生へ目を向けた。
その横顔は、軽薄そうな、人を舐めた表情をしていた。
「……先生暇なんですね。仕事してんの?」
集会が始まり、その集まりは1度解散したが、悠哉は当たり前のように生徒指導室への出頭を命じられた。
全体集会が終わると、なんてことない顔で悠哉は彩音が恐れていたことを口にした。
「おーう、彩音。しばらく継羽か、啓司の奴に手伝って貰ってくれ。俺はちょっと喧嘩してくる」
「私は大丈夫だから」
「俺が頭にキてる。すげーキてる。殴らんと無理」
「暴力は本当にダメ。事件になる」
「ははー。分かってるよ。流石に小学生の頃にやったからな、学んだ。言葉だけでなんとかするわ」
変わらないと思っていた悠哉は、普通に常識的になっていた。
そんな悠哉になにを言うべきか迷って、彩音は一言、一番望んでいることを口にした。
「早く戻ってきてね」
「本当に殴って良いなら一瞬だけどな~」
カラカラと笑いながら、悠哉は体育館からそそくさと出ていった。
それからの2週間は、上城中学伝説の2週間になった。
悠哉は初日から呼び出された生徒指導室から途中で退室し、放課後の呼び出しに完全無視を決めた。
2日目も同じように、他の先生からの言葉もあったが、生徒指導室に向かうことはなく、平気な顔をして帰宅。
3日目、校門の前で待機していた先生をスルー。肩に手を置かれるも悠哉は目も合わせずに歩いていった。
4日目、教室に乗り込んできた生徒指導の先生とその場で会話。「なんで俺がわざわざ用事のねぇ生徒指導室に向かわなきゃなんねーんだ」なんて言葉を吐いたらしい。授業の邪魔になると言って、放課後に生徒指導室に来るようにと言われるも、またそれをスルーして帰宅。
5日目、なにごとも起こらず、黒色のカラコンを入れて登校した彩音に、悠哉が嫌そうな顔をして終わった。
「なにしているの?」
土曜日、リビングでなにやら嫌そうな顔をして、左耳に手を伸ばしている悠哉がいた。
「痛ってー…なかなか痛ってー。1つだけで十分だよなぁ」
眉間にシワを寄せている悠哉を、なにをしているのだろうかと首をかしげて見ていると、やがて悠哉が左手に握っていた物を目の前に持ってきた。
「開けたの!?」
「開けた。クソ痛てー…」
「なんで?!」
「クソ野郎に喧嘩売るため」
案の定、悠哉は伯父さんと伯母さんに叱られていたが、しかし悠哉は毅然とした態度で、「俺のやっていることは間違っているかも知れないけど、間違ったことをそのまま知らん顔出来ないから嫌だ。ピアス貸してくれ」と口にして、最終的に喧嘩を許可された。
彩音の意見は、知ったことではない、と一蹴された。
昔より少し成長したと思っていたのに、本質は何も変わっていないことに気付いた。
始まりの6日目、悠哉が左耳に赤色のピアスを垂れ下げて、学校指定の制服の上から私服のジャンパーを羽織って登校した。案の定生徒指導室への出頭を命じられるも、それをスルーして何食わぬ顔で授業を受けていた。放課後、まるで読んでいたかのように校門で待っていた生徒指導の先生と口論をしたのちにそのまま帰宅。
異常者の7日目、彩音は朝のホームルームの途中で、悠哉のいる2年3組の担任に呼び出された。
「華道。天神のことなんだが…なにかあったのか?」
生徒指導の先生が呼び出すということが起こっているのに、全くなにも知らないのだと彩音は内心で呆れ果てた。
「どうにも気に食わないことがあるらしく、あえてそうしているみたいです」
「…悪い先輩の影響を受けた訳ではないんだな?」
「ピアスなら嫌そうにして自分で開けてましたよ」
しかめっ面で左耳のことを気にしている悠哉を思い出しながら彩音は答えた。
「うーん。そうだなぁ。何が気に食わないのか知っているのか?」
彩音は、自分の左目を指導対象と言っていたからだそうです、とは言いにくかった。
「知っていますが…どうにも生徒指導の先生が嫌いだそうで……」
「嫌い…嫌いかぁ……。なんとか出来ないか?」
「無理ですね。私の話は聞きませんよ。きっと誰の話も聞きません」
事実を淡々と告げると、悠哉の担任は困った顔でなんとかして欲しいと繰り返した。
「三者面談をすることになるのは…あまりしたくなくてな」
彩音はそれが本音だと、なんとなく目の前の先生の考えを読んだ。
「分かりました。無駄だと思いますが話してみます。失礼します」
昼休憩に悠哉のクラスに顔を出すと、すぐに悠哉が出てきた。
その日も悠哉は許可されていないジャンパーにピアスを着けており、その姿は昨日よりも悪化していた。ベルトが柄のついた白いベルトに変わっている。
「よう。なんかあったか?」
「なにかあったのは悠哉の方だよ」
左側に居てサポートしてくれている継羽が鋭い言葉を返した。
「いや~決まりごとを破るっての快感だな。だけど、いい気分とは言いづらい。知らん奴からはジロジロと見られるし、知らん先生から事情聴取されるし、めんどくせぇ」
「辞めないの?」
「無理。アイツが認めるまで辞めない」
「それは……認められないよ」
「ははー。だろうね。で、彩音はなんかよう?」
「いいや。用事は終わったよ」
話す前から答えが決まっていたのだから、そう言うしかなかった。
「あー…あ? まぁいいか。ようがないなら今の俺に近寄らん方がいい。面倒ごとに巻き込まれるぞ。じゃな」
伝説の8日目、悠哉がついに自転車で学校に登校した。