三味線
三味線…… 楽器の怪談です。楽器だけじゃないけれど。
番組で放送された中で一番評判が良かった(悪かった?)
お話だったかと思います。これを書いた経緯や詳細は、
語るだけでネタバレになりさなので、それは後書きで……
あと「三味線」というタイトルからして、もしかして
まさか動物虐待ネタではないかと心配されておられる
方もいらっしゃるかもしれませんので、わしの大好き
なあの映画(←どの映画?)の例に倣い公式ネタバレ
しておきます。
「猫は無事です」
だから猫好きの人も安心して読んでくださいたまけん。
ちなみに……
「犬も無事です」(←あの映画だ!)
私は心優しき動物好きで倫理と道徳を尊重する人権派、
ほのぼの癒し系の吟遊詩人な語り部でもありますから、
たとえフィクションであっても動物虐待やグロテスク
な残酷描写などはどうしても書けないんですよ、はい。
ああいう悪趣味なモノを好んで書く人の感性や価値観
や人間性が信じられません。どんなに偽善だ、欺瞞だ、
軟弱だと批判されようと、私はハートウォーミングで
マイルドな作風を目指します。誓ってこの作品には、
いや、私のどの作品にも!動物虐待の、残酷だったり
凄惨だったり読むに堪えない描写は一切出てきません。
嘘は申しません。本当です。安心して読んでください。
猫は無事です。
犬も無事です。
まあ動物はね!
三年前、私は三味線を習っていました。
勤めていた会社の福利厚生の一環で、当時追加された
ばかりの、手軽なお稽古ごとのカルチャー講座でした。
先生は、新橋で芸者としてお座敷に上がっていた方で、
物腰が上品で柔らかく、教え方も優しくて丁寧でした。
何をやっても長続きしない、飽きっぽい性分の私が、
自分でも意外なほど熱心に、お稽古に通っていました。
その日も、夕方の勤務を終えると、友人からの食事の
誘いも断り、ようやく手に馴染み始めた三味線を抱え、
いそいそと先生のお宅に向かいました。
早く着いた私を、先生はお稽古用に開放された客間に
通してくださいました。硝子障子から見える庭には、
大きな老犬が寝ているのが見えます。他の生徒が来る
前に、課題曲の難しかった部分などの話をしていると、
先生は、熱心にアドバイスをして下さいました。
「まあ、実際に弾いて見せた方が分かりやすいかしら。
少し待っててちょうだいね」
先生は、自分の三味線を取りに客間を出ていきました。
私は一人、正座して待っていました。
すると、老犬の悲しげな鳴き声が聞こえてきたのです。
外を見ると、犬は体を起こし、母屋と縁側で繋がった
離れに向かって、必死に体を伸ばしていました。犬の
視線の先に、髪の長い少女が、縁側を歩いていくのが
見えました。地味なワンピースの、小柄な後ろ姿……
その子は、犬がどんなに鼻を鳴らしても注意を向けず、
開いた障子から離れに入っていきました。
それ以外には特に何事もなく、その日は終わりました。
しかし、数日後のお稽古日のことです。
先生の弾くお手本に合わせ、生徒たちが自分の三味線
を弾いていると、別の三味線の音が聞こえてきました。
どうやら、離れで、あの女の子が弾き始めたようです。
奔放というより乱暴で、調子外れで、初心者の私たち
にも、お世辞にも上手でないことは分かりました。
先生は目を伏せ、無心に三味線を弾き続けていました。
ただ、先生の撥に、力が入っていくのが分かりました。
それに合わせてあの調子外れな音も高まっていきます。
異様な空気が漂い始めて、私たちの手も止まりました。
先生のこめかみに汗が一筋流れます。もはやお手本の
様相は呈していませんでした。相手の三味線が形振り
構わずぶつけてくる激しい感情を、何とか受け止め、
宥めようとしているのか、先生もまた形振り構わず、
懸命に、荒々しく撥を叩きつけ、かき鳴らして……
老犬の悲しげな鳴き声が聞こえた瞬間、先生の三味線
の糸が切れました。離れの三味線も鳴りやみました。
私たちが息を呑んで見守っていると、汗まみれの先生
は、ひび割れ、震える声でこう言いました。
「ごめんなさいね……今日はここまでにしましょう」
それ以降、お稽古はたびたびお休みになりました。
先生は見るからにやつれ、つらそうでしたが、理由を
聞くのは憚られました。最初は何人もいた生徒たちも、
週を追うごとに減っていって、気がついたら私とあと
一人だけになってしまいました。
その日、仕事の都合で少し遅れて着いた私が、框で靴
を脱いでいると、誰かがすごい勢いで飛び出してきて、
私にぶつかりました。驚いて顔を上げると、最後まで
お稽古に参加していた、もうひとりの子でした。
「ちょっと! どうしたの?」
「ごめん! 私、もうやめるから! あなたもやめた方
がいいよ! ここ、ヤバい……ヤバすぎる!」
そういって、靴を履き終えた彼女は、脇目も振らずに
玄関から飛び出していきました。
戸惑って茫然としていると、またもあの調子はずれな
三味線の音が聞こえてきました。
少し躊躇しましたが、彼女が、一体何を見てあんなに
怯えたのかが、どうしても気になります。
私は、意を決して、家の中に入っていきました。
客間には誰もいません。硝子障子を開け、縁側を渡り、
離れへと向かいました。
老犬が、庭からじっと私を見つめていました。
あの三味線の音は、離れの閉じられた障子の向うから
聞こえてきました。私は深く息を吸い込んで、障子を
ゆっくりと開けました。
先生が、くすんだ色の、古びた三味線を、一心不乱に
かき鳴らしていました。微妙に違和感を感じましたが、
それが何なのか、そのときはまだ分かりませんでした。
先生の背後に、あのワンピースの少女が、後ろ向きに
立って……あれ? 今、確かにいたはずなのに……?
先生は手を止めると、私を見上げて、こう言いました。
「ごめんなさい。今日でお稽古は終わりです……お月謝は、
会社の方に、ちゃんと返金しておきますから」
「でも……でも、なぜなんですか、先生!?」
「娘が……娘がね、ひどく焼餅を焼いてしまうんですよ……
あなたたちのように、若くて綺麗な女性を見ると……」
そういって先生は、撥を置くと、膝に載せた三味線を、
優しく愛しげに撫でさすりました。
「先生……やはり、お子様がいらっしゃったんですか?」
「ええ……ずっと昔に、死んじゃったんですけどね……私が
お座敷に上がっている夜、アパートが火事になって……」
先生は涙をこぼし、引き絞るような嗚咽を漏らしました。
「不憫でねえ……可哀想に、全身黒焦げになっちゃって……
だけど、幸い、俯せに倒れていたから、顔は……
あの可愛らしい顔だけは、無事で……ほら!」
先生は、三味線を、ぐいと私の方に突き出しました。
私は、喉に込み上げてくる悲鳴を懸命に飲み込みました。
その三味線は、本来ならば猫や犬などの皮を張る部分に、
人間の……瞼や鼻や口が丁寧に縫い閉じられた、人間の、
まだ幼い少女の、顔の皮が張られていたのです。
誰かが、強い力で私の服の裾を引っ張ってきました。
私は成す術もなく振り返りました。
すぐ目の前に、少女が立っていました。
顔面の皮膚を全て剥ぎ取られ、剥き出しになった表情筋に
血と脂を滴らせながら、憎悪を込めて私を……私の顔を、
妬ましげに睨みつける、少女が……
【註:多分にネタバレを含むので本編を読んでから閲覧推奨】
ほら、嘘じゃなかったでしょ、猫も犬も無事だったべな?
そもそもこの話は動物の話ではなく、皮の話ですからね。
しかし怖い話には皮がテーマのものが意外と多いですね。
まあ何といっても文字通り “皮の顔” レザーフェイスが
大活躍する「悪魔のいけにえ」それから悪魔を呼び出す
魔導書の表紙が人の顔面の皮だった「死霊のはらわた」、
大好きな阿刀田高先生の短編にも皮ネタはありましたね。
というか、私が皮ネタの怪談で一番最初に読んだ短編は、
阿刀田先生『恐怖夜話』収録の、あの話だったかもです。
あれ、怖かったですねえ。あと、ロアルド・ダール先生
も偏執的な皮の怪談をいくつも書いてますし、漫画なら
さすがの猿飛の細野不二彦先生のホラー作品「ジャッジ」
でもやはり皮の話が出てきますね。楳図かずお先生にも
伊藤潤二先生にも日野日出志先生にも、皮とか肌とかが
テーマの作品は本当に多いですね。人類根源の恐怖心、
文字通り“皮膚感覚”を生理的に刺激するからでしょうか。
人の美醜など皮一枚の違いなどとも申しますが、だから
こそいろんな意味で、いろんな皮が大事なんですよねえ。
まあ食べたらコラーゲン豊富で、お肌ぷりぷりですしね。
私もトリキでは必ずトリカワ塩を注文します、ええ。